| 3)『明治地誌』(1892) 『明治地誌』は、地理教育において愛国心の育成を強調した「小学校教則大綱」に忠実に基づいて執筆された代表的な高等小学校地理教科書だ。『明治地誌』は1・2巻が地理の端緒と日本誌、3・4巻は外国誌でそれぞれ構成され、1893年8月29日に「文部省検定制小学校検定用書」として承認を受けた(注43)。 (注43) 海後宗臣等編, 「地理敎科書總解説」『日本敎科書大系 近代編』 17(地理 第3) p601 ; 中村浩一『近代地理敎育の原流』 p190、192 ; 東京書籍株式会社社史編集委員会編『近代敎科書の変遷』 p155 『明治地誌』1 の日本の「位置及び区画」は『新撰地誌』の内容とほとんど同一だ。 「位置」では「私たちの日本」が「私たちの大日本帝国」に変わって、「区画」の「全国を大別して畿内八道及び琉球という。畿内は本州の中部にある。畿内の東にあって東南は海を帯する地方を東海道という」が「畿道」の「日本の国土は山河の形勢によってこれを畿内及び東海、東山……西海の八道に大別する。畿内はほとんど本州の中部を占めて、東海道はその東にあって東南に海を帯する地方であり」と内容が追加されたりいくつかの文面が変わっただけだ。「畿内の西側に接した一帯の地方は、その南部を山陽道にして北部を山陰道という。そして、北海にある二小島のうち佐渡は北海道に属し隠岐は山陰道に属する」という文章は同一だ。ただ、追加された「境界」の項目で「私たちの帝国は四囲が海で囲まれている。東は一面に太平洋に臨み、西南は支那海に瀕し、北西は日本海を隔ててアジア大陸へ向かい、北は海峡を挟んで露西亜の領土に接する」と叙述することによって、日本と周辺地域の形勢を明らかにした点は注目に値する(注44)。 『明治地誌』 2の山陰道と隠岐の内容も、やはり「位置 諸国」において「東は北陸・東山二道及び畿内と境界を成し、北は一面日本海に臨む。南は山陽道と山脊を区分として互いに表裏する。……丹後・但馬……石見六国は全て海に濱する。隠岐は日本海中にある島国だ」と文章の順序が変わったり整えられたりしたが、『新撰地誌』とほとんど似ている。「海岸」の内容も『新撰地誌』と同一だが、最後に「行在所として歴史上重要だという」が追加されただけだ(注45)。このように『明治地誌』の本文では『新撰地誌』と同じように鬱陵島と独島が全く叙述されなかった。 (注44) 岡村増太郎 『明治地誌』 1 文學社 1892 p18~19 (注45) 岡村増太郎 『明治地誌』 2 文學社 1892 p21~23
地図11 「日本全形圖」(『明治地誌』 1) 地図12 「日本總圖西南之部」(『明治地誌』 1)
地図 13「府縣明細圖」(『明治地誌』 1 1892) 地図 14「山陰山陽及南海道之圖」(『明治地誌』 2) (翻訳者注:この地図は間違いだろう。一つ前のと同じようだ。) しかし、『明治地誌』に掲載された地図は、『新撰地誌』のそれと似ていながらも日本の領土をもう少しはっきりと表示した点が目につく。まず、日本の「位置及び区画」の対になる「日本全形図」は『新撰地誌』の「日本総図」とほとんど形態が似ていて、千島列島、小笠原諸島、琉球諸島を始めとする日本の全ての領土が高地と低地に分けて黄色と緑色で彩色されたが、「朝鮮」、「満洲」、「樺太」、「支那」などの外国領土が彩色されていない点も同一だ。しかし、「日本全形図」では「日本総図」と異なって地図の外郭に経緯度が書かれて地図中に経緯度線が引かれ、国家別の海洋領域を表示したような斜線は無くなって青色に塗られ、朝鮮の東海岸側の鬱陵島と独島と見られる二島も痕跡をなくした(注46)。 (注46)岡村増太郎『明治地誌』 1 p17∼18の間 また、この地図の形態は『尋常科用日本地理』の「日本諸島及隣国之地図」と似ているが、二島が表示されない点が異なる。したがって、「日本全形図」において日本の端に位置した千島列島、小笠原諸島、琉球諸島などと隠岐、対馬は相変らず描かれた反面、「日本総図」と「日本諸島及隣国之地図」に描かれていた東海岸の側の二島が表示されないで抜け落ちた事実は、鬱陵島と独島を日本領土でなく朝鮮領土だと確信した岡村の認識が明らかに反映されたと判断される。 このような岡村の独島認識は、「日本全形図」と対になって載せられた「日本総図」と「府県明細図」により一層はっきりと現れる。まず「日本総図」は周辺国を除いたままただ日本領土だけを東北と西南の二部分に分けて描いた地図で、経緯度が表示されて赤色の国別境界線が引かれていて、畿内と八道が赤・青で彩色された。「日本総図東北之部」には「畿内」、「東海道」、「東山道」、「北陸道」、「北海道」と「千島群島」の部分図が、「日本総図西南之部」には「山陰道」、「山陽道」、「南海道」、「西海道」と「琉球諸島」の部分図がそれぞれ入っている。「日本総図西南之部」には「日本全形図」と同じように隠岐だけが描かれて鬱陵島と独島は表示されなかった。それでも、鬱陵島と独島を日本領土と見なさなかったと確言することは難しい。「日本総図東北之部」でも、その理由は分からないが、小笠原諸島が描かれなかったためだ(注47)。 このように曖昧模糊とした独島の所属領域の可否に対する疑問は、「府県明細図」と「山陰山陽及南海道之図」を見ればすぐに解消する。「府県明細図」にはその名称そのままに日本全国が一道庁三府43県の行政単位別に一目瞭然に表示されて、県の境界が赤色で引かれている。「千島諸島」と「大隅諸島・琉球諸島」の部分図、そして「大隅諸島・琉球諸島」部分図の中に「小笠原島」部分図があって、その名称の下に管轄庁である「北海道庁」、「沖縄」、「東京府」が赤文字で書かれている。「隠岐」は島なので、島根県の管轄地域に属することを示すために赤色の点線が陸地から引かれている。隠岐の左側上段には「千島諸島」の部分図があって、独島は経緯度上で表示する空間があっても描かれていない(注48)。 (注47) 岡村増太郎 『明治地誌』 1 p19∼20 (注48) 岡村増太郎 『明治地誌』 1 p29∼30の間 『明治地誌』 2の「山陰山陽及南海道之図」は地図の外郭に経緯度が記されていて経緯線が表示された点、道別に色を別にして彩色した点、等高線と道路表示がより精密になった点などを除けば『新撰地誌』のそれとほとんど同一だ(注49)。ここでも隠岐までを描いているだけで鬱陵島と独島は表示されなかった。その理由は、鬱陵島と独島が山陰道の管轄地域ではなかったためだと考える他はない。これは「日本総図東北之部」で描かれなかった小笠原諸島が「畿内及東海道之図」において経緯度外に位置するにも拘わらず部分図として入った事実から確認される(注50)。 『明治地誌』 3に載った「亜細亜」地図は『新撰地誌』の「亜細亜」と形態がほとんど同一だが、各国の海洋領域を間接的に現わした斜線と日本の領土を表示した国境線が全て無くなった(注51)。よって、地図上に描かれなかった鬱陵島と独島の所属の有無を判断することはできない。地図から国境線が消えた理由は分からないが、岡村が日本地理の本文と各種地図で日本領土の範疇を明確に明らかにしたのであえて日本の国境線を引く必要が無いと感じたためではないかと判断される。 要するに、『明治地誌』に載せられた「日本全形図」、「日本総図」、「府県明細図」、「山陰山陽及南海道之図」などを総合的に調べれば、鬱陵島と独島は日本領土では無いという事実が立証されることになる。併せて、本文と地図で独島が全く議論されなかった『明治地誌』は『新撰地誌』で既に反映されていた独島は朝鮮領土という岡村の認識が明らかに継承されていることを見せてくれる(注52)。 (注49) 岡村増太郎 『明治地誌』 2 p21∼22の間 (注50) 岡村増太郎 『明治地誌』 1 p39∼40の間 (注51) 岡村増太郎 『明治地誌』 3 文學社 1892 前の部分 (注52)『明治地誌』の独島関連内容は1896年12月に発行された訂正再版でも同じだ。岡村増太郎 文學社編輯所訂『改定明治地誌』 1-4 文學社 1896(訂正再版) <コメント>いいえいいえ、違います。岡村さんは竹島を認知していないから描いていないだけですよ。
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