性犯罪者の勝ち逃げ感

- -
われわれが個体としての同一性を持つのは、肉体の担保性によるのだが、これだけでは足りない。物質的に同一であっても、その確認作業がなければ意味がないからだ。時間が経過し状況が変化しても、同一人物であるという自我を保つのは、記憶の反復である。記憶の反芻を頻繁に行うことで、人間は同一性を保っているのだ。時間の流れの中で、人間は再生産的に存在している。過去の記憶の反芻を繰り返し、自らの同一性を確認し、一日三食食べて肉体を維持しながら生きている。つまり毎日毎日別人になるのではなく、同一人物として再生産する。時間が経過するたびに体験は過去として過ぎ去っていくが、それは遺灰として海に投げ捨てられるのではなく、記憶の反芻によって、過去は歴史的に定着し、現在の自分に組み込まれる。すべての体験の重みは均一ではなく、自己を再生産する過程で何となく消え去るものがあれば、消えないものもある。消えない最たるものが「あの女とやった」という事実である。この事実性だけは何度も何度も再生産の中で現前し、色褪せることなく反芻が続く。15世紀にジャンヌ・ダルクがイギリスに捕まった際に、検査で処女膜が確認されたため、異端審問での死刑を逃れるかと思われた。魔女と認定される基準として、「悪魔とセックスした」という理由付けが多かったが、処女膜があるジャンヌ・ダルクに対してそれは出来なかった。しかし牢獄でイギリス兵からレイプされ続けたので(むなしい抵抗として)男装したところ、その男装が異端者の行為であるとして火刑に処された。ジャンヌ・ダルクがレイプされたという絶対的な証拠はないのだが、司教から死刑を告げられた時に「教会の牢で教会の番人だったら、こんなことにはならなかった」という不満をジャンヌが唱えた記録は残っており、おそらくされたのだろうと推察される。ジャンヌ・ダルクも、それをレイプしたイギリス兵も遠い昔に死んだので、その陵辱の苦しみに終止符が打たれたようにも思われるが、歴史書でこのエピソードに出くわすたびに痛ましさが再生産される。後にローマ法王は異端としたことを取り消し、ジャンヌ・ダルクの名誉を回復したのだが、バチカンで公式に聖女と認定され、フランスのカトリック教会で信仰の対象となるほどに、この少女の純潔を陵辱したイギリス兵の勝ち逃げ感が強まる。いろいろな事件が起こるとして、それに対するネットの反応を見ていると、それなりの傾向がある。性犯罪に関しては、「こういう刑罰を下そう」というアイデアがたくさん投稿される。どうやってリンチしようかと空想し、むなしく知恵を絞るのだ。囚人でさえ、性犯罪者は許せないと思うらしいが、根底にあるのは、勝ち逃げ感への嫉妬だ。破産した敗残者としてムショに入ってきたのではなく、勝ち逃げしてムショに来たというオーラがあるから、リンチに遭ったりする。会社の金を五億円使い込んで豪遊したという犯罪者に勝ち逃げ感はない。五億円の豪遊をして楽しんだかもしれないが、そんなものは現在では夢幻であり、現在という時間の再生産プロセスには組み込めない。現在に残らない浪費をしたわけであり、過去の時間の中で破産済みなのだ。もちろん一般的に楽しかった過去はよい記憶として再生産され、後の人生に組み込まれていくのだが、横領した金で豪遊して逮捕されたら終わりに決まっており、キャバクラ嬢と飲み明かした楽しい記憶なんて再生産プロセスから弾かれる。しかし性犯罪は永遠性があるようだ。過去の五億円の豪遊とは違い、永遠的に再生産される勝利であるらしい。性犯罪の被害者にとっても、その記憶は永遠的である。「やられた」という事実性の強さが死ぬまで付きまとうのである。男性器を女性器に挿入するくらいに撤回不能の強力な事実はない。たとえば絨毯を汚したなら、その汚した事実は覆らないにしても、新しい絨毯に交換すれば解決する。時間を巻き戻して絨毯を汚さなかったように歴史を書き換える必要はなく、新しい絨毯を購入すればいいのだ。絨毯を汚した事実は事実だが、これは新品交換で容易に原状回復出来るので、(撤回不能性としての)事実性が弱く、時間の不可逆性に阻まれない。このように、何かが壊れたから買い換えるようなことは、時間の流れの中の出来事ではあるとしても、どうでもいいことだから曖昧さの中に忘却される。絨毯を汚した過去は自己の再生産プロセスの中でいちいち反芻しないので、時間軸から外れた物理的問題だ。性犯罪の問題は、このような解決が出来ない。本人の記憶力の問題ではなく、「やった」とか「やられた」という事実の撤回不能性の強度が強すぎるので、忘れる忘れないの話ではない。いじめ被害者が後の人生で負け組になると、いじめられた記憶を毎日反芻しながら苦しんで生きると言われるが、仮に人生で成功したら克服できる。いじめられたというのも事実性が強く、「あいつはいじめられっ子だった」という事実性は撤回できないので強度があるが、「あいつはレイプされた」というのに比べれば、はるかに強度が弱いので、人生の成功で克服することが可能だ。ドーピングした金メダリストからメダルを剥奪することは出来るし、その栄誉の記憶には泥が塗られる。金メダル獲得の際に、どれだけ賞賛を受けたとしても、その全能感は抹消され、これからの人生の再生産プロセスには組み込まれない。栄光の日々を思い出しても、オリンピックの舞台で光り輝いた自分は虚偽であり、苦い記憶として再定義され、無惨な自分を再生産する後半生を過ごす。金メダルは社会的な達成であり、その事実性を社会で抹消されたら、金メダリストとしての自己を再生産できないのは当然だ。こうやって長々と筆を走らせても、ジャンヌ・ダルクの処女を陵辱したイギリス兵の勝ち逃げ感が拭えない。500年以上の時間が流れても、このエピソードは風化せず、どこまでも痛ましく再生産される。性とは美の消費なので、容姿の問題が重要だが、ジャンヌの肖像画などはまったくないため、どういう外見だったかは不明である。ジャンヌ・ダルクは貴族でも何でもない農民の娘であるが、それが天啓を受け、廃嫡されていたシャルル7世に謁見し、見神者として軍隊を率いたのだから、人々を惹き付けるカリスマ性に溢れていたことに間違いはなく、それなりの容姿レベルだったはずだ。ジャンヌ・ダルクが生きていた当時の中世社会では女子は12歳で成人とされており、十代後半のジャンヌは大人として扱われていたとも思われるが、何にせよ今日のような移民大国ではなく、生粋のフランス人で10代の少女だから、よほどのことがない限り美少女だと思われる。(もちろんフランス人少女としてあり得ないドブスとして存在感があった可能性もなくはない)。刑法で最高の罪は殺人だとされているが、殺されずともいずれ人間は死ぬので、永遠の命を奪われたわけではない。世界史的人物が天寿を全うするべきではないとも言えるし、ケネディやキング牧師が暗殺されても犯罪被害者として扱わないのと同じで、ジャンヌ・ダルクが処刑されたのも普通のことだが、陵辱の件だけは引っ掛からざるを得ないのである。後年シェイクスピアはジャンヌを売春婦として描いているが、ジャンヌの処女性を破壊したいのがイギリス人の欲望なのだろう。
ページトップ