ホノルルから航空便が届いた。一九四五年四月、米軍の沖縄上陸作戦に私が参加した時の部下からだった。「ジロー」と呼ばれた日系二世の比嘉武二郎。私より一つ年下の九十歳からの手紙には元気な近況がつづられ 「Aloha from Hawaii」とあった。枯れ葉舞う東京に届いたハワイからのそよ風に、ほおがゆるんだ。
沖縄上陸はよく覚えている。日本軍は南部に戦力を集中していて、私たちは何の攻撃も受けずに読谷村に上陸した。その一週間後だった。陸軍の第九六歩兵師団が通訳士官を求めていた。海軍の通訳士官だった私が志願すると、十人ほどの日系人の通訳を部下につけられた。その一人がジローだった。
ジローは両親が沖縄出身で移民先のハワイで生まれた。家族の都合で幼少年期を沖縄で過ごし、十六歳で再びハワイへ。七十二年前の今月七日(現地時間)は、ホノルルで皿洗いのアルバイトをしていた。日本軍の真珠湾攻撃の爆音が耳に届き「今日の演習は派手だな」と思っていたそうだ。
私は沖縄で方言が分からず苦労した。その点、完璧だったジローがある日「伯母の家でお昼を食べよう」と誘ってきた。何の気なしに応じたが、不思議な体験だった。日米が交戦する最前線からほんの数キロ離れた日本人民家で、私たち米兵が歓待されたのだ。無理して準備してくれただろう食事はありがたくいただいた。ただ、吸い物だけは口に合わず、飲み干すのに冷や汗が出た。お代わりを勧められて困惑したことは、忘れられない思い出だ。最後に一つだけ覚えた方言で「クワッチーサビタン(ごちそうさま)」。
英語はうまくなかったジローだが、日本人を「ジャップ」とさげすんで呼び、米兵が好む簡単な常とう句をしたり顔で使い、妙に陽気に振る舞っていた。当時、ハワイで日系人は肩身が狭く、その中でも沖縄出身者は下に見られていた。必要以上に米国人を装ったのだろう。だが、ジローが尋問した捕虜には小学校時代の恩師や同級生がいて、こっそり厚遇したそうだ。「米兵のジロー」には「沖縄の武二郎」が隠れていたのだ。
ジローのような日系人の元米兵は少なくない。ハワイの海軍基地で私と一緒だった日系二世のドン・オカは七人兄弟で、そのうち五人は米兵、二人は日本兵として世界大戦に出征した。オカと日本兵の弟は同時期にサイパンにいて、弟はそこで戦死した。九十三歳のオカはロサンゼルスの老人施設にいる。
最近、米国で日系人兵士を再評価する動きがあると聞いた。二〇一一年には、ジローら陸軍情報部の元兵士と、欧州戦線での戦闘で有名な日系志願兵部隊、陸軍第四四二連隊の元兵士らに、最も権威のある勲章の一つの議会金章が授与された。同連隊の元兵士で昨年、亡くなった上院議会の重鎮、ダニエル・イノウエには先月、文民最高位の大統領自由勲章も贈られた。
ちょうど一年前、私は沖縄を訪ねた。立ち寄った平和祈念公園の石碑「平和の礎(いしじ)」には二十万人余りの戦没者の名前が刻まれていた。ジローやオカの友人、知人もいただろう。その一人一人に、まだ知られぬ物語があるのだ。(日本文学研究者)