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4. 山陰地方民の「竹島渡海禁止令」に対する認識
1696年のいわゆる「竹島渡海禁止令」によって約70年間にわたって生計手段とした鬱陵島に対する利権を剥奪された大屋・村川家は、このような幕府の決定をどのように受け入れて、そしてその過程で独島に対する領有権認識がどうだったのかを確認することで、現在の日本側が17世紀に独島に対する領有権を確立したという主張の真偽を明確に分析する必要がある。
そのために、現在の米子市立図書館が所蔵している『村川家文書』を通じて、1696年の「竹島渡海禁止令」以後の大屋と村川の独島及び鬱陵島に対する認識を調べることにする。内容の明確な伝達のために、長文ではあるが次に引用することにする。
 
庚申年(1740)417日、牧野越中守様から呼び出し状があって、翌日の18日午前10時頃に私に官邸へ出頭せよと指示されました。そのようにしますという答弁書を提出しました。そこで、1810時頃に出頭してあいさつすると、奉行様たちが月例会議を開催して各種の請願に対する調査を始められて、私を呼ばれて恐れながら前に出てあいさつしました。奉行様が座っておられた順序は、
牧野越中守様、
本田紀伊守様、
大岡越前守様、
山名因幡守
上のような順に座っておられました。隣室には各家の下級官吏が順に座っておられました。その次の部屋で私どもが提出した請願書を官吏様が取り出して奉行様の前で読まれ、それが終わりました。その次に越中守様がおっしゃいました。それは「九右衛門、竹嶋の支配は誰がして来たのか」という質問でした。紀伊守様も同じ質問をしました。それでお返事をしました。「竹嶋を支配するのは先祖が認められて私たちまで支配して来ました」と申し上げました。すると御奉行様たちは「それは重大なことだ」とおっしゃいました。次に質問があって、「竹嶋・松嶋の二島に対する渡海禁止令が下された以後には[伯耆国]の米子城主が気の毒だと感じて助けて下さったので生業を維持して来た、と請願書に書いているが、それは[扶持]を受けたということか」とおっしゃいました。そこで申し上げました。「俸禄を受けたのではないです。気の毒だと感じて助けて下さったと申し上げたのは、米子城に各地方から入ってくる魚と鳥類の卸売手数料を受け取ることを我が家の仕事としてまかせられました。そして、同じ境遇である村川市兵衛にも城に入ってくる塩の卸売手数料を受け取ることをまかせられました。二人ともこのような計らいを受けて恐縮だと考えています。」という意を申し上げました。
その次に大岡越前守様がおっしゃいました。それは、「九右衛門は、添付書類に書いているように大阪の米穀回船借用と長崎の貫物運送業者に参加することを請願するということなのか」と尋ねられました。したがってお返事したのは、「道理に反することなく、不憫であると感じられるならばその二つを恐縮ですがお願いしたい」と申しました。すると越前守様がおっしゃるに、「九右衛門、二つの件のうち長崎のことは長崎奉行所の担当業務であり、米穀回船は勘定奉行の担当業務であるから、私たちが決定できることではない。したがって、この件は勘定奉行に請願するべきことだ。我々が自由に決められるものではない。」とおっしゃいました。(43)
 
 
(43) 四月十七日牧野越中守ヨリ御差紙以明十八日四時御屋敷私儀罷出可申仰付故御請書差上、随十八日四時上仕相窺罷在候得者御奉行
例月之通御寄合被諸願之御吟味相始私儀被召出乍恐罷出相窺居申候
御奉行所方御座敷之次第
      牧野越中守様  
      本田紀伊守
      大岡越前守
      山名因幡守
右之通御連座被成候御次間御家御下役人衆中方御連座被成候其次ニテ私共奉指上候御願書御役人方御持出被成候得而御奉行方御前ニテ上被成候得相終申候其上ニテ越中守成御意候趣九右衛門竹嶋之支配誰致候哉トノ御尋被成候紀伊守ニモ御同御尋被成候、随御請申上候竹嶋御支配之義先祖之者共相蒙私共支配仕候由申上候則御奉行方御一同事哉御意被成候御尋之趣竹嶋松嶋嶋渡海禁制仰出候以後伯州米子之御城主ヨリ御憐以渡世仕罷在候由願書候段然者扶持請申候哉御意被成候、随申上候御扶持ニテハ無御座候御憐愍書上申候義米子御城下江諸方ヨリ候魚鳥之問屋口之座則私家督仰付下被置候同役村川市兵衛儀御城下江入問屋口儀被仰付候、両人共右之趣頂戴仕奉存候旨申上其上ニテ大岡越前守御意被成候趣九右衛門此添書書候通大坂御廻米船借之義長崎貫物連中江加ハリ申度儀、弥御願申上候哉トノ御尋ニテ御座候、随御請申上候天道御憐愍相下申候得者右之二品乍恐御願申上度旨申上候然者亦越前守ヨリ成御意候趣九右衛門二品長崎表長崎御奉行所作廻御廻米之儀御勘定奉行方懸リニ有之候得者此方之作廻ニテ無之候故此儀御勘定方相願申候得可然筋此方了簡不及候仰付候
 
 
上の内容は、大谷・村川家が、いわゆる「竹島渡海禁止令」が下された以後に彼らの生計を維持するのが難しいという理由で、1740年に幕府の寺社奉行所に請願書を提出したことと関連したものだ。当時、二つの家門を代表して大谷家の大谷勝房が江戸に上ぼって請願書を提出したが、その内容は「竹島渡海禁止令」によって二つの家の生計を維持するのが大変で、可能ならば大阪に運送する米穀の輸送に参加したり、長崎の貫物すなわち貿易事業に参加できるようにしてほしいということだった。その請願内容のうちに、大谷と村川一族が「竹島渡海禁止令」が下された以後、鬱陵島と独島に対してどのように認識していたのかが分かることがある。
まず、上の史料内容で大谷・村川は1696年の「竹島渡海禁止令」以後に米子の城主であり鳥取藩の家老である荒尾家から、大谷家は魚と鳥類の卸売手数料を徴収することを、村川家は塩卸売手数料を徴収することを許されて生計を維持していたことが分かる。だが、このような手数料徴収だけでは生計を維持するのが大変だという理由から、上で言及したように大阪に運送する米穀の輸送と長崎での貿易事業への参加を請願したのだ。大谷勝房は幕府からこれの許諾を受けるために1740年に直接江戸に行って寺社奉行所で4人の奉行らと直接面談をして、上の内容はその面談で寺社奉行と大谷勝房が会話した内容を整理したものだ。
上の内容を調べれば、大谷と村川家は1696年に「竹島渡海禁止令」が下される前は彼らが当時の竹島すなわち鬱陵島に対する支配権を彼らの先祖が幕府から受けて支配権を維持していたと認識していたということが分かる。したがって、大谷・村川家は安龍福拉致事件によって1693年以後に発生した「鬱陵島争界」以前までは、鬱陵島に対する支配権を彼らが幕府の許諾を受けて公式に持っていたと認識していたということだ。
このような彼らの認識は、たとえ彼らがそう認識して約70年間にわたって鬱陵島で漁撈行為をしたとしても、前に説明したように朝日両国の国内法秩序だけでなく当時の漁業慣行に照らしてみても不法であり、容認されないことだった。 したがって、誤った認識を基に大谷・村川は約70年間漁撈行為をしたのだ。
そして、寺社奉行所の4人の奉行と大谷勝房の一問一答中には、1696年の「竹島渡海禁止令」以後に大谷・村川が鬱陵島と独島に対してどのように認識していたのかが分かる内容がある。それは寺社奉行が大谷に質問した内容で、「竹嶋・松嶋二島に対する渡海禁止令が下された以後には伯耆国の米子城主が不憫に感じて助けて下さったので生業を維持して来た、と請願書に書いているが、それは扶持を受けたということか」というものだ。
この内容を調べれば、大谷・村川が寺社奉行所に提出した請願書に1696年の「竹島渡海禁止令」によって彼らが竹島すなわち鬱陵島だけでなく松島すなわち独島に対する渡海も禁止されたと記述していることが分かる。このような大谷・村川の認識は、現在の日本政府が主張していることとは相反するものだ。現在の日本政府は、当時、江戸幕府は鬱陵島に対する渡海は禁止したが独島への渡海は禁止しなかったと主張している。しかし、当時に幕府から渡海を禁止された当事者である大谷・村川一族は独島への渡海も禁止されたものと認識していた
さらに、このような認識は大谷・村川の認識にとどまるものでなく、幕府の公式機関である寺社奉行所の4人の奉行全てが大谷・村川の認識に対して異議を提起しなかったということは、当時の幕府の公式見解もまた独島に対する渡海も禁止したものだということを反証しているわけだ。したがって、上の「村川家文書」に記載されている内容は、1696年の「竹島渡海禁止令」が鬱陵島だけでなく独島に対する渡海も禁止したものであり、現在の日本政府が主張していることが偽りだという明白な証拠ということができる
これと関連して、「鬱陵島争界」当時の鳥取藩の当局者は、鬱陵島、独島はもちろんその他に鳥取藩に属する島はないと幕府に報告していて(44)、特に「松島(独島)はどの地方にも付属しないと聞きました。」(45)と報告したことから見て、当時に既に独島もまた朝鮮領土と認定していたことが分かる。したがって、「鬱陵島争界」以後に渡海が禁止されたのは鬱陵島だけでなく独島も含まれていたことは明白なことだということが分かる。
 
(44) 竹島之書付』 1224日 竹島御尋書御返答書 同25平馬持參 曾我六郞兵衛
(45) 竹島之書付』 小谷伊兵衛差出候竹島書付

(続く)

<コメント>
 赤字強調は翻訳者による。
 いやあ、池内さんと竹内さんはいい仕事をしていますねえ。韓国人研究者がすっかり勢いづいていますよ。まあ、赤字のようなことが書いてあっても、「竹島渡海禁止令には松島渡海禁止も含まれていた」などという説明が成立しないことについては既に書きました。


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山陰地方民の竹島渡海4~7、ざっと拝読いたしました。幕府の判決文の対象は、竹嶋のみ(松嶋への言及はない)。判決の客観的範囲(争点効)からいえば、松嶋は対象とならない(現代の民訴法論で極めて形式的ですけどw)。では、実質的・歴史的にはどうでしょうか!? 管理人さんがおっしゃるように幕府奉行は、専門でないのでわからない。再び竹島・松島が問題になった→天保竹島一件の朝鮮外交実務担当の対馬藩の見解が、この答えになると考えます。「松嶋を含むといえそうだがそう断定できない」です。結局、解釈レベルでは両論ありそうです。 削除

2018/6/25(月) 午後 10:17 [ Gくん ] 返信する

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本文下のリンク先(1)~(3)も拝読いたしました。(1)(2)は、そうなのでしょう。むしろ管理人さんの見解をまとめた(3)の一連の見解に賛成したいです。「竹島渡海免許」は、竹嶋のみへの渡海免許だった。幕府は竹嶋を無主地と考えて、特殊な免許を発給した(国内なら発給は不要だし・朝鮮領ならそもそも発給しない)。ではもう一方の松嶋はどうか!? 注45では鳥取藩は、>松嶋は鳥取藩の領国(因幡国及び伯耆国)に付属する島ではない< と幕府が判決を出す前に答えています。結果、竹嶋は朝鮮領、松島は(判断していないので)無主地として、竹嶋も松嶋も一挙にその渡海免許を取り消した判決、という論理構成も有りえます(もちろん、渡海禁止を文面どおり竹嶋のみを対象とするもあります)。ゆえに、筆者らのいうような大した問題とはならないと考えます。 削除

2018/6/25(月) 午後 10:18 [ Gくん ] 返信する

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