| 小嶋日向守さんが言及なさった「日本針図」についてまとめておきましょう。
鳥取で「日本針図」の原図が見つかる
山陰中央新報 2009年3月16日 (↑ リンク切れ) 現在の竹島を表す「松島」と韓国・鬱陵島を示す「竹島」の間に、北前船の航路を描いた江戸時代後期の絵図「日本針図(しんず)」の原図が、鳥取市内で見つかった。新たに同航路を裏付ける記述も確認され、北前船の船頭が、竹島を日本領と認識していたことを示す史料として注目される。 日本針図は、海岸警備や船舶の管理に携わった鳥取藩米子の役所「船手組」が保管していた「日本夷国之針図」を、1836年に書き写し、海路の里数などを加えている。2007年に島根県の竹島資料室の担当者が、新修米子市史第十二巻(1997年刊)に収録されているのを発見。両島の間の海上に、航路を示す赤い線が描かれているのを確認した。 同資料室は原図の行方を探していたが、鳥取市戎町の一行寺で保管されているのが分かった。調査の結果、航路の線に沿って「松前エカヘル船冬分多ハ竹嶋松嶋ノ間ヲヒラク」という記述を確認。冬は下関(山口県)から松前(北海道)へ帰る船の多くが、竹島(現鬱陵島)と松島(現竹島)の間を通っていたことが判明した。島根県の杉原隆・竹島研究顧問は「新修米子市史では分からなかった記述が見つかったのは収穫。鎖国時代に他国の領海を航行することはなく、これで北前船の船頭が竹島を日本領と認識していたことが裏付けられた」と述べた。 竹島の日条例制定5周年記念誌 (2010年2月) 「日本針図」 鳥取藩米子の御船手組が旧蔵していた「日本針図」(にほんしんず)という絵図がある。「針図」とは方角を示すことを目的にし、「夷国之針図」もある。天保9(1838)年里数を入れて完成したとあるが、この図も竹島と松島の間に航路を書き「松前エカエル船冬分多ハ竹嶋松嶋ノ間ヲ開ク」と北前船が竹島、松島の間を通ることの記載がある。北前船は日本列島に沿って各地の港に寄航して松前からは、鰊(にしん)、鮭(さけ)、昆布等の海産物を積み込み、西日本では米、塩、酒、木綿等の品物を買い取っているが、美保関では雲州和紙、朝鮮人参、ろうそく、鋼等松江藩の主要産物が運び込まれたという。米等ある特定の場所から積み込む場合は大坂、下関、松前の遠乗りの航路を利用し、目印として利用出来、暴風雨の避難場所にもなる竹島、松島の近海を通過していたのである。 (「北前船と竹島」 WEB竹島問題研究所 2011.09.12) http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima-042309.html
<コメント> 天保9(1838)年に完成したという役所の海図に「松前に帰る船は冬には多くが竹島と松島の間を通る」という情報があるということなので、つまりそのころは普通に竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)の間を日本人が通航していたという実態があったわけですね。 元禄9年(1696年)の竹島渡海禁止令には竹島だけでなく松島への渡海も禁ずる趣旨が込められていたという一部の偏った主張があるわけですが、「松島も渡海禁止」だとすればそれは松島も朝鮮領だと認めているということになるのだから、その松島の向こう側を回るということは朝鮮領に入り込むということになります。 ところが、江戸時代後期の船乗りたちは当たり前のように鬱陵島と現竹島の間を通航していてそれが問題になることは無かったのだから、これは幕府が松島への渡海を禁ずる考えは無かったことの間接証拠になるんでしょうね。 |
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ちょっと関連した史料として、文政年間成立の
『石見外記』記載の『大御國(オホミクニ)環海私圖』があります。
www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima-042309.data/shashin3.JPG
田中邦貴さんの精細画像
www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/iwamigaiki-1827/13.jpg
此圖ハ石見ノ國ニハ、サシテカカハラズトイヘドモ
石見ハ海國ナレバ、モシヤノ考ニモトテ、此ニ載ス。
高田屋嘉兵衛カ商舩ハ、朝鮮海ニ出テ、蝦夷地ヘ乗ルトサ?(ソ)レハ
下関ヲ出帆シテ戌亥 松竹二島ノ間ニ出テ轉乄(シテ)、丑寅
ヲ目アテニ乗リシニハアラサルカ。
2018/6/30(土) 午後 11:36 [ 小嶋日向守 ] 返信する
(註、上の田中さんによる画像では、「十八里ヲ流シ」の部分が欠落しています。
坂田諸遠が判読した別本では、
「高田屋嘉兵衛カ商舩、朝鮮海ニ出テ、蝦夷地ニ乗ルトキハ、
下ノ関ヲ出帆シテ、戌亥十八里ヲ流シ、松、竹二島ノ間ニ出轉シテ、丑寅
ヲ目當ニ乗リシニハアラズヤ。
dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2012/09/1876-watanabe-koukis-second-opinion-on.html
意味通釈
高田屋嘉兵衛の商船が、日本海に出て、蝦夷地へ向かう時には
下関を出帆して、北西へ18里(別本では8里)行き、そこから松島(現竹島)と竹島(鬱陵島)の間を通って方向を転換したのであって、いきなり北東方向を目当てに船出したわけではないだろう。
2018/6/30(土) 午後 11:41 [ 小嶋日向守 ] 返信する