➀「本間九介」という日本人が明治27年に朝鮮を旅行した旅行記「朝鮮雑記」の副題は「日本人が見た1894年の李氏朝鮮」である。
日清戦争(1894年~1897年)のころの朝鮮と朝鮮人たちの様子です。
そこに書かれた朝鮮人たちは貧しくて、汚くて、腐敗していて、卑怯で、怠惰な人々として描かれている。
同じ時期、朝鮮を旅行した西洋人たちが残した文面とほぼ同一で、否定的な観察が多くみられる。
西洋人の場合は朝鮮人の民族性ではなく、朝鮮と政治制度の問題を本質的な原因として見ているが、本間はそのような構造解析には及ばないが人々の生活を鋭く見抜いている。
彼は旅行中に体験した事実を中心に、次のように紹介しています。
●1・・「残飯を欲しがる」という小見出しの記事では、宿主が食べ物の準備をして、本間が食べようとしたときに起きた騒動を紹介している。
本間がスプーンを持った瞬間に、隣人が旅館に入ってきた。
宿屋の主人が詰問した。隣人は、「私は日本人がどのようにして食べるのかを見ようとしたのである。怒るな」と言う。
宿屋の主人は「お前がこのタイミングでやってきたのは、お客さんの食べ残しを食べようとしたからではないか。珍客が残した食べ物を、どうしてお前なんかに与えるものか」と叫ぶ。
隣人は「疑うなら帰る」といって去る。
本間は、隣人を人間扱いしない主人に怒ったが、じっくり考えてみると、実際に残飯を待っていたのは宿屋の主人ではないかという気がしたという。
「衣食足りて礼節を知る」という習俗が、この国に有るというのは考えられない。
●2・・「官吏はすべて泥棒だ」という小見出しの文は、民を搾取する腐敗した官吏の話である。
ある外国人が朝鮮人に言った言葉を引用した。
「あなたの国の官吏は勝手に民の財産を奪う。公盗である。公的な人間が民を苦しめる。盗人よりも悪質である。なぜあんな泥棒を排除して国を正してゆくという考えを持たないのだろう」
本間は、朝鮮人たちが官吏の虐政にあまりにも長い間慣れてしまって、何の問題意識すら感じなくなっていると評している。
子々孫々、遺伝子からその運命を受け入れてしまっているのであろう。
●3・・本間は「朝鮮は腐った卵のようだ。孵化する力がない」とした。
「腐った卵から孵化するか。自らの力で殻を破って出てきて鳴けるだろうか」と問うている。改善する意識すら育っていない。
●4・・本間が慶尚道の陜川である家に滞在したときに目撃した「官吏の横暴」だ。いきなり3~4人の官吏が現れ、家の主人を捕縛し、連れて行こうとした。
村の人々が集まって、善処を訴えても見向きもしない。
この家の奥さんが2貫程度の小銭の包みを持ってきて捧げた。
官吏は突然表情が柔らかくなり、主人を解放し、お金を貰って立ち去った。
何の罪を犯したのかと尋ねると、事情は簡単だった。
郡守が近くを通過したとき、この家の主人がキセルを口にくわえていたのが不敬罪として捕まえられたのだった。
●5・・この国の中流以上の妻は、重病にかかっても、医師の診断を受けることができない。
せいぜい手を出して脈拍をはかる程度である。
この国の婦女子は重病にかかっても医師からきちんとした治療も受けられずに死ぬ運命だ。
●6・・この国の武芸は「弓術」だけだ。
朝鮮での弓戯
●7・・朝鮮の山々は禿山だ。
薪用に使い植林しないので、小さな干ばつでも水が枯れて農業が壊れる。
収穫が困難になると、親は子供を金持ちや中国人に売って穀物を買っている。
●8・・朝鮮での喧嘩は激しい口喧嘩から始まり、汚らしく胸ぐらや髪の毛をつかみ合って威嚇して終わる。 朝鮮には決闘文化がない。
●9・・朝鮮は全てが汚い。
魚や野菜はほとんど腐っていて、調理している場面を見ると、かなりの豪傑でもスプーンを持ち上げることができなくなる。
●10・・何処の道も狭い。
釜山からソウルまで、大路という道ですら、一人がやっと通れるほどである。
新羅時代には一般人も牛車を利用するほど道路が整備されていたというのに、朝鮮はなぜこうなったのか?
ソウルから北に行くと道が広くなるが、これは中国の使臣のためだろうか?
●11・・ここの役人、すなわち武官は、武芸も知らず戦法も知らない。
彼らは兵士を率いて祖国を守るという考えすらない。
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⓶ エルンスト・フォンヘッセ・バルテッグ (Ernst von hesse-Wartegg=1854~1918)は世界旅行中に日本・朝鮮へ立寄った。
その過程で1894年に朝鮮旅行をした。
朝鮮半島が最もキナ臭い東学農民運動、日清戦争そして甲午更張などが続いた時期だ。
朝鮮半島の120年余り前の姿はどうだったのだろうか?
このオーストリアの旅行家は、釜山、済物浦、ソウルについての生々しい描写を残している。
貧しくて汚い。男は仕事をしない。賭けごとに熱心だ。仕事は女性がしている。その女性たちはあまりにも犠牲的で勤勉である。
施政・官吏が腐敗しており、搾取だけしているので庶民は働く意欲が生まれない。人々の体格はよく、持って生まれた健康体質である。
性質が良いので良い政府なら短期間で成長する。
●1・・バルテックはソウルのみすぼらしさに驚く。
ソウル(漢陽・ハンヤン=当時の呼称)は途方もなく汚かったが伝染病の発生は少なかった。
「今まで私が見てきた都市の中でもソウルは確かに最も奇妙な都市だ。
25万人ほどが居住する大都市で、5万軒余りの家が殆んど藁ぶき屋根の土作りの家であるところが、世界の何処にあるだろうか?
欧州旅行者のための宿泊施設が一切無い、地球上で唯一の首都であり、王の居住地でもあるのだ。
今まで私が見てきた都市の中でも、ソウルは確実に最も奇妙な都市だ。
光化門の見える京城風景 (1895年)
藁屋根群落のソウル市街全景 1895年(明治28年)
右前方遥かに光化門と景福宮が見える
ソウル 南大門大通り (1888年)
最も重要な大通りに下水が流れ込んで、溝になっている不潔な都市が他にあるだろうか?
ソウルは産業も、煙突も、ガラス窓も、階段もない都市、劇場や喫茶店、公園や庭園、床屋もない都市だ。
家には家具やベッドもなく、便所は直接道路周辺にしている。
宗教も街灯も上水道も馬車も報道もない。
男女に関係なく、全住民が色も柄も無い白い服を着ていながら、他の場所よりも汚い糞尿都市が他にあるだろうか?こんな国が他にあるのか?」
その一方で、ソウルは決して健康に害になるところではなく伝染病の発生などは珍しい。その理由は一方では冬が非常に苛酷で、長い間の雪と氷そして寒さが伝染病の発生を防ぎ、他の一方では夏の夕立ちが汚物を洗い流して行ったからだろう。それでも残った汚物は犬が食べてしまう。
犬は最も忠実で、家屋内を清掃する廃物清掃夫なのだ。
彼は男の怠惰と女の勤勉さを複数回対照させる。
「私は男が働いている姿を一度も見なかった。
彼らは家の中や家の前にしゃがんで座り、小さな中国パイプを口にくわえてのんびりしたり、一団となって集まって遊んだり、寝たりしていた。
ソウルの町角で・・
一方で、小さくて苦労のために痩せた女性は家事を引き受け、調理し、洗濯をしていた。 すべての労働は女性の仕事だ。
まさにこの国は女性を尊重していない民族で、女性を尊重していない民族は文化水準が低いという事実が証明されている。
朝鮮の女性たちは、荷台の動物以下の存在である。
男性は女性という奴隷を持つために結婚するようだ」
光化門前の河川で洗濯する女性
京城の市街風景
なぜ朝鮮男性は仕事をせず怠惰なのか。
著者の観察が鋭い。
「男性は仕事をする必要を感じない。欲が少ないからである。家は自ら作り、生活の道具は単純である。妻が菜園を育て、タバコや少しの肉を買うためにお金が必要な場合、日雇いをしたり、妻を働きに出す。仕事をしたくない理由は、『生計維持費よりも多くのお金を稼ぐと、官吏に奪われるから』ということである」
彼には朝鮮の首都・漢陽(ソウル)は大層珍しかったようだ。
大都市としての秩序が整っておらず、汚いのに伝染病が流行しない場所だった。旅行記の通りなら朝鮮は発達した文明国家から来た人々が仰天する様な場所だった。
「長期にわたる壊れた政治」が国民の生活レベルまでどん底にしたようだ。
●2・・王は神聖な存在なので特別な待遇を受けた。
「朝鮮で王はどれほど神聖視されているかは他の指針でも見られる。 王の前では誰も眼鏡をかけることはできない。馬に乗った人は王宮が近づけば降りなければならない。王の肖像はコインや張り紙にできない。なぜなら王の肖像に国民が触れると王を冒とくすることになるからだ。従って朝鮮人にはヨーロッパのコインはまったく理解できない。
鉄でできた物が王の体に触れてはならない。
1800年、恭靖大王(定宗・チョンジョン)が悪性腫瘍で死んだのは手術用メスで腫瘍を切ることがこの礼法に外れたためだ。何年か前にある王子が自身の腕に手術を行えるようやむなく許諾した。
但しその後、彼は自分の気の毒な主治医の命を救うために様々なことをしなければならなかった。礼法を破った罪で王が主治医を斬首刑に処することに決めたのだ。」
王政になじむヨーロッパ人の目にも珍しいほど、朝鮮の王は特権を享受した。その特権を保持しながら庶民のため善政を行ったら良かったのだが、それが出来なかった。そしてこの様な特権の行使は各種の科学や技術の発展を妨げる行為となってしまった。
鉄で作った物が王あるいは王子の体に触れてはいけないという礼法は手術を不可能にさせた。技術の進歩は、力がある者から利用し始めてこそ発展するようになるのが常である。
上層部から詰まっているので科学的基盤の医術は全く発展できなかった。
●3・・官吏になるために漢字が書かれた本で勉強している。
「官吏職に関心を持つ若者たちは事情が違う。彼らは‘漢文’すなわち漢字を勉強し始める。このために独自の教科書があって、この本には漢字と朝鮮字が載っていて、字のそばに中国式発音と朝鮮式発音が大きな文字で書いてある。なので不思議に一音節や一単語を意味する同じ字が朝鮮と中国では互いに違うように発音される。字が全部使えるようになれば中国の古い判例が説明され、歴史的主題に関するエッセイや詩のようなものを書く宿題が与えられる。数学や地理学は付随的であり、国家試験を受けるのに他の学問は不要だ。まだ朝鮮人は古代ギリシャ人のように地球が平たい板だと信じている」
●4・・著者は日本から船に乗って釜山港に入ってくるときの感じをこう書いている。 「朝鮮の殺伐とした岩礁海岸が正面から私たちを睨んでいる。
見ていると、最悪の野蛮国家という評判を受けている半島国家に対する驚きと、日本と朝鮮の間にあった数世紀前の流血の戦いと、そして朝鮮の支配者がわずか10年余り前にカトリック信者を殺害した血の海を思い出した。
海の真ん中にそびえる5つの石を指している船長の手振りが、私を思いから目覚めさせた。
その横を通過しながら、私たちは遠くから日本人居住地の白い家を見て、すぐにそこに停泊した」
●5・・著者は農村ではなく釜山、ソウル、済物浦などの都市だけみたのであるが、その失業状態に驚愕する。
「彼らが絶対しないことが一つある。まさに仕事である。おそらく死んでしまったこの国には仕事がないからだろう。仕事をする機会が多い港の朝鮮人は勤勉で忍耐がある。中国人のように忍耐力があって満州人のように力がある。女性が働く町はきれいである。女性は感動的な勤勉と感嘆に値する忍耐力でその義務を果たす」
●6・・日本人に対する好評価が対照的である。
「日本は済物浦に進駐し、すでに首都にも進駐した。それでも日本軍は朝鮮軍より振る舞いがよい。彼らはすべての商品を現金で購入し、礼儀正しく行動し、酒に酔ったりせず、規律がある。日本の将校たちは礼儀正しくて教養がある」
著者はこのような搾取型の官吏が朝鮮の没落と、ここに蔓延する悲惨さの最も主要な原因であると強調している。
官吏の貪欲さにより、個人の利益獲得と所有に対する人々の欲求や労働意欲、そしてすべての産業の可能性を窒息させてしまったのである。
恐らくソウルほど仕事をしない、出来ない都市は無いと言っています。
「インド、中国、日本を旅行すると、商人たちが集まってきて物を売ろうとするが、ソウルでは商人たちが見当たらず、探して来てもらう必要がある。商品も貧弱きわまりない。売物を作っても買う人がいないからだろう。
だから技術者は育たず、就労さえ出来ないのである」
炊事する家族
露店の飲食店 ⇧ 左側は李氏朝鮮、 右側は同時代の日本 ⇧
● 1895年からの日本国との関わり
1895年(明治28年)に、日本が日清戦争に勝利し、日本と清国との間で結ばれた下関条約で、清の属国だった朝鮮は清国から独立ができました。
戦争に勝った国とは、敗戦国との講和条約の最初の条文には、自国が最も欲することを書き込みます。
日清戦争の戦勝国である日本が、下関条約(日清講和条約)の第一条にした文言とは、清国からの領土や賠償金ではありません。
下関条約の第一条は、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」という文言で、日本が最も求めたのは朝鮮の清国からの独立でした。
欧米列強の脅威にさらされていた日本は、朝鮮には独立国家としての成立を願いました。
しかし、一人歩きの出来ない朝鮮は、清国からの独立から、わずか10年後に日本からの保護国になりました。
1905年(明治38年)11月17日、日本と韓国は「第二次日韓協約」を締結し、日本は韓国の外交を監理指揮するとされ、大韓帝国は日本の保護国になりました。
韓国は、日韓併合を「日本による植民地支配」と主張しています。
植民地とは、統治国が支配地から搾取することで、日本は朝鮮を植民地にした事実はありません。
国家破綻の危機に陥った「大韓帝国」を欧米列強への吸収を恐れて日本が善処したのです。大日本帝国に併合して、全て日本国民としたのです。
日本は日韓併合前である1907年の第三次日韓協約締結から、韓国の内政も監督しています。
1909年、李氏朝鮮政府の分別を欠いた国家運営能力不足で財政破綻、欧米列強に莫大な借金、土地資源の抵当で運営財政が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が充満して、日本への併合を望む声が高まり各地で暴動が発生した。
当時の日本による朝鮮半島への財政負担をみても、これは朝鮮からの搾取ではなく朝鮮への莫大な支出を負担した。
『第三次日韓協約』が締結された明治40年から日本が韓国を併合した明治43年迄のたった4年間に限って見ても、韓国政府の歳入に充当、計上された金額は約1億400万円。
仮に当時の1円が現在の2万円に相当するとして計算すると・・・
当時の約1億400万円は現在の金額にして・・概算2兆1千億円となる。
1909年10月26日・・・安重根が満州のハルピン駅ホームで、伊藤博文を暗殺した、これを機に韓国併合への流れが急加速した。
(この時期は、まだ「大韓帝国」としての独立国)
1910年8月29日大韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し、総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決、自立出来ない未開の地朝鮮半島を日本国内並みのインフラ整備に力を入れ、道路、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを資財と人材を投入、総力を揚げて35年間で日本国内並みに完全整備・近代化した)・・・(明治43年~昭和20年)
本間九介(足立銈二郎)の『朝鮮雑記』に関しましては、ポーランド出身の歴史学者で、日本近代政治思想が専門のクリストファー・W・A・スピルマン氏の監修により、祥伝社から復刊されて評判になっていますね。
『朝鮮雑記――日本人が見た1894年の李氏朝鮮』 単行本(ソフトカバー) – 2016/1/30 本間 九介 (著)
しかし、副題の「1894年の李氏朝鮮」というのは正確ではありません。出版されたのはその年ですが、本間九介は、明治二年(1869年)二本松藩に生まれた人物で、日本の指導と援助で朝鮮を近代化に導き、東アジアから世界に新風を注ぎこもうとする大義に突き動かされて、明治二十三年(1890年)に、二十一歳で朝鮮半島に渡り各地を旅しました。そのときの経験を、東京神田須田町にあった「二六新報」という新聞に、明治二十七年(1894年)四月十七日から六月十六日に掛けて連載した朝鮮のルポ記事を一冊にまとめたものが、『朝鮮雑記』です。
[ 小嶋日向守 ]
2019/2/11(月) 午後 9:08
返信するしたがって、彼が見た朝鮮の描写は、1890年からのものであり、1895年の日清戦争に従軍した体験ではありません。もっとも、出版社としては、『朝鮮紀行』で有名な、イザベラ・バードの朝鮮旅行が、1894年から1897年にかけての4度にわたる旅行記録であることから、それらとの対比として読者に宣伝したかったのでしょう。
『朝鮮雜記』国会図書館デジタルで読めます。活字が薄かったり、合略仮名などが見にくいのが難点です。
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766895
ネット上には、有志が傾きや濃さを調節した見やすいpdfもあります。
box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-32arczlpypafjt5sttuxhf2vhm-1001&uniqid=f844f857-7a83-4e8b-a11f-046610e438e9&viewtype=detail
[ 小嶋日向守 ]
2019/2/11(月) 午後 9:10
返信する本間九介(足立銈二郎)の記録より前のものでは、
明治十九年(1886年)に朝鮮を旅した井上角五郎の記録、
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1154607
さらにそれ以前の明治九年(1876年)の宮本小一の記録、
f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi020.html
もう少し降った
明治三十九年(1906年)の荒川五郎のルポルタージュ
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869
などと合わせて読むと一層面白いです。
その不潔さ、犯罪と嘘、後進性は否定しようがないことがわかります。
[ 小嶋日向守 ]
2019/2/11(月) 午後 9:15
返信する威厳もプライドも破棄して、日本を怨み恐喝する韓国の姿は狂っているとしか言えません。
私等が子供の頃に「日露戦争」を引き合いに出して、大昔の論争するようなものです。
ご教示のサイトからもイザベラバードの記録からも、早急に取りまとめ、続編を準備してみたいと考えております・・よろしく。
[ 泰弘さん ]
2019/2/12(火) 午前 11:49
返信する韓国人でも、親身に付き合い、真心を分かった場合には、人間同士として信じ合える人もいると信じたいものです。
本間九介の『朝鮮雑記』105頁に書かれている盗賊の話では、稲垣氏という京城在住の医師が、仁川から海州に到る船旅の最中に海賊に襲われます。このとき、賊は日本人の稲垣氏を見つけ出そうとしますが、なぜか、船中の客は、海賊に対して誰一人として、稲垣氏が日本人であることを知らせませんでした。読んでいてもハラハラしますが、理由は分かりません。
明治九年に海軍軍医の島田脩海が、口蓋裂の患者を手術して神医として感謝され、種痘を信じさせるきっかけとしました。
f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi019.html
[ 小嶋日向守 ]
2019/2/12(火) 午後 10:25
返信する医者ばかりではなく、漢字と諺文を混用した新聞を発行して、多くの朝鮮人士からの信望を得た井上角五郎が、漢城を去る時の別れなどもしんみりします。
井上角五郎先生伝 75コマ/309
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1154607
ところが、この井上角五郎にしても、福沢諭吉と同様に、結局は、朝鮮人というものは救いがたいものであるとして匙を投げているのです。
日本人に限らず、朝鮮半島で暮らした外国人のほとんどは、そういう最後を迎えます。これは現在でも変わりません。本当に恐ろしいことです。
[ 小嶋日向守 ]
2019/2/12(火) 午後 10:27
返信する当時の朝鮮風景として、若くして亡くなった写真家の林武一
が撮影して、翌年、夫人の亀子さんが刊行した
『朝鮮国真景』 1892年
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766893
があり、鮮明な写真を見ることができます。JPEG画像で拾って保存して編集すれば良い資料になると思います。
[ 小嶋日向守 ]
2019/2/14(木) 午後 9:41
返信する> 小嶋日向守さん、大層詳しい沢山の資料を、ご教示くださいまして有難き幸せでございます。
お陰様で続編へのまとめの意欲が湧いてきました。
要点のみ書き写しの様になるかも知れませんが、何とかやってみたいと思います。
[ 泰弘さん ]
2019/2/14(木) 午後 9:48
返信する