日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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[発掘公開] 1953年、独島を初めて測量したパク・ピョンジュ先生
 
(続き)
 
 
パク・ビョンジュが作った竹の測量ポール
 
1953年10月14日独島に上陸した韓国山岳会は、日本の領土標柱を抜き取る前、この標柱に太極旗をくくりつけて撮影した。 この標柱の先にチョ・ジェチョン知事が建てた独島遭難漁民慰霊碑が見える。
 
 
  欠礼を承知で班長を引き受けた朴教師は、前年の調査の時に目にしたことを基礎として万全の測地計画を樹立しようと考えた。彼
は、1952の調査の時に苦労した経験のために同行を辞退した釜山工高のキム・キバル教師の代わりにク・チャウォン教師を参加させ、韓国山岳会には岩に登ることができる隊員たちを揃えてくれと依頼した。
そして、長さ 3mほどの竹を数十本集めて50cm間隔で赤色と白を交互に塗った測量ポール(pole)を作った。それぞれのポールには遠くからでも見て取れるかなり大きな番号札を付けた。そしてポールの中ほどに紐を3本ずつ結んで付け、それぞれの紐の先には地面や岩に打ち込む釘を結びつけた。
 
 普通の測量ではポールは助手が持って立つが、独島は険峻な岩だからポールを持って立っていることができない。しかし、岩登りに長けた者なら、岩の間に釘を打ち込んでポールを固定させることができる。岩に登る助手たちが変曲点にポールを立て、他の場所に移動してまたポールを立てる。朴教師は、このようにすれば短時間で多くの場所を測量できると考えたのだ。韓国山岳会側は、漢陽工科大学土木部の学生イ・ムンヘンさんなど若い会員5人を朴教師の助手に指名してくれた。
 
 こうして編成された調査隊員36人は、ソウルへ首都が移った後の1011日、海軍905警備艇(艇長ソ・ドクギュン大尉)に乗って釜山港を出航し、その日に鬱陵島に到着。鬱陵警察署に預けて置いた領土標石を受け取って 905艇に積み込んだ。この時、朴教師は、「独島周辺は波がとても強く、軍艦のように大きな船は接岸することができないかも知れない。そして東島と西島の間の岩礁の海を行き来することも必要だから、軍艦に小さなボートを二隻積んで行こう」と主張してこれを実行させた。1013日朝95分、船は鬱陵警察署長を乗せて独島へ出航した。
 
 
韓国軍艦に迫って来た日本巡視船
 その日の正午ごろ905艇は独島に接近してボートを下ろしたが、波が非常に強く、鬱陵島に戻った。905艇が鬱陵島に帰港する時、国旗を掲げていない船舶一隻が付いて来て並走した。905艇長のソ大尉が旗を用いて停船命令を下して国籍を明らかにせよと伝えると、むこうは日章旗を上げた。
 ソ大尉は、直ちに総員戦闘命令を下した。あっという間に905艇の将兵たちが戦闘準備に入り、緊張が高まった。むこうの船は日本海上保安庁所属の「ながら(300t)」だと分かったが、その船の武装は905艇よりもはるかに貧弱だった。対峙した状態で走りながら、「ながら」は後れ始め、離れて行った。すると、洪鐘仁韓国山岳会長がソ大尉を呼んで情況の説明を求めた。ソ大尉の説明要旨は次のようだった。
 
「日本巡視船は、日本政府の命令で竹島を巡視しに来たと言った。それで、私たちは海軍本部を呼んで、日本の巡視船が平和線を越えて来たがどういう措置を取るべきか指示を求める、と尋ねた。海軍本部からは、日本巡視船が順応する態度を見せれば無条件で返してやるように、と言って来た。そこで、無条件で帰って行けと言ったところ、巡視船は、貴艦の安全な航海を祈る、と言って離れて行った……。」
 
 すると、鬱陵警察署長が興奮して、「日本の巡視船が平和線を越えて来たなら拿捕しなければならないのに、何で帰すのか」と激しく怒った。ソ大尉は「本部の指示に従うしかない」と抗弁した。調査団には新聞記者たちも含まれていた。洪鐘仁会長は、事態を整理した後、「多分、日本でもこの事件を報道するはずだから、ラジオをつけておいて聞いて見よう」と言った。その夜、日本のNHKでこんな放送が流れた。
 
 「海上保安庁所属の船が竹島を巡察する途中、重武装した韓国軍艦に出会った。海上保安庁の巡視船には、旧日本海軍の大佐出身である辻政信代議士と外務省の官吏が乗っていた。彼らは韓国の調査団が竹島を調査しに来るという情報を聞いて、海上談判をするために海上保安庁の巡視船に乗って来て韓国の艦艇に会ったが、波が荒くて談判はできずに帰って来た。二人は16日に竹島を視察する予定……」
 
 
左の上と下が1953年10月15日に韓国山岳会が独島の砂利浜に設置した領土標石の前面と裏面。
右側の上は 2005年8月15日に慶尚北道が修復した標石で、下は2008年7月30日にこの標石を慶尚北道が撤去した後の姿だ。
 
 
 
 

 
 
 放送を聞いた調査団は、改めて自分たちの任務が非常に重いことを実感した。13日に鬱陵島に帰って来た調査団は船酔いでダウンしていた。調査団に与えられた独島調査の航海日程は十日間だったので、いつまでも時間を無駄にすることはできなかった。このため、14日の夜明けに再び独島行きを敢行した。しかし、13日の航海が非常に大変だったため、鬱陵島から同乗した警察署長など何人かは「行かない」として搭乗者数が減った。
 
 1014日未明1時ごろに鬱陵島を発った905艇は、530分ごろに独島周辺に到着した。そして二隻のボートを下ろし、今の東島の砂利の浜に調査団員たちを上陸させた。砂利浜で韓国山岳会員たちがまず最初に見出したのは、カモメと、日本の公務員たちが打ちこんでいた日本領土の標柱、そして1950年にチョ・ジェチョン慶尚北道知事が設置した「独島遭難漁民慰霊碑」だった。独島に上陸した日本の公務員たちは、1947年に朝鮮山岳会が設置した領土杭は撤去したが、慰霊碑には手をつけなかったのだ。韓国山岳会独島調査団の一員として参加したキム・ハンヨン写真技師も独島に上陸した。韓国山岳会員たちは、まず日本領土標柱に太極旗を結びつけて写真を撮った後、鬱陵島から連れて来た作業員を動員してこれを抜き取り、905艇に移して積んだ。キム・ハンヨン技師は、標柱を抜き取る歴史的な場面をレンズに捉えた。
 
 そして、キム・ジョンテ氏を先頭に、朴教師の助手たちが竹のポールを三本ずつ持って東島の岩壁に沿って登り始めた。彼らはぐっと突き出た変曲点にポールを打ちこんで立て、次の場所に移動してまたポールを立てた。朴教師は、砂利浜にトランジット(転鏡儀)を立ててスタディア(stadia) 測量法を使って彼らが立てたポールを見ながら距離と角度を測定した。
 
(続く)
 
 
 
<蛇足>
 巡視船の名である「ながら」は、韓国語では「出ていけ」という意味になります。だから海上保安庁はわざわざこの船を選んで派遣した? まさかね。
 
 

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