| 4. 「太政官指令」に現れた鬱陵島・独島認識 良く知られているように、太政官指令(1877)は「竹島(鬱陵島)外一島(独島)の件は本邦(日本)と関係無いものと心得ること」という指示を含んでいる日本の最高国家機関太政官の公式文書だ。これは、日本政府が江戸幕府と朝鮮との間で鬱陵島領有権をめぐって展開した外交交渉、いわゆる竹島一件(鬱陵島争界)を詳しく調査した結果下した結論で、歴史的に独島領有権の帰属判断に終止符を打った決定的な文書だ。(←翻訳者茶々:はいはい、例によってこういう全く間違った前提から話が始まります。) 通常、太政官指令とは、日本政府が鬱陵島と独島の領有権が朝鮮にあることを確認して、二島を島根県の地籍に上げないように指示して、「日本海内鬱陵島と独島を日本領土外に定める」という題名を付けて官報に該当する『太政類典』に公示した一連の文書をいう。太政官指令は領土担当の政府機関である内務省が最高国家機関である太政官の決裁を経て下した政府の公式的な決定であり、朝鮮との外交文書ではなくても安龍福事件時の外交交渉の結果を改めて確認したものだから外交交渉文書に準じるものといえる(注28)。これは、「竹島(鬱陵島)外一島(独島)」は竹島一件(鬱陵島争界)を通じて朝鮮と日本の間で朝鮮の土地と認定されたので、新政府(明治政府)もこれを継承しなければならないということを意味しているものだ。言い換えれば、これは日本政府(内務省と太政官)が韓日間の境界は竹島一件(鬱陵島争界)で成り立った朝鮮と日本の合意を尊重、継承することを確認したものだと見ることができる(注29)。 (注28)チョン・テマン 「太政官指令以前の日本の独島認識」『史学志』 45号 檀国史学会 2012 p5 (注29)「日本太政官と独島」 イ・ソンファン他 訳注及び解題p136-137。以下「日本太政官と独島」と略す。 太政官指令が下される前に島根県が内務省に送った「日本海内竹島(鬱陵島)外一島地籍編纂方伺」において、竹島(鬱陵島)の地理的位置に対する返事があった。 すなわち、島根県は「もともと本県(島根県)の管轄と確定したものでもなく、また、海北に100里余り(約185km)も遠く離れていて航路も不明」としながら、「隠岐国の北西の側に位置して、山陰一帯の西部に編籍しなければならないこと」(注30)と報告した。 島根県が内務省に提出した付属文書「島根県文書01-1」の「由来の概略」に、「竹島外一島」関連の太政官指令文で唯一、松島(独島)の地理に関する記述が登場している。「由来の概略」は「島根県伺書」の付属文書として内務省に提出した「原由の概略」の序文に該当する部分だ。竹島(鬱陵島)と松島(独島)の位置、地形、産物などを紹介している。まず、鬱陵島の地理的特性について次の通り記述している(注31)。 磯竹島(鬱陵島)または竹島という。隠岐国の北西側約120(約222km、実際=245km)里離れたところにある。周りは約10里程度であり、山が険しくて平地が少ない。河川は三幹があって滝もある。しかし渓谷が深くて樹木が奥深く、竹が鬱蒼としてその終わりが分からない[…]魚貝類は数えることができないほどだ。その中でもアシカとアワビが随一の物産だ。アワビを採る時は夕方に竹を海に投げて朝取り出して上げれば枝と葉にアワビがものすごく多い。その味は非常に良い。また、アシカ一匹で何升もの油を得ることができる。 この文書を読めば、誰でも鬱陵島に渡航してアワビとアシカの漁猟を通じて途方もない利益を得ることができると考えることになる。一言でいえば、鬱陵島に行くことができるならば一攫千金の機会が得られるという考えを持つことになるだろう。当然、日本の漁民はうらやましがるほかはなかっただろう。鬱陵島から出る産物としては、植物類が椿、栂、竹、山菜など23種、動物ではアシカ、猫、鳩など15種を紹介している。鬱陵島の地理と産物を紹介した後、続けて独島(松島)の地理と産物について記述している(注32)。 (注30) 「日本太政官と独島」 p151-154。100里余り(約185km)は隠岐-鬱陵島間の現在の距離245kmに近接する(海上距離1里=1海里=1.852kmで算定) (注31) 「日本太政官と独島」 p169~172 (注32)「日本太政官と独島」 p172 そして[また]一つの島がある。松島(独島)と呼ぶ。周囲は30町(約3,270m)程度だ。竹島(鬱陵島)と同一航路上にあって隠岐から80里(約148km、実際=157km)ほど離れている。樹木や竹は珍しい。そして魚と海獣(アシカ)がいる。 上の引用文に見るように、太政官指令(1877)当時、鬱陵島・独島に対する地理的認識は実際の距離と相当な近似値を見せていることが分かる。 島根県は「竹島外一島」の地理的位置を示すために内務省に提出した上記「地籍編纂伺書」に「磯竹島略図」の図面を添付して隠岐-独島-鬱陵島間の距離を表示している。地図中の文章を見れば鬱陵島-独島-隠岐島間の距離関係が良く現れている(注33)。 [朝鮮国] 磯竹島から朝鮮国を遠く仰ぎ見る 西側(8~10時方向)へ海上約50里(92.6km)程度 [磯竹島] 松島から磯竹島までの距離北西側40里(74km)程度 [松島] 隠岐島島後福浦から松島までの距離北西側(乾位) 80里(148km)程度 [隠岐島島後福浦] (注33)ソン・フィヨン 「日本の独島に対する“17世紀領有権確立説”の虚構性-日本外務省の竹島広報パンフレットのポイント3,4批判-」 『民族文化論叢』44 嶺南大学民族文化研究所 2010.4 p53参照 <コメント> ○「官報に該当する『太政類典』に公示した」 ・・・・・・違いますよ。『太政類典』は官報のように複写して広く配付されたわけではない。単に、以後の行政の基準となるべき文書を集めただけのもの。 ○(海上距離1里=1海里=1.852kmで算定) ・・・・・・はい、イ・テウさんは何の証拠もなく磯竹島略図に書かれている「里」は「海里」であると解釈しています。磯竹島略図は17世紀に鬱陵島に行き来していた大谷・村川の誰かによって書かれたものですよ。その彼らが海里の知識を使っていたと何で言えるのだろうか。ただただ、海里で解釈すれば磯竹島略図に書かれている二つの島が鬱陵島と竹島(独島)であることがより確実に言えるから、という理由から海里で解釈しているだけですね。距離の「里」が海里だというなら、鬱陵島の大きさを説明する「十里」の「里」も同じ海里だとでも言うつもりだろうか? ○「太政官指令(1877)当時、鬱陵島・独島に対する地理的認識は実際の距離と相当な近似値を見せていることが分かる」 ・・・・・・そんなことは分かりませんよ。太政官指令に関する文書の意味も理解せずにモノを言っていますね。17世紀に把握された情報(磯竹島略図ほか)を1877年の政府が見た、というだけのことであって、1877年の政府は鬱陵島や現竹島の位置について確たる見解は有していません。 |
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