| 近代日本の官撰史料に現れた鬱陵島・独島認識の検討 ―『朝鮮国交際始末内探書』、『竹島考証』、『太政官指令』を中心にー イ・テウ/嶺南大学独島研究所研究教授 『独島研究』第24号 2018.06.30 p47 嶺南大学独島研究所 (続き) 北沢正誠は「竹島渡海禁止令」を破って不法に朝鮮の土地竹島(鬱陵島)へ渡海した八右衛門事件が発生した後、19世紀後半期から鬱陵島・独島に対する関心が増大して、1870年代には「竹島渡海請願書」と「松島開拓願」を要請する業者が出て来たと『竹島考証』で叙述している。この時点から日本内部では竹島(鬱陵島)と松島(独島)に対する名称混乱が生じ始める。長い期間、鬱陵島・独島に対する「渡海禁止令」と「八右衛門事件」の影響で鬱陵島・独島の存在に対して関心を持たなかったためであろう。したがって、二島の存在に対してまともに認識できなかった日本人たちは、鬱陵島を松島に、独島を竹島に名称を変えて呼ぶなど名称の混乱がますます増加していることが分かる。北沢正誠によれば、まず明治10年(1877年)1月、島根県の戸田敬義が「竹島渡海請願書」を東京部に提出した。彼は「隠岐国から約70里(約130km)ほど離れた西北側の海に荒漠な不毛の孤島が一つあって、これを竹島(鬱陵島)と呼ぶ」として、正確ではないがある程度鬱陵島・独島を地理的に認知していることが分かる(注21)。戸田敬義は鬱陵島開拓のために三回にわたって「竹島渡海請願書」を提出したが、1877年6月8日、東京副知事楠本正陵は、結局、渡海請願を「不許可」とした(注22)。鬱陵島が朝鮮の土地であることを歴史的事実を通じてよく知っていた当時の日本政府は、韓国・日本間紛争の素地を作りたくなかっただろう。 これに先立つ明治9年(1876年)、陸奥に住む武藤平学が伐採、漁猟、鉱山開発、灯台設置のために「松島(鬱陵島)開拓案」を外務省に建議した(注23)。北沢正誠はこの「松島開拓案」に対して自身の考えを提示している(注24)。 (注21)『竹島考証』 p292~295参照 (注22)『竹島考証』 p292~323参照 (注23)『竹島考証』 p322~343参照 (注24)『竹島考証』p340~343参照 ある者は、日本が今松島に手をつければ朝鮮が問題を提起することになると言うが、松島は日本の領土に近くて昔から我が国に属する島として日本地図でも日本の領域のうちに描かれている日本の領土だ。また、竹島は徳川氏が治めていた時に対立が生じて朝鮮に譲り渡すことになったが、松島に対する議論はなかったので日本の領土であることは明らかだ。もし、また朝鮮が問題を提起するならば、どちら側からがより近くてどちら側からが遠いのかを論じて、日本の島であることを証明しなければならない。 独島領有権に対する北沢正誠の意図がよく現れた考えだ。一応、「松島開拓案」を主張した武藤平学は松島を鬱陵島として知っていて、これに対する自身の考えを提示している北沢正誠は松島を独島として知っている。二人は互いに東問西答(的外れな受け答え)をしているようにも見える。何よりも、北沢正誠は、竹島(鬱陵島)は朝鮮の土地だが「松島(独島)は日本の領土に近くて昔から日本に属した島」とごり押し主張を広げている。当時の距離測量が正確でなかったとしても、鬱陵島-独島(87.4km)の距離は隠岐-独島(157km)の距離よりも2倍も近い点を見れば、この主張の客観性と信頼性に問題があることが分かる。 また、「昔から日本に属する島」であったという主張もやはり虚構的主張だ。歴史的・地理的に韓国が独島を領有していたことは、私たちの過去の記録物で十分に立証されている事実なので新たに取り上げ論じる必要がない。(←翻訳者茶々:アア、ナンテシアワセナヒトダロウ) ともかく、北沢正誠は『竹島考証』において鬱陵島と独島を分離して、鬱陵島に対しては韓国の領有権を認めて独島に対しては日本の領有だと主張している。このような彼の考えは、1905年不法独島編入の正当化の論理を提供したと見ることができる。 ほぼ同時期、児玉貞陽は「松島開拓着手段階予想案」を作成して外務省に提出した(注25)。彼が提出した案の10の項目を見れば、1. 開拓人が小さい家を作って居住する、2.伐木、3.港を作る所を確定、4.灯台建設、5.良い木材その他の物品を輸出、6.土地開拓、7.場所を定めて船舶用物品保管、8.民家を作って人を移住させる、9.漁猟の準備をする、10.農作業開始、となっている(注26)。 上の二人の書信に対して、外務省記録局長渡辺洪基は開拓の必要性をより一層強調した。これは、鬱陵島・独島を侵奪するための民官の計画が既に緻密に準備されていたことを示すものだ。渡辺洪基は当時の鬱陵島・独島の地理的位置を近代的数理概念を適用して緯度と経度で表示しているが、竹島(鬱陵島)と松島(独島)に対する名称の混乱を見せている(注27)。これは鬱陵島・独島に対する歴史的・地理的認識が相変らず欠如していることを見せるものだ。その理由は、鬱陵島・独島渡海禁止令で永らく二島に対する関心と認識が不足する外は無かったためだ。 北沢正誠が鬱陵島(竹島)と独島(松島)に関する記録を集成して分析した結果は、「松島は韓国の鬱陵島で竹島は松島(鬱陵島)に付属している小さな岩石」というものだ。 これは1860~1870年当時の日本が鬱陵島と独島の名称と地理的認識に対して非常に混乱していたことを見せるもので、鬱陵島と独島に対する日本の認識が非常に不足したことを示すものだ。このように島の名称も島の位置も正しく知ることができずにいて17世紀から自分たちの固有領土だったと強弁する日本の論理は一考の価値もないものだ。 (注25) 『竹島考証』 p342~351参照 (注26) 『竹島考証』 p350~355参照 (注27) 『竹島考証』 p354~377参照 <コメント> ○「二島の存在に対してまともに認識できなかった日本人たちは、鬱陵島を松島に、独島を竹島に名称を変えて呼ぶなど名称の混乱がますます増加していることが分かる。」 ・・・・・・自分たちのほうこそこのころは「独島」と後で呼ぶことになる島があること自体を知らなかった、という事実をこの人も認識できていないからなあ。そして、「独島を竹島に名称を変えて呼ぶ」というのは、名称の混乱が収束した1881年から24年も経過した1905年の竹島正式領土化のときのことですよ。この人は事実関係の基本も理解できずにえらそうな主張をしている。 ○「北沢正誠は松島を独島として知っている」 ・・・・・・これも間違い。『竹島考証』をちゃんと読めていない。北沢さんがいつ今の竹島を視察して「これが松島だ」と確認したというのだろうか。北沢さんが「松島」というものを北緯37度14分、東経131度52分あたりにあって東西ニ島から成る岩礁だと理解していたとなぜ言えるのだろうか。『竹島考証』の結論は「松島は鬱陵島だった」というのだから、北沢さんが「松島」として見ていたのは鬱陵島のことだったのですよ。 ○これは、鬱陵島・独島を侵奪するための民官の計画が既に緻密に準備されていたことを示すものだ。 ・・・・・・思いつきで日本の悪口を言えばいいというものではないですよ。日本は鬱陵島を盗るなどという行動は何も起こさなかったのだし、竹島を領土に入れたのも中井養三郎さんの領土編入請願が出たからであり、20年以上も後のことですからね。 ○北沢正誠が鬱陵島(竹島)と独島(松島)に関する記録を集成して分析した結果は ・・・・・・これも違いますね。北沢さんの頭の中に今の竹島のことは無かったのですよ。ただ、集めた資料のごく一部(渡辺洪基さんの「松島の議」)の中に今の竹島に関する記述が出てくるくらいですね。 ○このように島の名称も島の位置も正しく知ることができずにいて17世紀から自分たちの固有領土だったと強弁する日本の論理は一考の価値もないものだ。 ・・・・・・明治の政府が島の名称や位置について分からなかったとしても、今の日本政府が「竹島は日本固有の領土」と言っているのは、そういうこととは全く関係の無い史実に基づいているので何の問題もない主張ですよ。イ・テウさんはたぶん一考どころか百考しても分からないだろうが。 |
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