| 2. 「朝鮮国交際始末内探書」に現れた鬱陵島・独島認識 「朝鮮国交際始末内探書」(以下「内探書」と略称する)は、征韓論が勢力を伸ばした1869年12月、日本外務省が官吏佐田白茅たち3人を送って当時の朝鮮の事情を内偵して作成させた13項目の報告書だ(注3)。 1869年12月、明治政府は朝鮮政府と膠着状態に陥った外交関係を打開して朝鮮に対する情報を収集するため、外務省の官僚を密かに朝鮮に派遣して朝鮮の実状を調査させた(注4)。この「内探書」の最後の13項「竹島と松島が朝鮮の付属になった経緯」には、鬱陵島(竹島)と独島(松島)が朝鮮の付属になった経緯を次の通り報告している(注5)。日本は当時まで鬱陵島を竹島と、独島を松島と呼んでいた。 (注3) 「朝鮮国交際始末内探書」が作成された経緯とこの報告書に収録された内容、全文に対する解説などは《資料紹介:朝鮮国交際始末内探書》 ソン・フィヨン訳注 『独島研究』23 嶺南大学独島研究所2017.12 p503~532参照 ; 佐田白茅は1875年に『征韓評論』という本を出版した。征韓論を熱烈に主張した自身の文を始めとして八編の文を集めて出版したのだ。その中には横山正太郎が「[…]朝鮮の罪を問うのに遅滞する時間がどこにあるというのか」と主張した文も載っている(ナカツカアキラ ソン・ヘジュン訳 『近代日本の朝鮮認識』 靑於藍メディア2005 p53以下参照)。 1870年前後、日本は既に征韓論を前面に出して朝鮮を植民地として併合する計画を推進し、独島を編入したのはその最初の計画を実行に移したものだ。 (注4)19世紀中盤、吉田松陰の「朝鮮侵略論」と「竹島開拓論」が強調される中で、明治政府がスタートして朝鮮と日本の外交関係が断絶した。1870年代初め、朝鮮侵略に対する意志が続く中で西郷隆盛、木戸孝允などの「征韓論」が再登場した。 「朝鮮国交際始末内探書」は朝鮮の情況と交際の経緯に対する重要な情報を提供していて、その端緒になるのが佐田伯茅たちの復命書だ。《資料紹介:朝鮮国交際始末内探書》前掲書 p506~507 (注5) 「内探書」 p521ページ。強調は筆者。 竹島と松島が朝鮮の付属になった経緯(または始末) この件は、松島は竹島の隣島で、松島に関しては今まで掲載された書類もない。 竹島については、元禄年間にやりとりした往復書簡および経緯が筆写したとおりだ。元禄年度以後しばらくの間、朝鮮から居留のために人を送ったことある。だが、現在は以前のように人がおらず、竹あるいは竹より太い葦が育って、人蔘などが自然に育つ。その他に魚も相当にいると聞いた。 午(1870年)4月 外務省出仕 佐田白茅 森山茂 斉藤栄 図1 <竹島松島朝鮮付属経過書>原文 「内探書」で報告された情報を検討してみれば、竹島(鬱陵島)には竹あるいは竹より太い葦が育って、人蔘などが自然に育っていてその他に魚も相当にいると報告しているのを見れぱ、鬱陵島の地理と産物に対してある程度認知していると見られる。何よりも、この「内探書」13項の題名「竹島と松島が朝鮮の付属になった経緯」でも分かるように、日本が鬱陵島・独島を既に朝鮮領土と認定していたという事実をよく確認することができる。このように、当時の日本外務省の官撰史料である「内探書」でも、独島を含めた鬱陵島が歴史的・地理的に既にかなり以前から朝鮮の付属島であったという事実を確認していることが分かる。すなわち、鬱陵島と独島が隣り合った島で一つのセットに含まれていることを認めたのだ。 また「松島(独島)に関して記録された書類はない」と確認した部分は、当然に独島が歴史的に日本に属したことがなかったのでそれと関連した記録が残っていないことを認めたと見ることができる。したがって、当時の日本外務省でも独島が歴史的・地理的に朝鮮の領土という事実をよく認識していたことを知ることができる。 上の引用文で「竹島に対しては元禄(注6)年間にやりとりした往復書簡および経緯は筆写したとおりだ」としているのは、竹島(鬱陵島)に対しても、元禄年間、すなわち17世紀末に安龍福事件によって両国間でやりとりした外交書簡(鬱陵島争界)とその結果として日本政府が下した「竹島渡海禁止令」(1696)を通じて最終確認したとおりに朝鮮の領土であることを再確認したのだ(注7)。このように、明治時代の日本政府は17世紀末に日本政府が竹島(鬱陵島)とその付属島松島(独島)を一つのセットと見て朝鮮領土と認定した政策を継承していることが分かる。 (注6)元禄は東山天皇の時代である1688~1704年の間に用いられた日本の年号 (注7)1693年から1699年まで韓日間で展開された鬱陵島争界と鬱陵島渡海禁止令(1696)、1877年の太政官指令、そして1905年日本の独島編入措置は、それぞれの事件を個別的に分離して断絶した視点から見るのでなく連続的な見解から分析した時、太政官指令は鬱陵島争界の結果を継承しているのだ。したがって、1905年に日本が独島を編入するための閣議決定が行われる時点で太政官指令が効力を維持していたとすれば、法制史的側面から見る時、日本の不法独島編入に対する法的効力が問題視されることになる。これに対する詳しい議論はイ・ソンファン「日本の太政官指令と独島編入に対する法制史的検討」 『国際法学会論叢』第62巻第3号2017.9 p73~103参照 <コメント> もう何度か書いたことだが、佐田さんたちがこの報告書を書くに当たって「松島」をどこにあるどの島だと考えていたのかをまず把握しないことには話は始まらないのですよ。イ・テウさんはそんなことは想像もしないのだろうけど。 |
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