発売から半年後に火がつく

 1983年6月には、問屋向け説明会が聞かれた。試作機を台の下に隠し、中身が空の本体を置いてデモンストレーションを実施した。開発スタッフが前日徹夜で準備した。

 説明会での反応はよかった。1万4800円という低価格にも驚く参加者が多かった。当時、ある家電メーカが2万数千円でゲーム機を発売するという噂が出ていたからである。ファミコンで十分対抗できるという感触を得て、参加者は帰ったという。

 説明会を無事に終え、開発スタッフの仕事はようやく一段落した。ただし、1983年7月の発売直前にマニュアル作りであわてることになる。マニュアルは上村が執筆することになっていた。ところが原稿締め切りの直前になって、米Atari社にファミコンを売り込みに行くという話が持ち上がり、上村は急きょ米国へ飛んだ。書きかけの原稿の続きを大和と加藤が徹夜して書くはめになった。ただし、米Atari社にファミコンを供給するという話は流れてしまった。

 こうして1983年7月21日の発売日を迎える。予想に反して発売当初はあまり売れなかった。ディスカウント店では一時、売り値が7000円程度に下がった。

 追い打ちをかけるように画像用プロセサのバグが発覚する。このバグのために出荷停止せざるを得なくなり、クリスマス商戦を棒に振ってしまう。ところが年が開けると、品薄のファミコンに子供が殺到しているという情報が問屋から入ってくる。その後、バグを修正した製品を投入してからは順調に出荷台数を伸ばした。1年間で300万台以上を売り切り、開発スタッフは結果に満足した。

 「スーパーマリオ」や「ドラゴンクエスト」の登場でファミコンがさらに大きく飛躍することを、この時点で想像できた開発スタッフはだれもいなかった。

(文/高野 雅晴)

(※本記事は「日経エレクトロニクス」1995年1月16日号の「ファミコン開発物語」を再掲載したものです。登場人物の肩書きおよび企業名等は、雑誌掲載当時のものとさせていただきます。あらかじめご了承ください)

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