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日本山陰地方民と「鬱陵島・独島渡海禁止令」について
パク・ジヨン(嶺南大学独島研究所研究教授)
『独島研究』第23号 p357
嶺南大学独島研究所(2017.12.30)

(続き)


二番目に、幕府は大屋・村川家の「今回も」鬱陵島に渡って行きたいという請願を許諾したのであって、今後持続的に鬱陵島に渡海することを許諾したのではなかったということが分かる。渡海免許の原文に出てくる「今度」という表現は「今回」という意味でだけ解釈が可能なもので、「今後」あるいは「持続的に」という意味では使われない単語だ。したがって、「鬱陵島渡海免許」は大屋と村川に「今回」だけ鬱陵島に渡って行くことを許可したものと見るほかはない。すなわち、渡海免許の内容上だけで見るならば、大屋・村川家は一回用の渡海免許の発給を受けたということが分かる。
以上のように調べた結果、17世紀初期に徳川幕府が鳥取藩の大屋・村川家に発行したと伝えられる「鬱陵島渡海免許」は、その作成・発行時期が特定されず、その真偽の有無も不明な状態であり、その内容も一回用の渡海免許で、鬱陵島での漁行為を保障したものでも無なかったということが分かる。また、渡海免許は彼らに漁業権を保障したのでも無く、本来商人だった大屋・村川家には漁業権というものが存在することもなかった。したがって、大屋・村川家は、真偽が明確でもない一回用渡海免許を使って朝鮮の領土である鬱陵島及び独島70年間にわたる不法漁行為を行ったのだったと言える。
 
 
3. 山陰地方民の鬱陵島・独島漁業
1) 鬱陵島・独島漁業の性格
上で調べたように、日本米子の運送業者大屋・村川家は真偽が明確でもない一回きり渡海免許を使って1620年代から毎年鬱陵島に渡って漁行為をした。それだけでなく、1660年ごろからは独島でもアシカ狩猟を含む漁業行為をしたという。
日本側の史料によれば、大屋・村川家が独島でアシカ猟を含む漁行為を始めたのには時期的に差がある。独島で漁行為を先に始めたのは大屋一族だった。166094日付で阿部政重が大屋九右衛門に送った書簡(22)95日付で阿部政重の家臣である亀山庄左衛門が大屋に送った書簡(23)を参照すれば、大屋が1661年に初めて独島に渡っていったものと見られる。一方、村川家の場合は1657年に初めて独島渡航を試みたが失敗し(24)1659年には独島渡航に成功したと見られる。
 
 
(22)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』 p73から再引用。 「来年に貴下が船舶で竹島(鬱陵島)へ渡海して松島(独島)にも初めて渡りたいという趣旨を村川市兵衛と上申したのを受け取りました。」
(23)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』 p73から再引用。 「来年に竹島管内松島へ貴下が船舶で渡海することについて、去年四郎五郎様が老中様を通じて幕府に申し上げました。渡海の順番が回ってくる年に貴下に証書を渡す間、村川氏と相談してその証書を受けることになるでしょう。市兵衛様と貴下はその証書に少しでも背反した時は法により処罰を受けることになります。」
(24) 池内大君外交武威」』 名古屋大学出版 2006 p256万治元(1658)97, 村川市兵衛方書状之寫(山庄左衛門大谷道喜) 大谷家文書
 
 
彼らは鬱陵島に渡っていく時「大・小2隻」の船舶を引いて行き(25)、小さな船を使って独島に渡ってアシカを捕えたと見られる。彼らが独島に渡っていくことになった理由は鬱陵島でアシカが捕えられなくなったためであり、アシカ猟の方法は、独島でアシカを捕えたというよりは、独島にいるアシカを驚かせて鬱陵島に逃げるようにした後で鬱陵島でアシカを捕えたと見られる(26)。このように、独島でアシカ猟を始めることになったのは、鬱陵島のアシカの数が減って収穫量も減るとすぐに独島にいるアシカを鬱陵島に送るために始めたものだということが分かる。したがって、結果的に大屋と村川は独島で漁労行為をしたのではなく、鬱陵島だけで漁行為をしたものということができる。
 このような独島における漁業に対して幕府の免許があった、と日本側が過去に主張したことがある。それは、川上健三が1681年の大谷勝信の文書(27)1740年及び1741年の大谷勝房の文書(28)等を挙げて独島に対しても鬱陵島と同じように幕府の渡海免許があったと主張したこと(29)がその根拠になった。
だが、最近、日本でも独島に対する渡海免許は別に存在しなかったという意見が主流をなしていて(30)、特に池内敏は、川上が主張の根拠とした文書は大屋と村川一族に独島での漁業を許諾したものではなく、彼ら一族の事業内容を調整するための文書だっただけだとし、幕府の独島渡海免許というものは存在しなかったと主張している。したがって、独島渡海免許は日本でも否定されている状況なので今後も論争の対象にならないと判断される。
 
 
(25) 鳥取県 『鳥取藩史』 p467
(26) 大谷道喜に送った石井宗悅の書簡新修鳥取市史』 2鳥取市 1988 p313
「松島(独島)へ7、80石ほどの小さい船を送って銃でアシカを撃てば、小さい島である関係から竹島(鬱陵島)へアシカが逃げるので竹島での収穫が増えると市兵衛が話しています。」
(27)竹嶋渡海由來記拔書』鳥取県立博物館所蔵版)
三代目九右衛門勝信
信代延寶九年酉五月御巡見樣御宿仕其節竹嶋之樣子就御尋御請書差出寫
大猷院樣御代五拾年以前阿倍四郞五郞樣御取持竹嶋拜領仕其上親共より御目見被爲 仰付難有奉存候事
彼嶋船渡海鹿魚之油串鮑所務仕事
竹嶋隱岐國嶋後福浦より百里余可有御座由海上之儀御座候得共、慥には不申事
竹嶋之廻拾里余御座候御事
嚴有院樣御代竹嶋之道筋廿町斗廻申候小嶋御座候草木無御座岩山にて御座候。廿五年以前阿倍四郞五郞樣御取持拜領則船渡海仕候此小嶋にても海鹿魚油少宛所務仕候右之小嶋隱岐國嶋後福浦より海六拾里余御座候事
 五月十三日  右之通御請書仕候事
(28) 1740元文5御公儀江御訴訟之御請 大谷家文書
竹嶋江渡海仕候道法之内隱岐國嶋後福浦より七八十里程渡候而 松嶋申小嶋御座候付 此嶋江茂渡海仕度旨 台德院樣御代御願申上候處願之通被爲 仰附竹嶋同事渡海仕候 尤再度奉差上候竹嶋渡海之繪圖候御事
1741寬保元長崎奉行所への口上書
竹島渡海由來記拔書』
乍恐口上書以奉申上候
大猷院樣御代竹嶋之海道にて又松島申嶋見出御注進奉申上候得竹嶋之通支配御預被爲遊右兩嶋渡海仕來難有仕合奉存候
(29) 川上健三 『竹島の歴史地理学的研究』 p73
(30) 塚本孝 竹島領有問題調査情報』 244 1994 p1池内 前掲 p258
 

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