「選択肢は多いほどよい」という近代の定説に心理学者・Barry Schwartz(バリー・シュワルツ)氏は異議を唱えます。様々な事例をもとに、選択肢の多さが逆に人々の幸福度を下げているとする自説を説きました。(TED2005より)
バリー・シュワルツ氏:私の著書に書いたことについてお話しましょう。今までにどこかで聞いたことのあるような事柄とリンクすると良いのですが、そうでない方のために関連付けながら話していきましょう。まずは公式ドグマから説明したいと思います。
何の公式定説なのか? 西欧の産業社会全ての公式定説です。公式定説ではこうなります。もし我々が自らの市民を最大限に繁栄させたいのならば、その方法は個人の自由を最大限にすることである。
その理由は、そもそも自由であることと自由そのものは、素晴らしく、貴重で、価値があり、人であることの根幹をなしています。さらに、もし人々が自由ならば、自身の繁栄を最大限にするよう1人1人の判断に基づいて行動でき、他の誰も私たちの代わりに決断する必要はありません。
自由を最大限に獲得するためには、選択肢を最大限に与えることです。選択肢が多いほど自由度は増し、自由度が増すほど人々は繁栄するのです。この考えがあまりにも深く浸透しているため誰もこれに異議を唱えようとすら考えないのだと私は思います。
またこの考えは私たちの人生にも深く浸透しています。そこで、近代の発展が私たちに可能にしてくれたものの例をいくつか出しましょう。まず、これが私が行くスーパーです。
それほど大きくはないです。サラダのドレッシングについて一言だけ言わせてください。私のスーパーには175種のドレッシングがあり、それに加えて10種のエキストラバージンオリーブオイルと12種のバルサミコ酢もあります。
もし店の175のドレッシングの中に気に入ったものがなかったとしたら、オリーブオイルと酢で自分好みの多種多様なドレッシングを作ることだって出来るのです。このスーパーはこんな感じでした。
では次に、ステレオシステムを作るために電気機器店に行ったとします。電気機器店1店舗の中にスピーカー、CDプレーヤー、テープデッキ、チューナー、アンプなど、こんなにたくさんのステレオシステムが揃っています。
この1店舗の中にある部品を組み合わせていくだけで、650万種ものステレオシステムが組み立てられる計算です。これは間違いなく莫大な数の選択肢ですね。
それからコミュニケーションの世界。私が子供だった頃、 マーベル社からでさえあればどんな電話サービスでも受けられる時代がありました。当時、電話は買うものではなく借りるものでした。
それによって電話が壊れることがなくなるという影響がありましたね。そんな日々も今は昔。今の私たちの前には、特に携帯電話の世界において、ほぼ無限の選択肢が用意されています。これらは携帯電話の未来の形です。
私のお気に入りは真ん中の、MP3プレーヤーと鼻毛切り、クレームブリュレバーナーが一体化しているものです(笑)。もしまだお近くの店舗で見かけていなかったとしても大丈夫です。きっと近日中にお目にかかれますよ。これが何をもたらすのか。人々は来店の際にこう尋ねるでしょう。
「機能の少ない携帯電話はありますか?」。
その質問の答えを知りたいですか? 答えは「ノー」です。機能の少ない携帯電話を買うことは不可能なのです。
さて、購買活動以上に重要な人生の他の局面においても 同じような選択の爆発が確実に起こっています。たとえばヘルスケア。アメリカではもう既に、診察で医者がどうすればいいか教えてくれるということはなくなりました。
その代わりに、医者に診てもらった際に言われるのは、AをすることができるしBをすることもできる、ということです。「Aにはこのような効果とリスクがあって Bにはこのような効果とリスクがある。あなたはどうしたいですか?」と聞かれるのです。
そこで「先生、私はどうしたらいいでしょう?」と聞きます。すると医者はまた「Aにはこのような効果とリスクが、Bにはこのような効果とリスクがあります。あなたはどうしたいですか?」と言い、あなたは「先生が私だったらどうしますか?」と聞く。
すると医者は「でも私はあなたではありませんから」と言う。つまり結論は、俗に言う、患者の自己決定権です。このような言い方をすると、とても良いことのように聞こえます。
しかし実際に何が起きているかと言うと、決断権の重荷と責任をそれについての知識がある、この場合は医者から知識のない少なくともとても具合が悪くて判断をくだすには適していない患者に委ねてしまっているのです。
私やあなたのような消費者に対し、莫大な処方箋薬のマーケティング活動が行われていますが、考えてみると私たちには買うことが出来ないのですから、これは全く理にかなっていません。
では、なぜ私たちが購入できないものをマーケティングするのか? それは、私たちが翌朝かかりつけの医者に電話をして処方箋を変える指示を出すよう望んでいるからです。
このスライドの意味は、私達の個性というドラマチックなものでさえ、今では選択できるということです。私たちは個性を受け継ぐのではなく、発明できるのです。そして、好きなだけ自分を再発明することができます。
つまり、毎朝目覚めた時に自分がどんな人になりたいのかを決断しなくてはならないということです。結婚や家族に関して言えば、以前はほぼ全ての人の共通認識として、できるだけ早く結婚してできるだけ早く子づくりをするという考えがありました。
本当の選択は誰とするかであって、いつするかや、その後どうするかではありませんでした。しかし現在では、全てのものがどうにでもなってしまっています。私は素晴らしく知性にあふれた学生達を教えています。
しかし、以前と比べ20%も少ない課題を与えています。学生達の頭が悪くなっているわけでも、 熱心でなくなったわけでもありません。学生達が他のことで頭がいっぱいだからです。「結婚をするべきか否か? 今結婚をするべきか? 結婚を遅らせるべきか? 子供が先か、キャリアが先か?」
これら全てがあまりにも切実な問題です。学生達は、私の出した課題を全てやり遂げるかどうか、いい成績をとるかどうかに関わらず、これらの問題の答えを出すのです。事実そうするべきなのです。なぜならとても重大な問題ですから。
カールが指摘していたように、私たちはとても恵まれています。今や、テクノロジーのおかげで私たちは、何時でも世界中のどこにいても仕事をすることができます。ランドルフ・ホテルを除いてはね(笑)。
(会場笑)
実は1ヶ所だけWi-Fiが通じる秘密の場所があるのです。私が使いたいので教えませんが(笑)。つまり、仕事に対する敬意と共に私たちに与えられたこの素晴らしい選択の自由とは、自らに対し何度も何度も問いかける「仕事をするか否か」という質問への決断を下さなくてはならないことです。
子供のサッカーの試合を見に行っても、後ろポケットには携帯電話、反対側にはモバイル端末をいれ、おおよそ膝の上にはノートパソコンを開いている。もしそれら全ての電源が落とされていたとしても、子供がサッカーの試合をむちゃくちゃにしている間中ずっと自問自答を繰り返すのです。
「この電話にでるべきだろうか? このメールの返事は? レポートのドラフトは?」 そして、例えそれらの答えが全て「ノー」であったとしても、あなたの子供の試合は自問自答がなかった時とは全く違った経験となってしまいます。
世界どこを見ても、大きなことも小さなことも、物質的なことも生活に関わることも、人生は選択です。私たちが以前生きていた世界はこのようなものでした。
「モーゼ:実は石に書かれている」。
(会場笑)
つまり、いくつかの選択がありました。しかし全ての物事が選択ということではありません。今、私たちが生きている世界はこんな感じです。
「DIY十戎キット」。
ここで出てくる問いは、これは良いニュースか、悪いニュースか? その答えは「イエス」です。
(会場笑)
私たちは皆、その良さは知っています。ですから私は悪い面について話したいと思います。全ての選択には2つの影響がでます。どちらも悪い影響です。1つは、矛盾していますが、これが開放感ではなく無力感を生むということです。
あまりにも多くの選択肢を前にすると、人は選択が非常に難しいと感じます。これの非常に良い例をひとつ出しましょう。定年後の年金投資計画に関する研究において、私の同僚がヴァンガードという巨大な投資信託会社から、約2000ヶ所の職場に渡る、約100万人の社員の情報を手に入れました。
彼女が調べたところによると、会社が提示する投資信託が10件上がるごとに 参加率は2%落ちたという結果が出たのです。50件の投資信託を提示すると、5件提示した時と比べて10%少ない社員が参加する。何故でしょう?
50件もの投資信託が提示されると、どれを選べばいいのか決めるのがとても難しくなり、人は「明日やろう」と後回しにしてしまうのです。次の日も「また明日」、「また明日」と延びていき、結局決断を下す「明日」は2度ときません。
理解すべきなのは、これが引退したあとに資金不足に陥りドッグフードを食べざるを得ない状況に陥ることだけでなく、決断を下すことがあまりにも難しいために会社から受け取る権利のある資金さえ放棄してしまっていることを意味していることです。
彼等は参加しないことによって、会社が喜んで提供する年間5000ドルもの資金を受ける権利を放棄してしまうのです。この無力感は選択が多すぎることに起因しています。そして、世界をこのようにしてしまいます。
「決めろ。ドレッシングを永遠に変えられないとしたらフレンチ、ブルーチーズ、ランチのどれを選ぶ?」。
(会場笑)
今後に一生影響を及ぼす決断は正しく下したいですよね? 間違った投資信託や、ましてや間違ったドレッシングを選びたくはない。これが1つ目の影響です。
2つ目の悪影響は、このような無力感に打ち勝って決断を下したとしても、選択肢が少なかった時と比べて、決断の結果に対して得られる満足度は低いということです。選択肢が多い状況での決断が、満足度を低下させるのにはいくつかの理由があります。
まず1つ目は、たくさんの選択肢の中から1つのドレッシングを選んで買って、それが完璧であった試しがありましたか? もっといいものを選べたはずなのにと想像することはいとも容易いことです。そこで、何が起こるかというとこの取らなかった選択肢が、自分の決断を後悔させることになります。
そして、この後悔が、下した決断が例えとても良い決断だったとしても、その満足度から差し引かれていくのです。選択肢が増えれば増えるほど、人は自分が選んだオプションに対して不満を感じやすくなります。
2つ目は、経済学者が機会費用と呼ぶものです。選択肢が多くある場合、選ばなかった選択肢の良いところを想像し、選んだ選択肢にその分不満を持つ度合いが多くなることは容易く想像できます。
ひとつの例をあげましょう。ニューヨーク出身の方には前もってお詫び申し上げます(笑)。
「西85番地の駐車スペースのことが頭から離れないよ」。
(会場笑)
このように考えてください。ハンプトンズに来ているカップルがいます。不動産価値がとても高く、素晴らしい浜辺があり、とても天気が良い。彼等はこの瞬間、全てを手に入れています。これ以上良いことはあるのでしょうか?
しかし、この男性はこう思っています。「ええい、くそっ。今は8月、私のマンハッタンの隣人達はみんなどこかに出かけている。今ならマンションの目の前の駐車スペースがゲットできるじゃないか」。
それから2週間、素晴らしい駐車スペースを逃しているという考えに、毎日毎日捕われているのです。機会費用は、私たちの選択がどんなに素晴らしいものであっても、その満足度から差し引かれていきます。
だから選択肢が多ければ多い程、またそれらが魅力的であればあるほど、それらは機会費用として私たちに跳ね返ってくるのです。もうひとつの例をあげてみましょう。
(会場笑)
この画像は多くの点を示しています。ひとつは、今を生きるという点。また、ゆっくりと時間をかけて物事を進めるということ。でもこれは同時に、どれか1つのことを選んだとしたら他のことをやらない選択をしたということでもあります。
そして、やらないその他のことにはたくさんの魅力的なものが含まれているかもしれない。このような考えが、今自分のやっていることを魅力的でなくしているのです。
3つ目は、期待値の増大です。これはジーンズを買い換えに行った時に気がついたのですが、私はいつもジーンズを履いています。以前は、ジーンズは1種類しかなかったので、それを購入しました。
私の体に全然あっていなくて信じられないくらい着心地も悪かったですが、長いこと履いて何度も洗うことによって何となく良くなっていきました。そこで何年も何年も履いたジーンズを買い替えに行きました。店員に「ジーンズが欲しい。サイズはこれです」と伝えました。
「スリムと、ストレートとリラックスとどれにしますか? ボタンフライかジッパーにしますか? ストーンウォッシュ、それともアシッド? ダメージ加工のものにしますか? ブーツカットにするか、テーパードにするか、それともそれとも……」と永遠に続きました。
私は呆れて何も言えなくなってしまったのですが、ほどなくして「以前ひとつしかなかったやつと同じものが欲しい」と言ったのです。
(会場笑)
その店員はそれがどんなものか検討もつかなかったので(笑)、私はいろいろなジーンズを1時間にも渡って試着し、正直に言うと今までで最高にフィットしたジーンズを手に入れてお店を後にしました。
これらの多くの選択肢が、私が最高のものを選ぶことを可能にしてくれました。でも気分は最悪でした。何故か? 私はそれを自分に説明するためにこの本を書きました。
(会場笑)
私の気分が最悪だった理由は、これだけ多くの選択肢が与えられていることで私にとって良いジーンズの期待値が上がってしまったからです。 もともと全く期待していませんでした。選択肢がひとつしかなかった時は全く期待などしていなかったのです。
それが100種類に増えてしまった途端、どれかひとつ完璧であるべきだと思うようになったのです。そして私が買ったものだって良いものだったが完璧ではありませんでした。
期待していたものと実際に買ったものを比較すると、期待していたものに比べて買ったものは満足度が低かったのです。人々の生活に選択肢を増やすことは、それらの選択肢に対する期待値を増大させることを余儀なくさせています。
そしてそれは結果が例えいいものだったとしても、その満足度をより少なくするという事態を生み出します。マーケティングの世界では誰もこのことを知りません。知っていたとしても、誰もこれが何のことがわからないでしょう。真実とはこのようなものです。
「全てが最悪だったときの方がうまくいっていた」。
(会場笑)
何もかもが良くなかった頃のほうが良かった理由とは、何もかもが良く無かった頃は良い意味での驚きをもたらす体験をすることが可能だったからです。今現在、完璧を求める裕福な産業国に住んでいるこの世界で望みうる最高のことはものが期待通りであることなのです。
それはあなたや私の期待値が天井知らずになってしまったことで、良い意味での驚きというものはあり得なくなったということです。皆さんが今日ここに来た目的、幸せを得るための秘密は、期待値を低く持つことなのです。
(会場笑)
「いつか誓うでしょう」。
少し個人的な話をすると、私の妻は大変素晴らしい女性です。私にはもったいないくらいです。一切妥協はしませんでした。でも必ずしも妥協が悪いとは限りません。
最後に、選択肢が1種類しかない場合にきちんとフィットしていないジーンズを買うことの悪影響とは、あなた自身が満足していない理由を考え、誰の責任かを自分に問うことです。その答えは明白です。この世の中が悪い。
あなたに何ができたでしょう? ジーンズの種類が何100もある中から満足のいかないものを買ってしまった時、その理由と誰の責任かを自問自答します。この答えも同じく明白、あなた自身です。
あなたはもっと良いものを選べたはずです。何100種類ものジーンズを前にして、失敗は許されません。だから人々が決断を下す時、またその決断がたとえ良いものであったとしてもそれに満足が得られなかったら、人は自分自身を責めるのです。
ここ数10年で、産業国では臨床鬱症状が爆発的に増加しました。これだけが理由ではありませんが、鬱病や自殺が爆発的に増えたその要因の大部分は、人々の期待値が高すぎたことで経験が不満足なものになってしまっている点に起因していると私は思っています。
そしてそのような体験を自分自身に説明しようとする際、全て自分の責任だと思ってしまうことです。すると総体的な結果として、一般的に、客観的には良いことになっているのに気持ちは最悪になってしまいます。
皆さん覚えていてください。皆が自明のこととして信じている公式ドグマは、みんな嘘っぱち、真実ではないのです。
全く選択肢がないよりは多少あったほうがいいに決まっています。だからといって選択肢は多ければ多いほどいいということではありません。どれくらいがいいのかは私にはわかりませんが、選択肢の多さが私たちに繁栄をもたらすという段階をとっくに通り越してしまったと、私は自信を持って言えます。
そこで、政策問題として考えなくてはならないのは次の点です。産業社会において選択肢を与えているのは物質的な豊かさです。
世界には選択肢の多さではなく、選択肢の少なさが問題になっている場所がまだ数多くあるということを私たちは聞いて知っています。だから今私が言っていることは、近代の豊かな西欧社会独特の問題なのです。
私が言いたいのは、難しい選択肢は、役に立たないだけではなく、実際に危害を加えるということです。私たちをより悪い方へと導いているのです。
私たちの社会において多くの選択肢を可能にしているものを、選択肢の少なすぎる社会に移すことができたとしたら、 選択肢の少なすぎる社会の人たちの生活が向上するだけでなく私たちの生活も向上するでしょう。
これが、経済学者が言うところのパレート改善です。収入の再分配は、貧しい人たちだけでなく全ての人たちを幸せします。それは多すぎる選択肢の悩みから解放されるからです。
「あなたは何にだってなれるよ。限界なんてないのさ」。
結論、このスライドを見てあなたは洗練された人のように「この魚が何を知っているのだろう? この金魚鉢の中では何も可能性などないことを知っているでしょうに」と言うべきなのです。
創造力の欠如、近視眼的な世界観。私も初めはそのように解釈しました。しかし考えを進めて行くうちに、この魚は何事かを知っているかもしれないと思うようになりました。
なぜならこの問題の根源は、可能性を無限にするために金魚鉢を叩き割って得られるのは自由ではなく無力感だということなのです。可能性を広げるために金魚鉢を叩き割ってしまったら満足度は低下します。無力感を増大させ、満足度が低下します。
みんなが金魚鉢を必要としているのです。魚にとってだけでなく、私たちにとっても、今あるものには限界があります。しかし隠喩的な金魚鉢の欠如は、不幸を作るレシピに過ぎません。また、大災害のもとにもなることでしょう。
ありがとうございました。
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