| (続き) 独島初の測量 東島は西島に比べれば多少険しさが少ないので、注意深く足を運べば一般の人でも普通に登ることができる。朴教師は隊員たちと共に東島の頂上に上がり、砂利浜からは見えない頂上附近も測量した。しかし、砂利浜の反対側へは降りることができなかったので、その場所は正確に測量することができなかった。 夕方になると東島の測量を止めて、砂利浜に下りてテントを張って野営した。 翌日は、西島を測量することにした。まずイ・ムンヘン隊員がボートに乗って西島の周りの岩礁に行ってポール(函尺)を立てれば、朴教師は角度と距離を測量した。二人はボートに乗って西島の周りを回って測量をしたが、沖合いに向いた方角は波がとても強くて測量ができなかった。 西島の岩壁は東島よりずっと粗く険しくて、「あちゃー」とぶつければすぐに傷がついた。山岳会の隊員たちは西島の頂上まで登ることができなかったから、西島の測量はできなかった。 独島は、行って見れば分かるがとても単純な岩島だ。だから鉱物班や水産班などはすぐ調査を終わらせて暇になる。測地班を除いた他の調査班は翌日にすべきことがなかったので、独島遭難漁民慰霊碑がある砂利浜に鬱陵島から持って来た独島領土標石を建てた。 韓国山岳会は、設立時から英文の名称を「Corean Alpine Club」(略称 CAC)と表記していた。しかし、1952年の独島の調査は政府の代わりとしてすることだから、誤解がないように「Korea」を使って、「Club」はより意味が大きい「Association」に変えて書くことにした。それで、韓国山岳会の英文名称を「Korea Alpine Association」と刻んで入れてあった。ところが、この標石を最初に予定した1952年8月15日ではなく1953年10月15日に立てることになったので、標石の側面に「1953年10月15日」と書き入れた。905艇は海軍本部の統制を受ける作戦艦艇だったから帰港の日付が決まっていた。このために韓国山岳会は15日の正午ごろに撤収しなければならなかった。朴教師は、西島周辺の岩礁に対する測量を中断して助手たちと一緒に905艇に上がった。 そして、ソ大尉に独島の周囲近くをゆっくりと回ってくれと頼み、砂利浜と東島の頂上からは見られなかった東島の反対側と西島の反対側を詳しくスケッチし写真を撮った。また、夾角法と仰角法を利用して西島の高さを174mと推定した。前年より高く出たのだ。このような資料を確保した朴教師は、釜山に帰ってから韓国人最初の独島地形図を作った。 独島に上陸して分野別に調査を行い領土標石まで立てた韓国山岳会は、ソウル小公洞にあったソウル大学歯学部講堂で独島の調査結果を発表することになった。この時に発表者を務めた朴教師は、彼が描いた地形図を広げて見せながら次のような要旨の発表をした。 「独島の全てのものを調査することはできなかったが、去年よりもはるかに精緻な調査をすることができた。今回の調査で明らかになった独島東島の高さは99m、面積は6万4000余m2(1万9000余坪)で、西島は高さ174m、面積は9万5000余㎡(2万8000余坪)、岩礁を加えた総面積は18万6000余 ㎡(5万6265坪)だ。去年の概略的な調査では3万5000坪と計算したが、測量ポールを立てて調査して見たらもっと広く出た。私は独島を初めて測量したことに対して大きな自負心を感じる。今や、私たちは、独島の地形と面積、高さなどを根拠をもって把握することができるようになった。」 朴教師が作成したこの独島地形図は、その時までに日本から出たどんな独島地形図よりもずっと詳細で正確だった。朴先生の作成した地形図は、国土地理情報院が航空写真を利用して作った最近の地形図と大差がない。 調査団に参加した報道人たちは媒体を通じて報告をした。調査団長だった洪鐘仁氏は朝鮮日報主筆だったので朝鮮日報に「独島に行って来て」という題目のシリーズを4回書き、英字紙である「コリアタイムス」のチョン・インホン記者なども自己の媒体に独島の調査記事を載せた。 調査団が独島で引き抜いて運んで来た日本の領土標柱はどうなっただろうか。朴先生はもちろん写真技師として行ったキム・ハンヨン先生も、「プサン大学博物館に伝達したと記憶している」と証言した。これについて記者が問い合わせると、プサン大学博物館は、「私たちの博物館は1960年代に開館したので、1953年には無かった。その方たちが標柱を伝達したのが事実なら、博物館ではなくて学校側であった可能性が高い。ともかく博物館の所蔵資料にその標木は無い。」という答えだった。 韓国山岳会が独島に設置した領土標石はどうなっただろうか。 韓国山岳会の独島調査と領土標石設置は日本でも関心を引いたから、朝日新聞を含めた日本の新聞もこれに関する報道をした。朝日新聞の報道によれば、韓国が抜き取った領土標柱は日本が四番目に打ちこんでおいたものだった。「ながら」艦に乗っていた日本人たちは、905艇が独島を離れた後、独島に上陸した。彼らは韓国が設置した領土標石を確認して写真を撮り、パク・ビョンジュ教師が作った竹製測量ポールとキム・ハンヨン氏が使ったと思われるフィルムの筒などを収去した。日本側が上陸した後、韓国山岳会の領土標石は消えた。この事実は、翌年(1954年) 春に独島に入って独島を守った独島義勇守備隊の証言で確認される。 韓国山岳会の標石を取り除いた日本 ホン・スンチル氏が率いる独島義勇守備隊は、独島遭難漁民慰霊碑に関する記録は残しても韓国山岳会の領土標石に関しては全く取り上げなかった。韓国が日本の領土標柱を引き抜いたように、まさにその翌日、独島に上陸した日本は韓国山岳会の領土標石を引き抜いたのだ。しかし、独島遭難漁民慰霊碑には手をつけなかった。この慰霊碑はそのまま独島に立っていたが、1959年サラ号台風の時に流失した。 韓国山岳会の活動で独島についての概略的な情報を握るようになった政府は、これを基礎として日本と長々しい交渉をし、1965年、独島を奪われることのないまま日本と国交を回復することになった。 韓国は、1953年の韓国山岳会の活動で独島領有権を確認した後、1954年にホン・スンチル氏が率いる鬱陵島の退役軍人たちが独島義勇守備隊を結成して独島に常在し、1955年末に警察に独島防御を引き継ぐことにより、完璧に独島領有権を守ることになった。 しかし、韓国は「鍋根性」の国だ。事件が起これば騒々しく騷ぐが、終わってしまうといつそんなことがあったのか、と忘れてしまう。独島領有権が明確になると、光復と戦争前後の時期にあった独島領有権争いの歴史を忘れてしまったのだ。1953年に日本が取り去った最初のハングル領土標石(韓国山岳会の領土標石)と1959年のサラ号台風が壊して行った独島遭難漁民慰霊碑に対しては、これ以上の関心を傾けないのだった。 2005年2月22日は日本の島根県が独島を彼らの領土に編入させる告示を発表してから 100周年になる日だ。その年、島根県議会は2月22日を竹島の日と決定して大きな波紋を投げかけた。その直後、記者はキム・ハンヨン先生から1953年に韓国山岳会が独島に上陸して日本の領土標柱を引き抜いて韓国山岳会の領土標石を設置する写真の提供を受けて、『週刊東亜』に公開した。 しかし、キム先生は、独島の調査についての詳しい内幕は知らなかった。韓国山岳会が独島を調査することになった背景と調査の過程に関する話を今回会ったパク・ビョンジュ先生が明らかにしてくれたことで、記者は1952年と53年の間の緊迫の独島領有権争いを再現することができた。記者がキム先生の写真を公開した数日後、「東亜日報」は李承晩大統領記念館である梨花荘で、1950年にチョ・ジェチョン慶尚北道知事が独島遭難漁民慰霊碑を除幕する写真の提供を受けて公開し、やはり大きな関心を集めた。 (続く) |
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