No.a3fha110

作成 1997.2

 

古代イスラエル王国と
イスラエル12支族の歴史

 

 

■■第1章:ヘブライの始祖アブラハム

<BC1900年前後>


●ノアの子孫たちが世界の各地に散らばってから何百年か後のこと。メソポタミア地方のウルに住んでいた、ノアの長男セムの子孫テラが、息子アブラハムと一緒にカナン(パレスチナ)の地へ旅に出た。旅の途中、父テラが病気で死に、アブラハム一行が途方に暮れていると、彼に“神”がささやいた。

「おまえは一族の者と別れ、私の示す方へ行け。そうすれば、私はおまえを祝福して、おまえを大きな国民の祖先にしてやろう」

この約束には、3つの要素が含まれていた。土地を与えること、多くの子孫を与えること、人々の祝福の基となることである。


●75歳のアブラムはこの“神”の言葉に従い、長い長い旅を続け、ようやくカナンまでたどりついた。すると“神”が再びささやいた。

「私はおまえの子孫にこの土地カナンを与えよう!」

しかし、カナンの地は豊かではなかった。近くの村や町は互いに争っていた。ソドムとゴモラが滅ぼされる事件も発生した。

さらに多くの子孫が与えられるという約束も、困難に思えた。彼の妻サラはなかなか子供ができず、あせったアブラハムは女奴隷のハガルによって、イシュマエルをもうけてしまったのである。この時、アブラハム86歳。現在、アラブ人は、このイシュマエルが自分たちの祖先であると信じている。


●アブラハムが100歳になった時、“神”はようやく1人息子のイサクを与えてくれた。しかし、“神”はこのイサクを神に犠牲として捧げるように命じられたのである。アブラハムに神の考えはよく分からなかったが、「主の山には備えがある」といってイサクを祭壇の上で殺そうとした。その瞬間、“神”はアブラハムを止められ、別にヤギを用意していた。“神”はアブラハムが絶対的に自分を信頼している姿を見、神の「救いの計画」の主人公として用いることを決めたのである。


●ユダヤ人は、このアブラハム、イサクが自分たちの祖先になったと信じている。アラブ人も前述の通りイシュマエルを通して、アブラハムを自分たちの祖先と考えている。

しかし、アブラハムが彼らの先祖であるのは、その血筋だけによってではなく、アブラハムの神に対する信仰のゆえに、彼らはアブラハムを自分たちの父だと考えているのである。このため血筋の上ではアブラハムにつながっていない場合もあるクリスチャンも、アブラハムを自分たちの「信仰者の父」であると考えている。

日本人にはピンとこないが、現在世界の半数以上の人々は、アブラハムを自分たちの父だと考えているのである。そのため、“神”のアブラハムに与えた3つの約束は成就したといわれている。現在、聖地エルサレムの南西30キロの地に「ヘブロン」の町があるが、そこにあるアブラハム一族の墓は“聖蹟”として、今も毎日、多数の信者を引き寄せている。

 

 


 

■■第2章:「イスラエル」と名乗ったヤコブ

BC1700年前後>


●アブラハムの孫であるヤコブ。彼は中年期にひとつの出来事を記念して「イスラエル」と改名した。そしてこの「イスラエル」なる名は、彼の子孫である民族の名ともされた。

その出来事は、ある川の渡し場で一夜を過ごしている時に起きた。ヤコブの前に1人の人が現れて、夜明けまで彼と組み打ちをしたのである。その人はヤコブに勝てないので、ヤコブのももの関節を打ってこれを外した。そしてこう告げた。

「今後は『イスラエル』と名乗るように。なぜならあなたは神と人とに争い勝ったから」

その人はヤコブを祝福すると、そのまま姿を消した。ヤコブは自分が“神”と出会ったことを悟った。そして言葉通り「イスラエル」と名乗り始めたのである。


●『旧約聖書』の中にはこのような例が、他にも少なからずある。その多くは、その人物が生涯のあるときに“神”との出会いを経験し、その人生がそれ以後一大変化をもたらすような転機となったことを記念するような改名である。“名前を変えたら運勢が変わるかもしれない”という種類の、姓名判断的改名とは違う意味を持つ改名である。

なお、「イスラエル」という名の意味であるが、「神が支配する」とか「神と闘う者」と解する学者もいる。

 

 


 

■■第3章:イスラエル12支族の誕生

<BC1700年前後>


●アブラハムの息子イサクには、エサウとヤコブという双子の息子が生まれ、ヤコブには12人の息子が生まれた。このヤコブが後に「イスラエル」と改名し、その12人の息子たちは「イスラエル12支族」の基礎となったのである。

ヤコブの12人の息子は4人の母から生まれた。生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けられた。父ヤコブの死後、それぞれ皆一族の長となり、ルベン族、シメオン族、レビ族……という支族が誕生したのである。

ただし、レビ族だけは祭祀を司る専門職であるため、通常、イスラエル12支族には数えない。レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの2人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とし、“12支族”の数を満たす。

 

 


●各イスラエル支族は、それぞれ独特の性格を持ち、それはヤコブの遺言やモーセの祝福の言葉によって明確に表現されていた(「創世記」第49章&「申命記」第33章)。そして各支族のシンボルマークは、それぞれの支族の性格を表現したものになっていた。

各支族の性格を簡単にまとめてみると、以下のような感じになっている。

 



↑イスラエル12支族の各シンボルマーク

 

  ◆ルベン族…………優れた威厳と優れた力の持ち主。水のような奔放性。少数派。

  ◆シメオン族………暴虐性。国中に散らされる。

  ◆ユダ族……………獅子のように獲物によって成長する。王権と指導力。繁栄。自己防衛。

  ◆ダン族……………己の民を裁く。マムシのような狡猾さ。

  ◆ナフタリ族………牝鹿のような美人系。善良さ。優雅さ。恵みに満ち足りる。

  ◆ガド族……………防衛的。勇敢さ。正義感。最良の地を見つける。

  ◆アシェル族………王の食卓に美味を供える。穏やかさ。

  ◆イッサカル族……たくましいロバのよう。労働。苦役を強いられる。

  ◆ゼブルン族………海辺に住む。そこは舟の出入りする港となり、その境はシドンに及ぶ。

  ◆ベニヤミン族……オオカミのように好戦的。主に愛される者。

  ◆マナセ族&………大自然の祝福。膨大な恩恵。生産の祝福。地の果て果てまで、
    エフライム族  国々の民をことごとく突き倒していく進出力。

 

 


 

■■第4章:エジプト首相として活躍したヨセフ

<BC1650年前後>


●父ヤコブ(イスラエル)と12人の息子たちは、イスラエル南部のネゲブという土地で生活していた。ヤコブは息子の中でも特に11番目の息子ヨセフを溺愛していた。着るものまで、ヨセフには王子さまのような立派なものを着せていた。そして、それが兄たちのねたみと憎しみの原因となり、その後、ヨセフは兄たちの策略によって、奴隷としてエジプトへ売られてしまった。この時、ヨセフは17歳だった。


●ヨセフを奴隷として買った主人はエジプトの高官で、その召し使いとなったヨセフは誠実で有能なところを認められ、重用された。ところが、主人の妻もヨセフが気に入り、情事に誘った。ヨセフはその誘惑をきっぱりとはねつけたが、これで逆恨みを買い、無実の罪を着せられて投獄されてしまったのである。


●しかし、ヨセフはここでも監獄の長から認められ、信頼される囚人として彼の副官的立場になった。そして、この獄中で親しくなった囚人に、もと王宮の役人だった男がいて、彼の見た夢をヨセフが解いてやった。

2年後、エジプトの王が不気味な夢を見て不安にかられ、知者たちにその解き明かしを求めたが満足する見解を得られなかった。さきに釈放されて復職していた例の男が、ヨセフのことを王に告げ、こうしてヨセフは王の前に立ち、見事にその解き明かしを告げて、来たるべき7年の大豊作と続く7年の大凶作を予言し、それに対する準備の具体的方策までも提言した。

これを聞いた王も高官たちもヨセフの人物と能力が並々ならぬものであることを認め、特に王はすっかりヨセフに惚れ込んだ形で、彼を首相に、それも副王的な権限を持つ者として任命したのである。そしてヨセフは以後、名首相ぶりを発揮したのであった。


●ヨセフの予言通りエジプトに大豊作の次に大凶作の年がやってきた。父ヤコブと兄弟たちの住む土地も大変な飢饉に襲われた。エジプトはヨセフのおかげで十分な食糧の準備ができていたので、深刻な被害にあうことはなかった。ヨセフの兄弟たちは、食糧を求めてエジプトまでやってきた。この時、彼らは奴隷として売られていったヨセフが、まさかエジプトの首相になっているとは夢にも考えていなかった。とっくの昔に死んでしまったとさえ考えていた。と同時に、いけないことをしてしまったものだと後悔していた。

だからエジプトで兄弟たちが、首相となって活躍している弟ヨセフと再会したときは、非常に驚き、そして和解して喜びあった。この珍しいめぐりあいの話は、あらゆる人の心を打った。エジプトの王も非常に興味をもたれて、「そんなにお前の一族が苦しい思いをしているのなら、ヤコブ老人をはじめ、みんなをエジプトへ呼ぶがよい」と言って、立派な馬車を幾台も出してくれた上、ゴセンという地方に広い土地を与えてくれた。これはナイル川の下流と、今のスエズ運河にはさまれた地方だったらしい。


●こうしてヤコブとイスラエル兄弟たちは、アブラハム以来住み慣れた土地カナンを去って、エジプトに移り住んだ。エジプトは故郷のカナンの地に比べれば、ずっと豊かで、文明も進んでおり、なにしろヨセフが大きな権力を持っていたので、ヤコブの一族にとっては、大変住みよい土地であった。こうして、イスラエル12兄弟たちの子孫は、段々とこの新しい土地に広がっていったのである。

 

 


 

■■第5章:イスラエル12支族のエジプト脱出を指揮したモーセ

<BC1290年前後>


●ヤコブ一族は、ヨセフがエジプト首相であったことも手伝って、エジプトの地に移り住み、その地で栄えた。しかしヨセフの死後、ヨセフのことを知らない新しい王が現れ、イスラエル12支族への圧迫が始まった。


●古代エジプト史を見ると、前18世紀にそれまでの中王国時代が終わり、次の新王国時代との間に第2中間期があるが、この混乱の時期に侵入者「ヒクソス」が現れて、エジプトの支配権を握っている。これがいわゆる「ヒクソス王朝」で、人種的にはセム系だった可能性が高い。

もし「ヒクソス王朝」がセム系ならば、同じセム人種としてのヨセフの登用と、それに続く彼の家族の集団移住は、容易に考えられることである。そして、イスラエル12支族を圧迫し始めた王の時代は、この「ヒクソス王朝」を倒した第17王朝(エジプト人による)時代のこととすれば、よく状況が合う。


●ともあれ、ヨセフを知らない王が現れてから、イスラエル12支族はエジプトで約400年にわたって奴隷とされ、ピラミッドなどの土木作業を行うようになったわけである。そして、いよいよ新エジプト王によるイスラエル12支族への苛酷な迫害がピークに達しようとする時期に、モーセが誕生(BC14世紀)したのであった。


●モーセはレビ族の血筋である。モーセは勇気ある両親によってかくまわれ、その後不思議な経過でエジプトの王女に拾われ、その養子となった。このままいけば、ひょっとしたらモーセはエジプト王になっていたかも知れないが、彼は自分の出生の秘密を知って、同胞を救うことを自分の使命と感じるようになった。そしてそれが行動に現れた結果、モーセは反逆者として指名手配される身となり、ミデヤン地方に逃亡した。ミデヤン地方はシナイ半島南東部と推測される荒野である。この地で放牧により生計を立てながらモーセは信仰的訓練を受け、また後日のために備えた。

やがて、モーセを殺そうとしたエジプト王は死に、後継者が立てられたが、イスラエル12支族の境遇は少しも良くならなかった。そうこうする中で、モーセは時期が来たことを感じて立ち上がる。『旧約聖書』によれば、それは彼が“神”から明確に使命を授けられたことの結果であった。こうして彼は“神”からの権威と力を帯びたものとしてエジプトに赴き、大胆に王と交渉を始めるのである。「イスラエル民族を解放せよ」と。


●もちろんこんな交渉がすんなりとまとまるはずはなく、結局、モーセが次々と行った10の奇蹟によって、このことに“神”が介入していることをエジプト人が感じて恐れを抱くようになり、特にその最終的なものとしての「過ぎ越し」の事件が決定打となって、エジプト王はイスラエル12支族の解放を承諾したのである。

「過ぎ越し」の事件とは、一夜にしてエジプト中の長子が死亡する事件で、その際、裁きを執行する天使たちはイスラエル民族の家については“過ぎ越し”たので、この名が付けられた。この事件を記念する祭りは現代でも守られており、ユダヤ教の最も重要な祭りとなっている。


●『旧約聖書』は、このイスラエル12支族の「エジプト脱出」をイスラエル史上最重要事件としている。それは単なる奴隷解放にとどまらず、その後の世界史の中で重要な役割を果たすイスラエルという民族の“誕生”を告げる出来事であったからである。特に、エジプト脱出後に、“神”がイスラエル12支族と「契約(旧約)」を結んだことは、“神”とイスラエル12支族が特別な関係に結ばれたことを意味した。すなわち、天地の創造主ヤハウェは「イスラエルの神」となり、イスラエル12支族は「ヤハウェの民」となったのである。

 


十戒の山、シナイ山

 

●この契約に付帯して律法が与えられた。その中心となるのが有名な「十戒」である。宗教的戒めが4ヶ条で、残る6ヶ条が倫理的戒めで、対人関係規定であった。「父母を敬え」に始まり、最後は「むさぼるな」で終わった。これを基本としてその細目が以下延々と続くのが、いわゆる「モーセの律法」で、それをさらに拡大増補して「ユダヤ教の律法」となる。

(後年、この律法主義が行き過ぎて、人々の生活をがんじがらめに縛って窒息させるまでになったのを打ち壊したのがイエスで、この衝突が十字架刑にまで発展したわけである)。

 

 


 

■■第6章:イスラエル12支族によるカナン占領と士師の時代

<BC1100年前後>


●エジプトを無事脱出したイスラエル12支族は、荒野を40年間さまよった。エジプトが弱体化し、それまで属州としていたカナン(現在のパレスチナ)の支配権を失うと、イスラエル12支族はカナンに定着を図った。その定着は必然であった。なぜならカナンこそ、“神”がアブラハムの子孫=イスラエル12支族に与えると約束した「乳と蜜の流れる地」であったからである。


●イスラエル12支族の「カナン占領(侵攻)」のプロセスはどのようなものだったのか。『旧約聖書』の「ヨシュア記」によれば、モーセの後継者であるヨシュアが、“神”に命じられた軍事的指導者としてイスラエルの全支族を引き連れ、東方の荒野からヨルダン川を越え、カナンの地を征服し、クジによって各支族にそれぞれの領地を割り与えたとある。

しかし、同じ『旧約聖書』の「士師記」では「ヨシュア記」の記述とは異なっている。イスラエルの諸支族は、数支族単位で長時間にわたり、複雑な経緯を経てカナンの地を取得したという。最近の研究によれば、「士師記」の記述が史実に近いとされている。


●エフライム族のヨシュアは、カナン侵攻に当たり、マナセ族など数支族と共同戦線を張った。そして他支族の別働隊などと連携しながら、エリコやギベオンでゲリラ的な戦闘を行い、一進一退を繰り返しながら、かろうじて勝利を収めたのであった。要するに、勝ったとはいえ、主要都市の全てを占領したわけでも、異民族を完全に制圧したわけでもなかったのである。

しかも、異民族は異教の神バアルなどを奉じており、その影響も少なくなかった。そのため、イスラエルの全支族は、カナン定着において各支族同士の連携が不可欠であった。彼らは山岳地帯の中心地シケムに集まり、彼らの共通の神ヤハウェのみを礼拝するという根本的な約束を交わした。このヤハウェへの礼拝を通して、彼らは、イスラエル民族として揺るぎない団結力を培い、保っていくことになったのである。


●モーセの後継者ヨシュアの死後、イスラエルの民族は、ヨシュアに代わる「士師」と呼ばれる人々が指導的役割を果たすことになった。士師とは、イスラエルが王国として成立する前に出現したヨシュアからサムエルまでのカリスマ的指導者をいう。

カナンに定着はしたものの、当時、イスラエルは、まだ確固たる王国制度が完成していなかったので、異民族が次々とイスラエルに攻め入るすきをうかがい、実際にまた侵略してくることもあった。そのため、士師たちは、バラバラになりがちなイスラエル支族連合をひとつにまとめ、危急時には自ら戦争指導者として立ち上がり、戦ったのである。

著名な士師に、モアブ人と対決したエフド、カナン人と対峙した女預言者デボラ、ミディアン人と戦ったギデオン、アンモン人と対決したエフタなどがいる。中でも有名なのが、強敵ペリシテ人と戦ったという伝説を持つ、怪力の英雄サムソンであろう。


●初期の士師は、軍人・宗教家・裁判官をひとりで兼務する、いわば全権掌握的な役割を担っていたが、異民族の組織的攻勢に対処する意味からも次第に分業化が進み、国家的体制が整えられていった。そして、宗教的指導者サムエル、軍事的指導者サウルという専門の役割を持つ士師が登場したのである。このサウルこそ、古代イスラエル王国の初代の王に即位することになった人物である。それは紀元前1000年頃のことであった。

 

 


 

■■第7章:イスラエル統一王国の誕生とダビデ王とソロモン王の活躍

<BC970年前後>


●イスラエル12支族のうちの、ベニヤミン族出身のサウルは、外敵アンモン人やペリシテ人との数度の戦いで卓抜な軍事的指導力を発揮した。それによって、イスラエルを外敵から救うのはサウルであるという評価が高まっていった。そして、全支族の支持を得たサウルは、精神的指導者かつ預言者のサムエルから油を注がれ、イスラエル支族連合の初代の王となった。それは「イスラエル統一王国」の幕開けであった。イスラエルが、それまでの支族連合組織から王政に移行した理由は、周辺諸国が王を戴く統治形態をとっていたことに影響されたものと考えられている。


●サウル王はその後、急速に勢力を増してきたペリシテ人との戦闘で苦戦が続き、持ち前の軍事的手腕に陰りが生ずるようになった。しかも武勲を急ぐあまり、思慮を欠いた強引な振る舞いが目立つようになり、戦死者が相次いだ。それがもとで、精神的指導者のサムエルとの信頼関係は損なわれ、民衆の支持率も著しく低下していったのである。


●そうした状況下で頭角を現してきたのが、羊飼いの青年ダビデであった。ペリシテ軍の巨人ゴリアテを倒し、サウル王直属の武将となったダビデは、武勇面にかけてはもちろんのこと、人望にかけてもサウル王を遥かに上回るようになった。そのためサウル王はダビデに激しく嫉妬し、その命を狙うまでになる。

危険を感じたダビデは、サウル王のもとを逃れ、荒野を転々としながら南下して亡命し、それまで敵対勢力だったペリシテ軍の傭兵部隊長になった。当時の複雑な政治状況がうかがわれる話であるが、ダビデとサウル王との直接決戦はなかった。もちろんダビデは、その間も、イスラエル諸支族のために工作を進めていた。


●一方、サウル王は、その後もペリシテ人に無謀な戦いを挑み、3人の息子とともに戦死を遂げ、その死体がペリシテ人の占領地であるベテシャンの城壁に吊るされるという悲劇的な結末を迎えた。

このサウル王の訃報に接したダビデは、ただちにペリシテ軍を離脱して北上し、イスラエル軍に復帰。ヘブロンにおいて出身支族のユダ族を中心とするイスラエル南方支族連合の王となり、ペリシテ人を撃破するなど、周辺諸国を完全に制圧するに至った。

イスラエル北方の支族は、サウル王の子イシバアルが率いていたが、その死後、サウル王の娘ミカルを妻としたダビデは、北方支族連合の総意のもとに王として迎えられ、ついに紀元前993年、ダビデはイスラエル全12支族の2代目の王位に就いたのである。


●ダビデ王はその強烈なカリスマ性で、サウル王の時代には、ほとんど体をなしていなかった王権と王政組織を確立させ、エルサレムを拠点に版図を拡張していった。軍事遠征も広範囲に及び、イスラエルは、ユーフラテス川からエジプトの国境までを含む大連邦「大イスラエル王国」ともいうべき空前の大軍国を形成したのである。その一方、近隣諸国と友好条約を結ぶなど、したたかな外交姿勢で国家の安定と繁栄を築いた。

モーセに次ぐ偉大な人物とされたダビデ王は、一代でイスラエルを大国にしただけでなく、同国の黄金時代を築いた英雄となった。とはいうものの、ダビデ王は私生活面では人妻を誘惑して関係し、その夫をいくさの最前線に出して戦死させるなど、人道に反したところもあり、“神”の怒りをかうことがあった。が、そうしたマイナス要素を差し引いても、ダビデ王は現代でもイスラエルの理想の王として、宗教家として、詩人あるいは音楽家として、まさに最高位に位置付けられている。


●さて、ダビデ王の晩年には、息子アブサロムが謀叛を起こし、命からがらヨルダンの東へ逃亡するといった波乱もあったが、異母弟のソロモンが、祭司のツァドクから油を注がれ、次代の王位の資格を得た。紀元前961年頃のことである。

ダビデ王の跡を継いで王となったソロモン王は、「ソロモンの知恵」という言葉があるように、抜群の知力の持ち主とされた。ソロモン王は数多くの業績を残したが、中でも重要なのはエルサレムのモリヤの丘に、壮大な「神殿(ソロモン第1神殿)」を造営し、十戒の石板を収めた「聖櫃(契約の箱/アーク)」を安置し、民族の宗教的中心地としたことである。と同時に、ソロモン王は諸外国との通商貿易や金属精錬、建築造営などにも力を傾注し、イスラエルに莫大な富と繁栄をもたらした。ソロモン王によって、イスラエルはかつてない栄華を誇ったのである。

 

 


 

■■第8章:イスラエル12支族の大分裂と南北朝時代そして滅亡離散

<BC922年前後>


●ソロモン王によって、イスラエルはかつてない栄華を誇ったが、国が繁栄すればするほど、住民はますます労役や重税にあえぐことになった。しかも、彼らがいくら賦役を行っても、生活が改善されないばかりか、ソロモン王が自分の出身支族のユダ族を中心に優遇政策をとっていたことも重なって、支族間に不満と不信が鬱積していったのである。

そしてソロモン王が死ぬと、ついに恐れていたことが起こった。ソロモン王の野心的な大造営工事などの遂行と維持のために、強制労働をはじめとする労役や重税で多大な犠牲を強いられていた北イスラエルの全10支族が一斉に反旗をひるがえしたのである。そのころには、もう既に北イスラエルの諸支族は、ダビデやソロモンの出身支族が属する南ユダに対して、不信の念を通り越し、激しく敵対するまでになっていた。


●ソロモン王が死ぬと、ただちに南ユダ出身の息子レハベアムが王位を継いだ。北イスラエル連合は、重税の軽減を要求したが、レハベアムは国家財政が事実上破産していたこともあって、それを断固拒絶。それによって、国家の分裂は決定的なものとなった。北イスラエルの諸支族は、レハベアムを自分たちの王にすることを拒否し、一方的に独立を宣言したのである。

北イスラエル連合は、南ユダのダビデ家によるイスラエル支配を保障した「ダビデ契約」を否認し、「シナイ契約」を採用することになった。それは、南ユダからすれば北イスラエルの没落を意味した。かくて、紀元前922年、「イスラエル統一王国」は南北に分裂し、「北イスラエル王国」と、ダビデ家のレハベアムを王とする「南ユダ王国」の2つの王国に分かれてしまったのである。ダビデが開いたイスラエルの黄金時代は、わずか70年ほどで潰れてしまったのだ。

 

 

●北イスラエル王国の王には、その中心的な支族であるエフライム族出身のヤラベアムがたてられた。ヤラベアムは、ソロモン在世中、徴募された強制労働者を率いて反乱を起こした急進派の巨頭だったが、鎮圧された後、エジプトに亡命していた。

北イスラエル王国が、独立に踏み切った理由の一つに、南ユダ王国よりも経済的に豊かであったからという説もある。土地は肥沃で、農作物に恵まれ、また隣国のフェニキアの影響で文化的にも高度で洗練されていた。とはいえ、北イスラエル王国の維持は、政治的にも軍事的にも困難をきわめた。南ユダ王国と戦争状態にある一方で、北方のアッシリア帝国やエジプトなどの脅威にさらされていた。


●北イスラエル王国の初代の王に就任したヤラベアムの最大の課題となったのは、宗教政策だった。彼は南ユダ王国に位置するエルサレムの神殿に代わるべき神殿を、ベテルとダンの2都市に設置し、北イスラエル連合の宗教的統一を図ったのである。ヤラベアムの死後、息子ナダムが継いだが、革命が起こり、イッサカル族のバアシャーが王位を掌握した。このように北イスラエル王国は、即位した王が何度も暗殺されるなど、一種の「革命政権」で成り立っていた。王権とは名ばかりの、不安定な宗教連合に過ぎなかったのである。

その間、北イスラエルの軍司令官オムリが、内乱状態にあった北イスラエル王国の再統一に成功。首都をサマリアに移してオムリ王朝を開いた。そして、フェニキア人と同盟を結び、貿易振興を行ったことで、国家は一時安定。オムリの息子アハブが、南ユダ王国と歴史的な和解を果たしたことも安定の一因になった。


●しかし、オムリ王朝には隣国の神バアルなど異教の神が根を下ろし、異教の布教活動が公然と行われ、イスラエル本来の一神教による団結は根底から揺らいでいた。さらにそれに追い打ちをかけるように、エリアなどの預言者による批判運動が激化し、オムリ王朝は崩壊。北イスラエル王国は一気に亡国へと突き進んで行ったのである。

そして独立後200年、すなわち紀元前722年に、北イスラエル王国は、大国アッシリア帝国に滅ぼされてしまった。北イスラエルの10支族は、奴隷としてアッシリアに強制連行され、それ以降、歴史から消えてしまった。そのために後世、失われたイスラエル10支族の子孫がどこかで暮らしているのではないかと考えられ、様々な伝説や伝承が生まれることになった。


●一方、ユダ族とベニヤミン族の2支族からなる南ユダ王国は、文化的には北イスラエル王国よりも遅れていたが、伝統的にダビデの家系が尊重されていたため、王家の血統が長く保たれていた。しかし、北イスラエル王国を滅亡させたアッシリア帝国の圧迫が激しく、アッシリア帝国の従属国家となり、アッシリア帝国の影響下で異教化が進んでしまった。

ヒゼキヤ王が異教化追放の宗教改革を断行し、国家を盛り上げようとしたが、アッシリア勢力の妨害で頓挫した。その後、悪名高いマナセ王とアモン王が異教擁護の立場に回ったりして、南ユダ王国はひどく乱れていった。


●紀元前597年に、南ユダ王国のヨヤキム王は、覇権闘争を続ける新バビロニア王国とエジプト王国間の外交政策に失敗し、新バビロニア王国の怒りをかい、首都エルサレムを包囲され、降伏。王と指導者階級は新バビロニア王国へと連れ去られた。その後、ヨヤキム王の後を継いだゼデキア王は再度、エジプト王国と提携し新バビロニア王国の怒りをかい、紀元前587年、南ユダ王国は新バビロニア王国によって滅ぼされてしまった。南ユダ王国の住民はほぼ全員新バビロニア王国へ強制連行された。これを「バビロン捕囚」という。

 

 

●その後、南ユダ王国の子孫たちは、新バビロニア王国崩壊とともに解放され、イスラエルの地への帰還を許された。彼らは喜び勇んで故国に帰り、エルサレムの復興と、第2神殿と呼ばれる神殿を再建することになった。しかし、かつてのような独立王国を築くことはもはやできず、祭司が指導する神政共同体のような形で生活を続けることとなった。

 

─ 完 ─

 


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