| 3. 岡村の独島=朝鮮領土認識 1886年、新しい「小学校令」に基づいて準備された「教科用図書検定條例」によって日本では小学校教科書検定制度が実施され、1887年から文部大臣の検定を受けた「文部省検定制」教科書だけが使うことができるようになった。検定制度実施の初期には日本地理と万国地理を合わせて編集する地理教科書が主をなしたが、岡村が1886年5月に東京府師範大学教育心得として在職中に執筆した『新撰地誌』(4巻)はその代表的な教科書に指折り数えられる(注18)。総論日本誌(1・2巻)と万国誌(3・4巻)で構成された『新撰地誌』は比較的早い時期に検定を出願したが、1巻は認可制教科書として発行されて2巻と共に1887年1月31日に、3・4巻はその年の6月17日に、それぞれ「文部省検定制小学校検定用書」として検定を受けた。 『新撰地誌』 1では、日本の「位置」として「私たちの日本は亜細亜洲の東部、太平洋の西北にあって、四大島と数多くの小島で成り立った島国」として、四大島である本州・四国・九州・北海道を上げ、それに続き「区画」として「全国を大別して畿内八道および琉球という」としながら、それぞれを説明する中で「畿内の西側に接した一帯の地方はその南部を山陽道にして、北部を山陰道という。そして北海にある二小島中佐渡は北海道に属して隠岐は山陰道に属する」と隠岐に言及した。ここでは日本の領土の全部を概ね数え上げたので、鬱陵島と独島は取り上げられなかった(注19)。 (注18) 海後宗臣 等編 「地理敎科書総解説」 『日本敎科書大系近代編』 17(地理 第3), p601 ;中村浩一 『近代地理敎育の原流』p190,192,197∼199 ; 東京書籍株式会社社史編集委員会編『近代敎科書の変遷』 p155∼156 (注19) 岡村増太郎 『新撰地誌』 1 文学社 1886 p24∼25 この内容のすぐ前には「日本総図」が載っている。本文の日本の「位置」と「区画」と対をなすこの総図では枠線をはみだすまで千島列島から小笠原諸島、琉球諸島に至る当時の日本の全領土が描かれて、道別に赤色の境界線が引かれている。また、日本の位置を周辺国との関連の中で一目で理解できるように日本領土は「高地」と「低地」に区分してそれぞれ黄色と青色で彩色された反面、日本領土ではない「朝鮮」、「満洲」、「樺太」、「支那」などは彩色されなかった。 また、総図には国家別に海洋領域を表示したような斜線があるが、隠岐は日本領域として引かれた反面、朝鮮東海岸の側に鬱陵島と独島と見なされる二島が朝鮮領域に区分されている(注20)。 例え、朝鮮の東海岸側の二島はその位置から正確に言えば鬱陵島と独島ではなくアルゴノート島と鬱陵島だが、幕府以来竹島と松島は朝鮮領土という認識が反映されたと判断される。これは、彼の地理教科書で初めて登場した独島だ。したがって、日本領土とは違って彩色されなかったこの二島は、日本や隠岐の海洋上の位置あるいは境界を把握するために朝鮮の島と表示されたと思う。ところで、朝鮮と日本の海岸に一定の大きさで引かれた斜線が必ずしもそれぞれの領土範囲を表示したものと確かに見なすことは難しいという反論が提起されることもあり得る。単純に海岸の範疇を現わしたものと解釈することもできるからだ。 これと関連して注目すべき事実は、『新撰地誌』2の訂正再版には初版と形態が少し異なった「日本総図」が載せられたという点だ。この総図を初版と比較してみれば地図の形態は同一だが、地図の名称の位置が右側上段から左側上段に変わった点、赤色の道別境界線の太さが細くなった点、経緯度線が追加された点、特に海洋領域を現わす斜線がなくなっただけでなく鬱陵島と独島と見なされる朝鮮東海岸側の二島も描かれなかったという点などが変わった。したがって、初版より訂正再版「日本総図」において鬱陵島と独島は朝鮮領土という事実がより一層明確に表れる。もし岡村が二島を日本領土と認識していたとすれば二島を表示しないはずがないためだ(注21)。 (注20) 岡村増太郎 『新撰地誌』1 p23∼24の間、 ユン・ソヨン「近代日本官撰地誌と地理教科書に現れた独島認識」 p384∼385 (注21) 岡村増太郎 『新撰地誌』 2 1887(訂正再版) p23∼24の間。参考だが、筆者が所蔵する訂正再版本(1887)の中では初版本の 「日本總圖」がそのまま掲載されてもいる。 岡村が「日本総図」において朝鮮側で斜線を引いた二島を朝鮮の領土と認識したという点は、『新撰地誌』 2でも探すことができる。ここで山陰道の「位置および諸国」には「東は北陸、東山二道及び畿内に接し、南に山陽道と山の尾根を区分として互いに表裏する。……石見は北一帯が日本海に臨む。隠岐はその海中の孤島だ」と、「海岸、水陸」には「隠岐は出雲の北にある。島前、島後に分かれる。島前は三小島(知夫里島、中島、西島)の総称で、後鳥羽帝の地であり後醍醐帝の行在所だ」とそれぞれ叙述された(注22)。つまり鬱陵島と独島は取り上げられなかったのだ。 さらに、この内容と対になる「山陰山陽及南海道之図」では赤色で国別の境界線が表示されたが、隠岐まで描かれているだけで鬱陵島と独島はやはり含まれなかった(注23)。これは、「北海道之図」と「西海道及琉球諸島之図」で経緯度から除外された「千島諸島」と「大隅諸島」、「琉球諸島」がそれぞれ部分図として表示された事実と比較して見れば、鬱陵島と独島が山陰道の管轄範囲と見なされていないことを間接的に示している(注24)。 このような岡村の日本領土あるいは独島認識は、日本地理の全体内容を整理した『新撰地誌』2の最後の章「総論」の「疆域」と「日本全図」でも再び覗き見ることができる。日本の「疆域は西北に日本海を隔てて朝鮮・満州に対し、北は北海道の宗谷海峡でロシアの樺太島に向かい、……東南は太平洋に面して小笠原島は遠く離れてその洋中に羅列する。西は支那海を隔てて支那に対し、琉球群島は南へ支那の台湾島に近接する」と規定された(注25)。ここでも隠岐と鬱陵島・独島は言及されなかった。 (注22)岡村増太郎『新撰地誌』 2 文學社 1886 p19 (注23)岡村増太郎『新撰地誌』 2 p18∼19の間 (注24)岡村増太郎『新撰地誌』 2 p13∼14の間, p33∼34の間。ユン・ソヨン「近代日本官撰地誌と地理教科書に現れた独島認識」 p385∼386 (注25)岡村増太郎『新撰地誌』 2 p42 (続く) |
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