| 徳川幕府は、1696年(元禄9年)1月28日付の老中の連署で鳥取藩主池田綱清に対して、それまで大谷・村川両家に認めていた竹島(鬱陵島)への渡航を禁止することを通告した。 しかし、この竹島渡海禁止令について、「通達の文言に松島(現代の竹島)という文字は無くても、そこには松島渡海禁止の趣旨も込められていたのだ」とどうしても思いたい人たちはいるもので、そういう人たちが村川家文書の中に「竹島松島両島渡海禁止」という言葉があるということを見つけ出して「やっぱり松島渡海禁止も含まれていたのだ」と主張し、それを見た韓国人研究者が「やっぱりそうなんだ」と意を強くしているという状況があります。
『竹嶋之書附』という古文書があります。鳥取藩主池田家に伝わっていた鳥取藩政資料のうちの一つで、享保9(1724)年に鳥取藩が江戸幕府に提出した竹島渡海関係資料の鳥取藩の控えであり、内容としては、元禄5(1692)年に米子町人村川市兵衛の船が朝鮮人にはじめて遭遇した時から元禄6~9(1693~96)年までの、いわゆる「竹島一件」関係資料を中心に、享保7、9(1722、24)年、幕府が鳥取藩に対して行った竹島渡海に関する問い合わせとその回答書が収められているというものです。 ↓ここにあります。
ここには1696年の竹島渡海禁止令のことも禁止令の写しという形で書き留められているのですが、そこには謎の一文がくっついています。 元禄九年正月廿八日、御月番戸田山城守殿にて御渡被成候御奉書写 先年松平新太郎因州伯州領知之節、相窺之伯州米子之町人村川市兵衛・大屋甚吉、竹嶋江渡海至于今雖致漁候。向後竹嶋江渡海之義制禁可申付旨被仰出之候。可被存其趣候。恐々謹言 正月廿八日 土屋相模守 戸田山城守 阿部豊後守 大久保加賀守 松平伯耆守殿
右御奉書之趣、村川・大屋両人江申聞、竹島渡海相止候事
しかし、どうもそうではないらしい。というのは、『竹嶋之書附』にはほかにも竹島渡海禁止令の写しを記録した部分があるのだが、そちらでは最後の一文はない。それに、これが老中からの指示だとすると、自分たちが出した奉書に自分で「右御奉書」という敬語を使うのは不自然で、ここはやはり単に「右奉書」とあるべきと思われる。だから、この一行は、奉書を受けた鳥取藩の側の記述であると見るべきなのだろう。(なお、Wikipediaの「竹島一件」の「渡航禁止の全文」の項では、この一行は奉書の一部であるような形で書かれている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E4%B8%80%E4%BB%B6)
このように、この記録自体にはそういう読み取りにくい部分があるのでそのことをちょっと長く書きましたが、実はそれは大した問題ではなくて、この一文の意味がどうであれ、この奉書を受けた鳥取藩主は結局のところ、「この奉書の趣旨を村川・大屋両人に申し聞かせて竹島渡海を止めるようにした」わけですよね。
それから、鳥取藩主がこの奉書を受け取ってその日のうちに「承知いたしました」と回答した記録もあります。
松平伯耆守 正月廿八日 大久保加賀守様 阿部豊後守様 土屋相模守様 人々御中
有り得ないことです。将軍の意を伝える老中奉書に「竹島渡海禁止」と書いてあるのであれば、それ以外のことを言えるはずがないでしょう。もし仮に、大屋さんか村川さんが「あのお、竹島は分かりましたが松島のほうはどうなんでございましょうか?」と聞いたとすれば藩側は何と答えたでしょうかね。「それは松島も含めてのことであろう」なんて推測を言えたでしょうか。無理です。将軍の意が表示されている書面に勝手に何かを付け加えて伝達するなんてできません。「松島のことは何も御沙汰はない。ともかく今後は竹島には行くなとの仰せである」とでも答えるしかなかったでしょうね。
だから、「文面には書かれていないが松島も渡海禁止だ」などという情報が大屋・村川に伝達されることはあり得ないのですよ。そして、伝達されないものは含まれているとは言えないのです。(文面に暗に何かをほのめかす言葉があるなら別ですが、そんなものも無いですしね。)
なお、藩は別ですが、鳥取藩に奉書を渡したのと同じ日に、戸田山城守は竹島渡海に関して朝鮮との交渉にあたっていた対馬藩に対してもこの渡海禁止決定のことを説明しました。その中にも、当然ながら「松島渡海禁止」ということはもちろん「松島」の話自体が何も出ていません。
「元禄竹島渡海禁令は、元禄9年正月23日付の老中宛鳥取藩返答書の「松島(竹島)は鳥取藩領ではない」を踏まえて出された。そうである以上は、禁令の文面上に「松島渡海を禁ずる」ことは、明記されていなくても含意されているのは当然である。」 (池内敏『竹島ーもうひとつの日韓関係史』 p75)
|
全体表示
[ リスト ]
- 連携サービス
- 知恵袋|
- textream(掲示板)|
- ロコ|
- 求人
本文の元禄9年の渡海禁令の判決文には、「竹嶋への渡海禁止」としか書いてありません。竹嶋は朝鮮領鬱陵島だとわかり、単に「竹嶋への渡海禁止」にすれば幕府としては目的を達します。それ以上でもなければそれ以下でもないのでしょうね。
過去記事「竹嶋松嶋両嶋渡海禁制」と書かれた史料 (3)の管理人さんの見解が好きです。領土的には、竹嶋:朝鮮領と認めた→渡海禁止。松嶋→判断していない(無主地)です。幕府の禁令対象は、竹嶋だけ(天保のときも同様)です。松嶋は、渡海禁止の対象になっていない。ただし、当事者周辺(村川家大谷家子孫)と後世の関係者(幕閣・対馬藩)には、松嶋渡海禁止も含まれるような理解があることも事実です。これをどう理解するか!?も謎です。
2018/6/29(金) 午後 9:25 [ Gくん ] 返信する
管見は、元禄の幕府禁令そのものは、対象は竹嶋のみです。ただし(日本鳥取から)遠方の竹嶋への渡海免許が取り消された以上、より日本に近い松嶋(無主地:国外なれど朝鮮領ではない)も、竹島渡海免許取り消しの効果が”結果的”に及んだ。ゆえに、後世の関係者は、その時系列が区別できなくて、元禄の禁令の当初から、松嶋への渡海も禁止になったように理解した< とも考えられます。1竹嶋渡海禁止・松嶋対象でない説、2竹嶋・松嶋双方渡海禁止説、3竹嶋渡海禁止・松嶋結果的にそうなった説です。2でなく3ではないか!?です。2・3いずれでも、松嶋無主地の評価と関連しないので、筆者らのいうような大した問題ではないと考えます。
2018/6/29(金) 午後 9:29 [ Gくん ] 返信する
四代九右衛門が「竹島松島両島渡海禁制を申し付けられて以後は米子城主様の御支援で・・・・」と嘆願書に書いているその文章の力点は「米子城主様の御支援で」に続く部分なんですよね。両島渡海禁制は話の導入部です。だから、四代九右衛門の感覚としては、「竹島松島両島に行けなくなりましてからは」というような「現実問題」を書いているのだと思います。幕府の認識をことさらに取り上げて発言しているとは思えないですね。
2018/6/29(金) 午後 10:54 [ Chaamiey ] 返信する
↑「現実問題」< だと思います。幕府の判決(台命)は、文面のとおり(上記1説:竹嶋のみ)で、後世の幕閣であっても文面以上(以下)の解釈もできないし、その専門知識もありませんしね(天保の件では、実務担当の対馬藩に実情を尋ねているほど)。
2018/6/30(土) 午後 8:21 [ Gくん ] 返信する