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2)山陰地方民の鬱陵島渡海に対する政治的背景
 江戸時代に日本から鬱陵島と独島に渡っていったのは大屋と村川一族が中心勢力であり、上で言及したように彼らは運送業者であって漁業権を所有しない商人だった。彼らが鬱陵島に渡っていくことになった契機も、偶然に大屋家の船が漂流して鬱陵島を発見したためであり、当初から鬱陵島で漁業を営んだ勢力でもなかった。だが、この二つの家門についてはそれほど知られたものがなく、彼らがなぜ鬱陵島と独島で漁業をすることになったのか、詳細な内容に対する研究も殆どない。 そこで、彼ら一族の来歴の紹介と鬱陵島に渡ることができるようになった経緯を整理してみれば、下記のとおりだ。
『鳥取藩史』の「竹島渡海禁止並渡海沿革」(31)に載っている内容を整理してみれば次のとおりだ。大屋氏(後日、大谷に改称する)は本来は和田氏であり、天正(1573-1592)の時代に武将福島の部下として木曽地方に3,000(32)の土地を拝領して、但馬(33)の大屋谷に住んだという。
 
(31) 鳥取藩史』第六巻 事変志 1971  村川·大屋二氏竹島渡海ぬるに村川氏山田二郞左衛門正東照公えて久松氏後罪自殺子正員本多氏臣村川六郞左衛門友正なり死後母子流浪して米子正員外家苗字村川甚兵衛子甚兵衛正賢孫市兵衛正純大屋氏後大谷もと和田氏天正頃福島氏三千貫故有但馬大屋谷九右衛門良兵衛永順其子玄蕃実真、尾高城主杉原氏かれ伯耆りしが杉原氏亡びて再但馬元和二年二男一姪有九右衛門兵左衛門甚吉なり甚吉米子遠近渡梅して運送とす元和三年甚吉越後より時漂流して竹島西北百里計朝鮮五十里十里計。当時人家無くして山海産物有喬水大竹獣、其品就中鰒るにタににこれをぐれば彼鮑技葉事木其味又絶倫なり甚吉情して米子幕臣安倍四郞五郞正之使として米子甚吉村川市兵衛竹島渡海許可周旋せむ四年人江安倍氏紹介って請願事募府五月十六日渡海下附せらる竹嶋波海濫觴とす渡海免許し」
(32) かん。重さの単位で、一貫は3.75kg。領地の規模は穀物()の生産量を表す「石(こく)」という単位でも表示するが、一石は10斗で180ℓ。
(33) 今の京都府の北西部と兵庫県の北東部にかけての地域
 
 
この当時の先祖が九右衛門良清であり、良清の息子は瀬兵衛永順、孫は玄蕃実真だった。大屋実真はその後尾高城主杉原氏の招請で伯耆地方へ移住したが、杉原氏が死亡するとすぐに再び但馬に帰り、1616年に死亡した。彼には二人の息子と一人のおいがいたが、長男の名前は九右衛門、次男は兵左衛門、おいは甚吉であった。
おいである甚吉は米子に来てあちこちを移動して海運業をしていたが、1617年に甚吉が越後地方(34)から米子に戻るときに東海で漂流して鬱陵島に到着した。 この島は隠岐から西北側へ100里程度あり、朝鮮までは50里で島の周囲は10里程度であった。当時人家はなく、山海の産物があった。喬木、大竹が生い茂り、禽獣、魚、貝などが多かった。特に、アワビを採ろうとすれば、夕方に竹を海に投げ入れて置いて朝これを引き出せばそのアワビが枝葉についている姿はキノコのようで、その味もまた絶倫だったという。
島の状況を把握して米子に戻った甚吉は、村川市兵衛とともにちょうど米子に検使として来ていた幕臣安倍四郎五郎正之に竹島渡海の許可を斡旋してほしいと懇請した。1618年に江戸に行った二人は安倍の紹介で幕府に請願を上げ、516日に鬱陵島渡海免許状を受けたという(35)
 
(34) 今の新潟県の旧名
(35) 鳥取藩史』 第六巻 事變志 1971
 
 
村川氏の先祖は山田二郎左衛門正斉で、徳川家康に仕え、家康の異父弟の一族である久松氏に属していたが、後日罪を犯して自殺した。その息子は正員であり、夫人は本田氏の臣下村川六郎左衛門友正の娘だった。正斉が死んだ後に母子は流浪の生活をし、偶然に米子に流れてきた。正員は母方の姓を受け継いで村川甚兵衛という名前を使った。その息子は正賢、孫は衛正純と名のった(36)。正純は数隻の船舶を所有して主に大阪地方で鉄と米を運ぶ運送業を営み、米子地方商人のうちの最高位の職にあった(37)
(翻訳者注:衛正純の衛は何なのか分からない。)
 
(36) 鳥取藩史』 第六巻 事變志 1971
(37) 米子商業史』 1990p49
 
 
以上のように大屋と村川家の正体は没落した武士一族で、米子地方に来て運送業を営んでいたものと見られる。したがって、彼らは漁民でなく商人だったから漁業権を所有できなかったし、彼らが日本近海だけでなく遠海に出て行って漁業行為をするのは不法だった。
大屋・村川家は安倍四郎五郎を仲介者として幕府から鬱陵島渡海免許を得た。それだけでなく、幕府に彼らが鬱陵島で採取してきたアワビを献上品として捧げることさえした。彼らが江戸に赴いて幕府に献上品を上げたことと関連して、『伯耆志』では下記のように記録している。
 
村川・大屋は共に由緒深い家系だったので将軍の謁見が許されて、二人は交代で江戸に来て干しアワビ()及び竹木を献上することが幾度もあった。
 
その間、いつも安倍氏が中継の役割をしたので、二人とも安倍氏の多数の書簡を鳥取藩史に所蔵している。光中(38)公が移封された後、二人は米子荒尾家の管下となって、毎回鳥取藩から資金を借りてその業を継続した。公が在府(39)していた時に江戸で謁見して、干しアワビを献上することが通例であった。藩の幕府献上品の中に竹島アワビがあるのはこのためだ(40)
上の内容を調べれば、大屋と村川一族は幕府に献上品である干しアワビと竹を献上する時、安倍を通じて行ったと見られる。そして、1660年代に彼らが独島でのアシカ猟を開始する時も安倍がその仲介者の役割をした(41)。安倍四郎五郎は徳川幕府の直轄家臣である旗本で、江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠と第3代将軍家光に仕え、江戸時代初期には主に大名の転封を監視する業務を遂行した人物だ。そして、「鬱陵島渡海免許」を発行した当時の老中であった井上正就とは親戚関係を結んでいた人物だった(42)
 
 
(38) 鳥取藩主である池田光中をいう。
(39) 参勤交代で藩主が江戸に滞在していることをいう。
(40) 鳥取藩史』第六巻 事變志 1971 村川·大屋共家系由緖有るを
將軍謁見され二氏隔番江戸して及竹木進獻することなり其問常安倍氏仲介めに二氏共安倍氏書簡鳥取藩史通光仲公御移封後二氏米子荒尾家管下となり藩帑りて其業公在府にて謁見又串ずるをとす幕府獻上竹島串りしはめなり。」
(41) 川上健三竹島の歴史地理学的研究』 p73から再引用。「来年には竹島管内松島へ貴下が船舶で渡海することにつき、去年四郎五郎様が老中様を通じて幕府に申し上げました。渡海の順番が回ってくる年に貴下に証書を渡す間、村川氏と相談してその証書を受けることになるでしょう。市兵衛殿と貴下はその中で少しでも背反した時は法により処罰を受けることになります。」
(翻訳者注:この注41の翻訳は何だかなあ・・・・・『竹島の歴史地理学的研究』にはどう書いてあるんだろ?)
 
 
つまり、大屋と村川一族の政治的な背景は安倍四郎五郎という旗本で、彼らは安倍を通じて自分たちの渡海免許を取得したのだ。また、「鬱陵島渡海免許」獲得の過程だけでなく、独島に渡海する時も自分たちが所属した鳥取藩を通さずに安倍を通じて幕府と交渉していたという事実を知ることができる。これは明白な越権行為であり、鳥取藩の立場は非常に難しいものだったが、後述するように1693年に発生した安龍福拉致事件当時の鳥取藩の反応を見れば、大屋と村川の越権行為に対する明確な認識は無かったように見える。
したがって、大屋と村川家が実施した鬱陵島漁業と独島漁業は、彼らを政治的に保護した安倍の配慮で成り立ったものであり、安倍はその親戚である老中井上と経済的な利益のために結託して、いわゆる「竹島」が朝鮮の鬱陵島であることを分かっていながら将軍を騙して渡海免許の発給を受けるようにしたものと見なければならないだろう。だが、彼らが自分たちの政治的背景だった安倍を通じて発給を受けた渡海免許は一回用免許であり、また、漁業権を持たずに鬱陵島と独島に渡海して実施した漁撈行為は当時の日本国内法上でも明白な不法行為であった。
ところが、安龍福拉致事件以後に発生した「鬱陵島争界」の結果、日本は鬱陵島渡海禁止を命令した。だが、この禁止令中に「松島」、すなわち独島に対する言及がなかったという理由を挙げて、現在の日本は当時の幕府が独島を自国の領土と判断していたと主張している。それならば、果たして、例え不法であっても幕府から渡海免許を受けて鬱陵島に渡って漁撈行為をした大屋と村川家も現在の日本側が主張しているような認識を持っていたのか、次に考察して見る。
 
 
(42) 藤正中 元和四年竹島渡海免許をめぐる問題北東アジア文化研究』 71998 p6

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衛正純の衛の謎は、コピペのミスでしょう。あるいは、通称と諱の意味を理解していないのかもしれません。(注31)に、
「正員外家の苗字を取り村川甚兵衛と称す。子甚兵衛正賢、孫市兵衛正純と云ふ。」
とあります。
夕方の意味の「夕」が、カタカナの「タ」、そのあと、「海」が二ヶ所とも、「梅」になっています。「木の子の如く」は、他の文献、『伯耆民談記』「大谷・村川竹嶋渡海之事」では、「李」のなる如くです。

それから、「木曽地方に3000貫の土地を拝領し」の「貫」について、(注32)で、重さの単位として、1貫目の3.75kgを説明していますが、これは意味がさっぱりわかっていませんね。
貫高制で、「3000貫の土地」は、「3000貫文」の土地の意味です。換算は、1貫文=2石ですから、3000貫文の土地とは、6000石の領地という意味です。 削除

2018/6/25(月) 午後 3:12 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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(注31) の「甚吉情を齊して米子に帰る」もイミフメイです。これは、
甚吉が、米子に帰って、この情報を齎(もたら)した、という意味で、「甚吉情を齎して米子に帰る」が正しいです。

内藤正中 「元和四年竹島渡海免許をめぐる問題」 は、以下のURLで読めます。
www.kr-jp.net/ronbun/naitou/naito-9803.pdf
「島は隠岐の西北百里計、朝鮮に五十里、周囲十里計、当時人家無くして山海産物有り、喬水、大竹繋茂し、禽獣、魚、貝、其品を尽す、就中鰒を獲るに、夕に竹を海に投じ、朝にこれを上ぐれば、彼鮑技葉を着く事木の子の如く、其の味又絶倫なり、甚吉情を齎して米子に帰る」 削除

2018/6/25(月) 午後 3:41 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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なるほど市兵衛正純からのコピペミスですね。

2018/6/25(月) 午後 4:19 [ Chaamiey ] 返信する

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