日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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5) 『日本地理新問答』(1896)
岡村は、1896年、中等以上の教育を受けた学生用と官公市立学校の入学試験用として『日本地理新問答』(1)を執筆した。この本は、その題名に現れるように、日本地理の要点を分けて書き、重要な部分を抜粋して195個の質問を作って解答を提示する形式で構成された。この本は文部省検定教科書ではなかったものの、政府機関が発行した「第15回日本帝国国勢一斑」(内務大臣官房報告課 1896)、「日本帝国第14統計年鑑」(統計局1895)、「官報」に基づいて統計を提示していて、陸軍参謀本部編纂の『台湾地誌』を基礎として「官報」と関連書籍を参酌して「台湾嶋」の内容を執筆するなど、客観性と信憑性を備えたものだった(63)
『日本地理新問答』の第1編・総説で「(1)私たちの大日本帝国の位置と経緯度を尋ねる」の質問に対する答は、「私たちの大日本帝国は亜細亜洲の東方、太平洋の西北に位置して、5個の大嶋と数多くの小嶋から成る。極東は……極西は台湾島の西端で……極南は台湾島の南岬で……」であり、「(3)大日本帝国の境域と廣袤はどうか」に対する答は、「私たちの大日本帝国は四方が全て海で囲まれている。……西は日本海と朝鮮海峡、黄海と台湾海峡を挟んでシベリア、朝鮮及び支那に隣り合う。……我が国は数多くの島嶼から成っていて、その数は4千個余りだ。 これを大別すれば、五大嶋、五中嶋、二列嶋、一群嶋ということができる。北州嶋、本州嶋、四国嶋、九州嶋、台湾嶋を五大嶋と言う、淡路、佐渡、隠岐、壱岐、対馬を五中道という。二列島は千嶋と琉球を言い、一群島は小笠原嶋を言う」となっている。
 
 
(62) 岡村増太郎 『高等小學新歴史』 下巻 1 八尾書店 1893 「緖言」 p12p23の間
(63) 岡村増太郎 『日本地理新問答』(普通敎育學科全書) 吉岡本店 1896「凡例」 p1
 
 
 
(14)本州嶋所属の島嶼を尋ねる」の答には「隠岐諸嶋」が入っている(64)
また第2編・処誌で「(90)山陰道の位置を説明せよ」に対する答は、「東方は北陸・東山の両道と畿内と接し、南方は山脈で山陽道と腹背を成し、北方一帯は日本海に面する。八ヶ国中丹波だけが単独で陸地に囲まれ、隠岐は海中の一孤島だ。本道と山陽道を合わせて中国と呼ぶ。」。ところで「(103)本州嶋に属する島嶼で有名なものを列挙せよ」の質問で隠岐は叙述されなかった(65)。要するにこの本の本文では独島が全く議論されなかったのだ。
このような本文の内容に相応して、『日本地理新問答』には「日本国全図」が一番前に載っている。この全図では、経緯度が書かれた外郭の空間を占めて描かれた北海道から九州まで描かれた中央道と「千島群島」、「琉球諸島」、「小笠原島」、「台湾島」の部分図で構成されている。
 
 
(64) 岡村増太郎 『日本地理新問答』 p13573435
(65) 岡村増太郎 『日本地理新問答』 p120132
 
 
イメージ 1
地図21 日本國全圖(日本地理新問答』)
 
 日清戦争の勝利で取得した「台湾島」が含まれた点から推測して、「日本国全図」という名称に合うように当時の日本の領土全てが表示されたということが分かる。しかし、独島は経緯度上に表示される余白が用意されているのに描かれていない(66)このように、本文と「日本国全図」の全てに独島が登場しないのは、岡村が相変らず独島を日本領土と認識しなかったという事実をよく見せている(67)
 
 
(66)岡村増太郎 『日本地理新問答』 一番前の部分
(67)参考だが、『日本地理新問答』の対となる『万国地理新問答』には、「(59)東アジアの中の各国の形勢及び都会、港津などを詳述せよ」という質問に対して、「朝鮮は……国民の知識が低く、農桑の業が盛んでなく、通路が不便で商業が活発でない。モンゴル人種で体格が壮大だ。……施政の方針が一定でなく、政府は事大主義あるいは事強主義と呼ぶべき卑劣な主義を持っているようだ。」と否定的な朝鮮観が入った答が提示された。岡村増太郎『万国地理新問答』(普通教育学科全書)吉岡本店1896 p5657



<コメント>
  へー、そうですか? 日本地図にある島が描かれていないということは、それが日本の領土ではないからということと、もともとその存在を知らないからということの二つの理由が考えられるのですがね。






 


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日本の地理学者は、この時には現在の竹島の存在を知りません。地理学上のヤンコ島の「発見」と報告は、1901年3月です。証拠は数多いです。
黒龍会(アムール・ソサイエティー)会報
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2015/06/yanko-island-not-attached-to-korean.html
日本の新聞各紙が三月に記事にして、韓国の帝國新聞(主筆が李承晩)4月1日に記事にしています。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57649209.html
そして地学雑誌の発行が、5月です。
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2015/06/1901-may-journal-of-geography-island-in.html 削除

2018/7/25(水) 午後 11:58 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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新島発見のニュースは、欧米各国の新聞記事が6月以降10月頃まで続きました。
dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2015/05/new-island-named-yanko-mentioned-in.html

この後、日本の地理学者も混乱していました。島根県の竹島と、観音島、竹嶼(竹島・チュクド)の区別は、韓国側だけではなく日本の地理学者にとっても不明確だったのです。なんと、1905年8月発行のものにさえありました。
それは、岡部福蔵の『日本民族の新發展場萬韓露領地誌』です。
以下のリンクに画像があります。
blog.naver.com/cms1530/10016188531
「てっせみ島ハ臥達里ノ前洋ニアリ本邦人之ヲ竹島ト稱ス周回三十町餘たぶ女竹繁茂スト雖モ飲料水乏シキヲ以テ移住スルモノナシ」
「竹島ハ明治三十八年二月日本新領土トナリ隱岐島司ノ管下ニ歸ス」 削除

2018/7/25(水) 午後 11:59 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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すでに「結論」を決めていて、その「結論」に沿うように屁理屈を考えただけのようですね。
その屁理屈が間違いである点を示した記述や部分は見なかったふり、無かったふり。

2018/7/26(木) 午前 0:02 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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そうなんですよね。
岡部の記述に関しては、「テッセミ」とは、トクソムの訛化だとすれば、石島の意味でしょう。すると、竹嶼のことを説明しているのに名前が、観音島の石島で、欄外の註釈では、島根県の竹島の記述という三つの島を混同している。

こんな頃だったのだから、1906年に日本からの問い合わせがあっても不自然ではなく、それで韓国側は、鬱島郡の新公式地図まで作っていたわけでしょう。
あとはその更新地図さえ出てくれば完璧なんですがねぇ~。 削除

2018/7/26(木) 午前 1:02 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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