日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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5. 結論
韓日両国間に広がっている独島領有権問題をめぐる論争と関連して、17世紀に日本の山陰地方民が鬱陵島と独島で行った漁業行為はとても重要な意味として作用している。日本側は、彼らの漁業行為が日本の領有権行使の行為だと主張しているが、それだけでなく彼らの漁業行為は日本の固有領土論の主張において核心的な部分を占めていると言うことができる。だが、今まで韓日両国の研究者は山陰地方民の鬱陵島及び独島での漁業行為に対する明白な性格分析及びその意味を提示できず、単に「鬱陵島争界」の経緯とその解決過程、そしてその過程での安龍福の陳述内容の真偽に対する論争という枝葉的な問題に陥って根本的な問題に対する解答を提示できずにいる。
この論文では、「鬱陵島争界」を発生させた日本山陰地方民が鬱陵島と独島で行った漁業行為が持つ意味と性格、そして彼らの独島に対する領有権認識を分析して新しい独島研究の試金石を提示しようとした。
江戸時代初期に運送業をしていた大谷甚吉という人物が1617年に東海を漂流して偶然に鬱陵島を発見することになった。そして鬱陵島は海産物が多いことを知って、鬱陵島の調査をした後で米子に戻り、折しも米子城に来ていた安倍四郎五郎に鬱陵島渡海許可を幕府にあっせんしてほしいと要請した。これが大谷と村川が鬱陵島に渡って行くことが可能となった契機になった。
だが、江戸時代初期の日本の漁業は「村近海の漁場はその村に権利がある」という原則と「遠海の漁場は共有する」という原則の下に成立して、該当地域の漁場に対する権利と漁業権の管理権限は中央政府である幕府ではなく該当地域の領主すなわち藩主と代官にあった。したがって、大谷と村川は漁業勢力でなく商人だったから、当時の日本国内の漁業秩序によれば彼らには当初から近海漁業はもちろん遠海漁業さえもする資格がなかった。したがって、没落した武士の一族で米子地方で運送業を営んでいた大谷・村川家は、身分が商人であったため漁業権を所有していなかったし彼らが日本近海だけでなく遠海に出て行って漁業行為をするのは当時の日本の国内法的にも不法だったということができる
そして、17世紀初期に徳川幕府が鳥取藩の大谷・村川一族に発行したと伝えられる「鬱陵島渡海免許」はその作成・発行時期が特定されずその真偽の有無も不明な状態であり、内容も一回きり渡海免許だっただけでなく鬱陵島での漁撈行為を保障したものでもなかった。また、渡海免許は彼らに漁業権を保障したのでもなく、本来商人だった大谷・村川一族には漁業権というものが存在することもなかった。したがって、大谷・村川一族は真偽が明確でもない使い捨て渡海免許を使って朝鮮の領土である鬱陵島と独島で約70年間にわたる不法漁撈行為を行ったのだったと言える。
このような不法行為を行った大谷・村川一族は安倍四郎五郎という旗本を彼らの政治的な背景としていたし、彼らは安倍を通じて自分たちの渡海免許を取得したのだ。また、「鬱陵島渡海免許」獲得の過程だけでなく、独島に渡海する時も自分たちが所属した鳥取藩を通じずに安倍を通じて幕府と交渉していたという事実を知ることができる。したがって、大谷・村川一族が実施した鬱陵島漁業と独島漁業は彼らを政治的に保護した安倍の配慮で成り立ったことであり、安倍はその親戚である老中井上と経済的な利益のために結託して、いわゆる「竹島」が朝鮮の鬱陵島であることを知りながら将軍を騙して渡海免許の発給を受けられるようにしたものと見なければならないだろう。しかし、彼らが自分たちの政治的背景だった安倍を通じて発給を受けた渡海免許は使い捨て免許であり、また、漁業権なしに鬱陵島と独島に渡海して実施した漁業行為は当時の日本国内法上でも明白な不法行為であった。
そして、1740年に大谷・村川が寺社奉行所に提出した請願書では、1696年の「竹島渡海禁止令」によって彼らは竹島すなわち鬱陵島だけでなく松島すなわち独島に対する渡海も禁止されたと記述している。このような大谷・村川の認識は、当時の江戸幕府は鬱陵島に対する渡海は禁止したが独島への渡海は禁止しなかったという主張をしている現在の日本政府の認識とは相反するものだ。しかし、当時幕府から渡海を禁止された当事者である大谷・村川家は独島への渡海も禁止されたものと認識していたし、これは現在の日本政府の認識を否定することでもある。
さらに、幕府の公式機関である寺社奉行所の奉行皆が大谷・村川の認識に対して異議を提起しなかったということは、当時の幕府の公式見解もまた独島に対する渡海も禁止したものだということを証明しているのだ。したがって、「村川家文書」に記載されている内容は、1696年の「竹島渡海禁止令」は鬱陵島だけでなく独島に対する渡海も禁止したものであり、現在の日本政府が主張していることは偽りだという明白な証拠だ。
 (終)


日本山陰地方民と「鬱陵島・独島渡海禁止令」について
 パク・ジヨン(嶺南大学独島研究所研究教授)
『独島研究』第23号 p357
嶺南大学独島研究所 (2017.12.30)


<コメント>
 「大谷・村川一族は真偽が明確でもない使い捨て渡海免許を使って朝鮮の領土である鬱陵島と独島で約70年間にわたる不法漁撈行為を行ったのだったと言える。」などとおっしゃってもねえ、渡海免許の意味合いについては日本国内では何も問題にならなかったのだから問題ではなかったのだし、鬱陵島に関して言うなら、朝鮮が空島政策を採ったことはまあしょうがないとしても、「ここは朝鮮国鬱陵島。日本人立ち入り禁止」とかいうような札の一つも立てずに単に放ったまま全くの無人島状態にしておいたのだから、何も知らない日本人が利用するようになったからってそんなに不法、不法と言っていいかどうか分かりませんよ。自分たちは「空島政策」だと言いたいのでしょうが、外国からは無主地と見られてもしょうがない。ひよっとしたら日本人による取得時効が成立していたかも知れないくらいですしね。まあ、江戸幕府は最終的にはそんなことを主張はしませんでしたが。
 そして、もう言うまでもない話ですが、韓国側は(今の)竹島について朝鮮の支配が及んでいたという事情を何一つ証明できないのだから、つまり(今の)竹島は本当の無主地だったのだから、日本人が先に利用するようになったことに文句を言われる筋合いは全く無いのです。パク・ジヨンさんは、江戸時代の漁業権はどうだったとか言う前に、自国の史料中に(今の)竹島に関するものが何もないという現実をしっかりと見つめるべきですね。

 本文最後の部分では、村川家文書」に記載されている内容は、1696年の「竹島渡海禁止令」は鬱陵島だけでなく独島に対する渡海も禁止したものであり、現在の日本政府が主張していることは偽りだという明白な証拠だ。」とおっしゃっているが、「Aに反するBという史料が出て来たからAはウソだ」と単純に言っていいものではないですよ。Aに反するBという証拠があるなら、AとBのどちらが真実を示しているかという比較検討が必要ですよ。でもパク・ジヨンさんはそんな検討をする気はハナから無いでしょ。自分たちに都合の良さそうな史料が見つかったからそっちが真実だと、単にそう思いたいだけですね。比較検討するならば、村川家文書の記述には幕府の明文の指示を覆すほどの力はない、ということが分かるのです。

 まあ、しかし、現時点では、韓国人研究者たちは「太政官指令に並ぶ、日本政府のウソを暴く史料がまた確認された」とでも思って自信を深めていることでしょう。全くあほくさいことですが。




 



 


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現代の人間が推理解釈をするよりも、「論より証拠」です。
鳥取藩の船番所に備えられていた海図が、松島(現竹島)を日本側に入れているという事実が決定的証拠です。天保の事件以後、幕府が外交問題を起こしたくないということで、触書になった文面、「なる(べく)だけ)竹島(遠)沖乗りいたさぬよう」という高札に準拠した、地方政府の担当役所の公式海図が、「夷国之針図」と「日本針図」の二つの海図です。それがセットになって北前船航海の指針図となっていたわけです。その日本針図が、竹島を航路の外側にして松島を日本側に入れているわけです。
日本針図の拡大画像 (松前へ帰る船、冬分多くは竹島、松島の間を開く)
www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima-042309.data/shashin4.JPG 削除

2018/6/26(火) 午後 8:37 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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日本針図の全体図 (天保九年(1838年)
blog-imgs-62.fc2.com/t/a/n/tansoku159/blog_import_524eb1c7efd9b.jpg

見取図
blog-imgs-62.fc2.com/t/a/n/tansoku159/blog_import_524eb1c8d75de.jpg

17世紀に、隠岐の福浦から、竹島(鬱陵島)を目指して、松島(現竹島)に航海していた頃と異なって、18世紀末からは、下関から北前船が松前へ向かう沖乗りルートとして竹島と松島の間を通るようになったわけですが、もし松島が竹島と同じ扱いであったなら、航路は、松島の内側に引かれていたはずです。ところが海図では、松島は航路の内側です。したがって松島は、日本領扱いであったと判断されます。 削除

2018/6/26(火) 午後 8:49 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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韓国側としては、17世紀の時点で日本がeffectivitesを行使したことは認めたくないのです。
そのためeffectivitesの「主権の表示は主権者の立場で行わなければならない」という点を突きたかったと思われます。

しかしこの論文は説得力がありません。
例えば渡海免許の瑕疵を見いだそうとして「一回きり渡海免許」とか「使い捨て渡海免許」とか言っていますが、現実としては「一度でも主権者の立場で公権力が行使された」ことが重要なのであって「回数」ではないのです。
(回数や継続性が重要となるのは「凝固理論」、つまり複数の「effectivites(主権の表示)」を「title(領域権原)」にまで昇華させるときに必要となるものであり、単に「effectivitesが存在した」という場合には回数や継続性は必要ない)

2018/6/26(火) 午後 11:54 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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また「作成・発行時期が特定されない」というのもあまり意味がありません。
「幕府が大体17世紀の時期に渡海免許を発行した」という「事実」が証明されればよいのであり、厳密に「何年何月に作成されて、何時何時に発行された」かどうかというのは渡海免許の有効性を棄却する理由にはならないわけです。
(国際司法裁判所の判例を見ますと「少なくとも何時何時までには権原を創設しており…」のような表現があり、権利創設の厳密な時間は要求されていません)
この場合に重要なのは、主権者が主権の表示を行ったか否かであり、厳密な年月日は求められていないからです。

いつもの難癖つけだと思われます。

2018/6/26(火) 午後 11:55 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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