イザベラ・バード(1831~1904)が見た朝鮮・・ 李氏朝鮮末期を旅したイギリス人女性の素直な叙述「日本奥地紀行」で有名なイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、日本以外にもアメリカ西部、マレー半島、チベット、オーストラリア、ペルシアなど様々な地を旅しては旅行記を残しています。 彼女は、1894年(明治27年)~1897年(明治30年)の間に、4回も李氏朝鮮を訪れている。
バードは極東滞在中の1894年(明治27年)から1897年(明治30年)の4年間で李氏朝鮮末期と大韓帝国初期の朝鮮半島を4回も旅しています。 この旅行記の中でバードは、朝鮮半島の自然の美しさや国土の豊かさを讃え、朝鮮王朝の王族たちの人柄に魅せられつつも、人々を貧困たらしめ怠惰に向かわせる官僚機構や政治制度を批判しています。 朝鮮が貧しい全ての元凶は人々を搾取する統治制度にあり、適切な指導が行われれば朝鮮は豊かな国になるだろうと希望を抱いていますが、ひとり立ちするのは不可能であり、ロシアか日本、あるいはその両方の保護の元で改革を進めるべきであろうとしています。 ●朝鮮の社会と民族性について・・ ・1897年(日清戦争後の日本の主導)に訪れた時はソウルの街は見違えるように清潔になっていた。 ・商業を起業しても役人にたかられて、発展を阻害され大成出来ない。 ●風土について・・ 1. 釜山・ソウルの街並みについて・・ 1894年2月(明治27年・日清戦争時代)、イザベラ・バードは長崎から船で15時間かけて釜山に上陸しました。 当時の釜山は日本人が大勢貿易に携わる活気のある町で、朝鮮人はほとんど目立たない印象を受けたようです。 釜山の居留地はどの点から見ても日本である。5508人という在留日本人の増加に加え、日本人漁師8000人という水上生活者の人口があった。
●釜山・・日本人街から山腹に細い小道が3マイル(約5km)ばかり続いている。この小道は、私が最後に見たときは無人だったが、官衙(官舎)もある小さな清国人居留地を通り、その終点に、城壁に囲まれた釜山の旧市街がある。 高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉軍による植林によるものと記し「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」と書いている。
岸辺の岩場に坐っているのは、ペリカンかペンギンを思わせる白い物体の群れであるが、そのような姿が人間そっくりの足取りで釜山の新旧市街間を止めどなく行き交うところをみると、坐っている物体もどうやら人間らしく見える。その様な朝鮮人の姿はわたしの目には奇異に映った。 清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっと見栄えがよくて、体格は日本人より遥かに立派である。 その後バードは船で首都ソウルに向かいました。 第一印象では不潔で風格もなければ風景の特徴もないという印象を持ったようですが、その後の滞在が長引くにつれ、ソウルという町の自然の魅力や美しさに魅了されていったようです。 ●ソウル・・「都会であり首都であるソウル城内は、そのお粗末さは実に形容し難く「描写するのは勘弁して戴きたいというほどキタナイ場所」であると記しています。 王室への儀礼上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は、主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。 路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間ならかろうじてすれ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞尿や汚物を受ける穴か溝で更に狭まっている。 酷い悪臭のするその穴や溝の横で好んで集まるのが、土ぼこりと垢にまみれた半裸の子供たちと疥癬虫(かいせんちゅう)持ちで霞み目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ廻ったりしている。
ソウルの景色のひとつは小川というか下水というかの水路である。 蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利や砂だった川床に、堆積した排泄物やゴミの間を、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。 水ならぬ濁り水を手桶に汲んだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。 ソウルには芸術品が全く無く、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。 他の都会なら当然有るべき魅力が、ソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。 結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでも有る、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここには無い。 私は昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、言葉にならないみすぼらしさと色あせた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点では、他に比類がない。 中世風の行列、人で混雑した路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押し寄せる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みが感じられる。 然し人は始めからそのように「呑みこめる」ものではなかった。 ところが数度訪問する内に、私は推定人口25万のこの都市が世界有数の首都に値すること、ソウルの四季折々の風景、春に色づく山腹の美しさや、濃い緑に覆われた山が続くかと思えば突如切り立った峰が現れたりする変化に富んだ地形、優雅な田園地帯や美しい木立を讃え、周辺自然の美しさに恵まれた首都は稀なことを評価するに至った事を充分に悟ったのである。 一年かけて付き合った後、朝鮮の自然を美的に感じ取っていたようです。
イサベラバードは今でいうバックパッカーで、へんぴな処へも足を運んで行ってしまう人です。 そして基本的には人付き合いよりは自然と戯れることが好きで、都市の不潔さや雑然はさておいて、自然の美しさや半自然の庭園などに心惹かれていったようです。 イザベラバードの旅したコース➔
2.朝鮮人庶民の様子 バードはソウルから船に乗って漢江の上流を目指す旅に向かいます。 その自然や農村風景の美しさに感嘆しつつ、怠け者の船頭や好奇の目で見てくる民衆にイライラしながらも旅は続くのですが、農村や一般住民の暮らしは悪くはないが、必要以上の金銭や物資を「あえて持たない」ようにしていると指摘しています。
貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくはない。自分たちばかり朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めて来て、誰も彼もが満たせるだけの生活必需品はある。 負債はおそらく全員がかかえている。 借金という重荷を背負っていない朝鮮人は全くまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資が貧窮していて、堕胎であるように見えると当初はそう思っていた。 しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」と噂された者、たとえそれが真鍮の食器でやっと食事がとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目を付けられて搾取されたり、近くの両班から借金を申し込まれたりするのが落ち・・となるのである。 朝鮮の災いのもとの一つに、この両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。
両班は自からの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそり他の縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。 両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。 身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず、住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。
両班は慣例上、この階級に属する者は上行をするとき、大勢のお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の罪をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。
その為、一般の朝鮮人は命と家族を守るために、あえて働かず稼がず、必要最小限のものだけを持って細々と生活するしかないというわけです。 朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得が出来なくなるという、私利私欲のために改革に反対していた」とし、「大韓帝国独立後、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に、保護国として日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と書いている。 バードは朝鮮人の「怠惰さ」が生来のものなのか、あるいは制度がそうさせているのか考えますが、後に満州のロシア人支配地区でキビキビと働き豊かに暮らす朝鮮人を目の当たりにし、きちんと制度が整えば朝鮮はきっと豊かになるに違いないし、漢江周辺の田畑も十分に開墾されていないため、経済発展の可能性は大いにあると考えています。 気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱とか盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪癖が強力な手段で阻止されたなら、おして地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民は日本の農民に負けず劣らず勤勉で幸福になれる筈なのである。 その一方で、朝鮮人の大食漢ぶりも描写されています。当時の朝鮮人は、身分問わずメチャクチャ食うと描かれており、「貧しい者=食えない者」と結びつけがちな日本人と少し感覚が違うようにも思います。 他のところでもよく目撃したが、中台里でもわたしは朝鮮の人々の極端な大食ぶりを目の当たりにした。彼らは飢えを満たすためではなく、飽食感を味わうために食べるのです。
大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事の良さは質より量で決められ、1日4ポンド(1.8kg)のごはんを食べても困らないよう、胃にできる限りの容量と伸縮性を持たせるのが幼い頃からの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量の果物、木の実、菓子を食間にとるが、それでも次の食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度で臨む。 私は朝鮮人が一度の食事で3ポンド(1.3kg)はゆうにある肉を食べるのをみたことがある。「一食分」が大量なのに、1日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事も出来ないほど貧しい人と見なされ兼ねない。一度の食事で20個から25個のモモや小ぶりの瓜が皮もむかれずに無くなってしまうのはざらである。 3. 朝鮮のシャーマニズム バードは「朝鮮には宗教がない」と述べています。その代わり、「とても宗教とは呼べない」民間信仰が人々を支配しており、それは東北アジアのシャーマニズムを基礎に仏教の影響も受け、朝鮮で独自にローカライズされたものとしています。 朝鮮の民間信仰では、土地、空気、海には鬼神が棲んでいるとされる。鬼神は葉陰をなす木立、薄暗い渓谷、山の頂には例外なく宿っている。緑の山腹、田畑のあるのどかな谷間、小さな谷の草地、林のある高台、湖や川のほとり道端、東、西、南、北に鬼神は無数にいて、人間の運命をもてあそぶ。鬼神は屋根、天井、かまど、暖房床、梁にもかならずいる。煙突、物置、居間、台所にもいれば、棚やかめにもことごとく宿っている。朝鮮人は唯一持っているというべきこの信仰のおかげで四六時中、心が休まらず、限りない恐怖にさらされ、実のところ「怖がり通しで、この世の時間を過ごしている」と言えるほどである。 朝鮮人は降りかかる災難の原因はすべて鬼神のせいだと思っており、鬼神の怒りが自分に向いたため病気や失敗、貧困などが起こったとみなす。そのため、鬼神をなだめ怒りを解くパンスやムダンというシャーマンが重要な存在となっていた。 シャーマンによる祭儀は絶大な効果があると信じられており、貧乏人でも着物を売ってでも金を工面して「悪霊払い」を受けようとします。 4. 朝鮮の王族たち バードは朝鮮滞在中、当時の王族たちと個人的に親しくなり、何度も宮殿を訪ねて親交を深めています。 当時の王妃は後に暗殺された閔妃です。 王妃はそのとき40歳を過ぎていたが、ほっそりとしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。話はじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、限りなく美しいものを帯びていた。私は王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才能に感服した。 同時に国王の高宗にも謁見しています。高宗は歴史的には、主体性がなく弱気で、外国に翻弄された挙句、国を滅ぼした無能な君主という評価がありますが、バードも「人は好いが君主としての技量に欠ける」と述べています。 国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、薄い口ひげと皇帝ひげを蓄えていた。落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居住いや物腰に威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。 国王は心やさしく温和である分、性格が弱く人の言いなりだった。 3度にわたって謁見を繰り返し、「好人物だが意志薄弱で人の言いなりの国王」「キレ者で王を良いように操る王妃」「実権を閔妃から取り戻すべく、陰謀を企てる国王の父・大院君」を中心に繰り広げられる王族たちの戦いに国政の混乱の元を見ますが、国王夫妻とのふれあいはバードに好印象を与えたのです。 高宗と閔妃の息子は、後に純宗という名で李完用ら親日派に担がれて国王になる人物です。韓国併合後は王族として暮らしています。純宗は知的障害があった可能性が指摘されており、バードも謁見時にそのように感じています。 皇太子は肥満体で、あいにく強度の近視であるのに作法上眼鏡をかけることが許されず、そのときは私に限らずだれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。彼は一人息子で母親に溺愛されていた。王妃は皇太子の健康について常時気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々晒されていた。謁見中の大部分を母と息子は手を取り合って坐っていた。 李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主 |
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