| 3. 『竹島考證』に現れた鬱陵島・独島認識 『竹島考証』は北沢正誠が編集した本で、上・中・下巻で構成されている(注8)。 (注8)『竹島考証』 独島資料集Ⅱ 正しい歴史確立企画団 2006 ; この本は日本明治政府によって東海上にある竹島と松島がいかなる島であってどこの国に属する島かを詳しく研究検討した後、二つとも韓国の島だと結論を下している。「松島」を鬱陵島のそばの「竹島」と結論を出しているが、これはかえって日本が独島をまともに認識できずにいたという事実を反証している。 (←翻訳者茶々:一体何の話?) 上巻と中巻は、韓・中・日の歴史的文献に現れた鬱陵島・独島に関する記録を紹介している。特に、中巻では、安龍福の渡日によって韓日両国間に発生した鬱陵島争界(竹島一件)の過程と、最終的に「竹島(鬱陵島)渡海禁止令」を下す過程を扱っている。下巻では、天保時代(1830年代)にあった日本人の「竹島渡海事件」及び明治10年(1877年)ごろにあった「松島開拓願」をめぐる事件の経過を記述して、天城艦の調査によって「松島」は朝鮮の鬱陵島で「竹島」は「松島」の北側にある小さな岩石だという結論が出た、ということで終わっている。全体的に見た時、この本は19世紀末の日本の鬱陵島と独島の領有権に対する混乱した認識を見せる史料だ。 ところで、ここで私たちが一つ見逃してはいけない事項がある。この本を編集した北沢正誠がどういう意図を持って編集したかということだ。彼が、例えこの本の結論部分で鬱陵島が朝鮮の地であることを認めているとしても、この本のあちこちで内心鬱陵島は日本の領土にならなければならないという考えを表わしている。つまり「捨てられた土地を自分が取れば自分の土地になる」という論理を展開しているが、このような論理は「無主地先占論」や「固有領土説」につながり、結局、1905年に独島を「無主地」として自国の領土に不法編入することの理論的根拠になったのだ(注9)。もちろん、彼がこの本を編集するに参考にした韓国側の史料をあちこちで歪曲しているという点も、彼の意図を素直に受け入れることができないようにしている(注10)。したがって、このような点を十分に勘案してこの史料を検討しなければならないだろう。 (注9)キム・ホドン 『竹島考証』の史料歪曲 :「韓国側引用書」を中心に 『日本文化学報』40 韓日文化学会 2009.3 p45~346参照 (注10)北沢正誠の韓国側引用書歪曲の実状に関連した内容はキム・ホドンの上の論文p331~345参照 北沢正誠は、この本で竹島の領有権に対して日本、朝鮮、中国で伝えられて来た文献を引用して記述している。彼が引用した朝鮮の文献は『東国通鑑』、『東国輿地勝覧』、『高麗史』、『通文館志』があり、中国の文献では明国の『武備誌』、『図書編』、『登壇必究』などがある。また、日本の文献では『大日本史』、『竹島雑誌』(翻訳者知らず:これ何?)、『竹島図説』、『朝鮮通文大紀』(翻訳者注:朝鮮通交大紀の間違いか)、『善隣通書』、『竹島記事』、『竹島考』などから引用している。 まず、この本の<上巻>で北沢正誠は『竹島考』を引用して鬱陵島・独島の地理的特性について言及している(注11)。 竹島(磯竹島ともいう)は我が国と朝鮮の間にある孤島だ。周りが10里程度になる険しく高い山であり、渓谷が深くてひっそりとしており、木が鬱蒼として竹がぎっしりと生えている。土地は肥沃で多くの産物が出る。 ここで竹島(または磯竹島)はもちろん鬱陵島を指す。島の周り10里(40km)(注12)は現在の島の周り64kmよりはるかに小さいものと認知しているが、鬱陵島の地形と地質、特産品についてはある程度認知していると見える。 また『竹島図説』に基づいて「他計甚摩」と訓読されているが、その土地の東側海岸に周囲が二尺になる大きな竹があるのがいわゆる竹島という名前がついた縁由だ」(注13)として、大竹が多い鬱陵島の地理的特性から鬱陵島を竹島と呼び起こしたということが分かる。 (注11)『竹島考証』 p13 (注12)当時の日本の陸地距離の単位1里は4kmに換算される。 (注13)『竹島考証』 p13~14 北沢正誠は、『竹島雑誌』、『竹島図説』、『竹島考』などを引用して、竹島は日本人が発見した日本の島なので日本人が海上利益の独占権を有していたが、安龍福の渡日によって触発された「竹島一件」(鬱陵島争界)を経て元禄9年(1696年)に朝鮮の鬱陵島であることを認めて朝鮮へ返したと強弁している(注14)。しかしこれは、歴史的に異斯夫が于山国を服属させて以後韓国が領有して来たという数多くの韓国側文献で立証されているところで、反論の価値さえ無いことだ。 北沢正誠は、『竹島考証』の開始の部分から『竹島考』の内容と主張に比重を置いて引用している。『竹島考』は1828年に鳥取藩藩士岡嶋正義が編纂した本で、鬱陵島(竹島)の領有権に関する考えを当時の文書と記録、口述などに基づいて整理したものだ。この本は安龍福の渡日事件以後約130余年が過ぎた時点で書かれた本だ。そのために内容の正確性が落ちるだけでなく、基本的に鬱陵島・独島は日本領土という見解で記述していて、歪曲されて偏向した見解が少なからず含まれている。岡嶋はこの本の序文で、いつか奪われた竹島を取り戻さなければならないという考えをありのままに現わしている(注15)。 『竹島考』に現れているこのような岡嶋の考えを、北沢正誠は『竹島考証』でそのまま受け継いでいる。『竹島考証』<中巻>で、彼は、17世紀末の安龍福事件が発端となった朝鮮と日本間の鬱陵島争界(竹島一件)を再構成して、日本政府が鬱陵島渡航禁止令を下した経緯に言及した後、これに対する自身の考えを次の通り提示している(注16)。 (注14)『竹島考証』 p17~21 (注15)イ・テウ 「近世日本の史料に現れた鬱陵島・独島の地理的認識」『独島研究』20 嶺南大学独島研究所 2017.6 p49以下参照 ; 『竹島考』上・下 チョン・ヨンミ訳 慶尚北道独島史料研究会 2010 p11~13参照 (注16)『竹島考証』p249~257
竹島は元和時代[1615~1623]以来80年の間、我が[日本]国民が漁猟をした島であったため、我が領域ということを信じ、彼の国[朝鮮]の人々が来て漁猟することを禁じようとした。彼らは最初には竹島と鬱島が同じ島であることを知らなかったと答えてきたが、それに対する議論がますます熱を帯びることになるとすぐに、竹島と鬱島は同じ島に対する別の名前だと言い、逆に私たちが国境を侵したと叱責した。古史を見るならば鬱島が朝鮮の島ということについては二言を要しない。しかし、文録時代[1592年]以来捨て置いて省みなかった。 我が国の人々がそこが空の土地であるから行って住んだ。すなわち我が土地である。その昔、両国の境界は常にそのとおりだったろうか。その土地を自分が取れば自分の土地になり、捨てれば他人の土地になる。 […]ところが、朝鮮だけは自分が80年間放置して関わらなかった土地について、かえって我々が国境を侵したと叱責している。何の論理もなしに昔の土地を回復しようとしたのではなかったか。ところが当時の政府は80年の間我が国の人々が漁撈を続けることができたその利益を放棄して一日でその請を受け入れたので、竹島に鬱島という昔の名前を付与したのは当時の政府である。 […]当時の政策は安楽なことを追求しただけであり、改革して強盛になろうとするのではなかったためだ。もし外国について話し、外国の宗教を敬う者があれば、彼を国の敵と見て厳しい刑罰を加えた。各国から来航することを禁じて、中国、朝鮮、オランダ以外は港に入って来ることを許さなかった。四面が海に囲まれて天恵の港を有していたのに、鎖国政策を取って利用しなかった。もし大きな計画を立てて外国に出て行こうと思う志士がいても、自分の家の本堂で虚しく老いて死ぬ外はなかった。これを痛嘆せずにいられるだろうか。およそ竹島は非常に狭い土地で、まだ我々にとってはあってもなくてもかまわない土地だが、当時のことを考えれば独りでに大きなため息が出る。 (続く) |
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『竹島雑誌』は、松浦武四郎による著作で、三回ほど版本で出されました。
書名は、正確な表記では
『他計甚麼雑誌』(1854年)、
『多気甚麼雑誌』(1862年)、
『竹島雑誌』(1870年)です。
文鳳堂雜纂の『竹島圖說』の内容と重なります。
参考 以下のURLのコメントを全て表示させるには、read moreをクリックのこと。
dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2012/05/by-ken-kanamori-text-on-takeshima.html
dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2012/09/1876-watanabe-koukis-second-opinion-on.html
2018/8/1(水) 午後 11:04 [ 小嶋日向守 ] 返信する
竹島雑誌というのがあったんですね。知らなかった。ありがとうございます。
2018/8/1(水) 午後 11:09 [ Chaamiey ] 返信する
明治四年の『竹島雜誌』は、国会図書館デジタルで読めます。
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766228
青空文庫に、ボランティアによる翻刻がありましたが、今は下記サイトにあります。
bookwalker.jp/de98d14f8b-8400-4910-bc0a-b302f6a872e7/
表示方法が分かりにくいですが、「今すぐ読む(無料)」をクリックして、次に「←」を
続いてクリックして行けば、全文の翻刻が読めます。
ただし、細かな内容は、ゲリーのサイトの『竹島図説』の写本の方が正確です。
2018/8/2(木) 午前 11:44 [ 小嶋日向守 ] 返信する
青空文庫の元サイトがアクセス出来ないようですが、AIR草紙でアクセス出来ました。
urlは、
www.satokazzz.com/airzoshi/reader.php?url=https%3A%2F%2Fwww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F001408%2Ffiles%2F50161_ruby_49459.zip&home=http%3A%2F%2Fwww.satokazzz.com%2Fbooks%2Fbookinfo%2F50161.html&title=%E4%BB%96%E8%A8%88%E7%94%9A%E9%BA%BD%EF%BC%88%E7%AB%B9%E5%B3%B6%EF%BC%89%E9%9B%91%E8%AA%8C&b=50161#
2018/8/2(木) 午後 0:20 [ 小嶋日向守 ] 返信する
本文を読み直して気が付きました。東海夫人の語があります。
「また海岸岩石に、鮑多く、海鼠満面に有り、螺、其余、東海夫人(シユリガヒ)等、並びに海草挙げて記しがたし。」
東海夫人とは、イガイのことです。サザエの前に、海鼠があります。
こういう何気ない呼称の中にも、東海龍王信仰が日本にもあることを示しています。
シュウリガイと海鼠は、対になって、女と男のシンボルです。
イガイの写真
www.zukan-bouz.com/public_image/Fish/324/Thumb630/igai.jpg
毛利梅園の描いた見事な絵があります。
onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/images/2015/05/07/baien_igai.jpg
シュウリガイ(イガイ)は、その形状から異名が多く、なかには、ヨシワラガイというのもあるそうです。蛇足ながら、浅草の新吉原といえば数日前に、明治23年頃に凌雲閣から見た遠景の写真発見のニュースがありました。拙者が着色した画像です。
i.imgur.com/3PfsFp7.jpg
2018/8/2(木) 午後 1:30 [ 小嶋日向守 ] 返信する