| [発掘公開] 1953年、独島を初めて測量したパク・ピョンジュ先生 [新東亜] 2009-01-23 (続き) 政府の支援と予算で独島の調査 このような事実が報告されるや、平和線を宣布した政府は対策を用意しなければならなかった。しかし戦争で多忙であったから、1947年に独島を調査した朝鮮山岳会の後身である韓国山岳会にその仕事を任せることになった。韓国山岳会に独島領有権を明らかにする措置を取って韓日会談に備えるために独島を調査してくれと言ったわけだ。韓国山岳会は政府から予算の支援を受けて独島と併せて鬱陵島も調査することとし、鬱陵島・独島学術調査団を編成した。 朴先生が保管して来た資料の中には、この調査に使われた予算を明らかにするものも含まれている。韓国山岳会は、政府予算2,957万9,000ウォンに韓国山岳会会費300万ウォンを加えた3,257万9,000ウォンで鬱陵島・独島学術調査を準備した。政府では文教部と外務部、国防部、商工部、公報処が後援した。テーマが重大であるだけに、韓国山岳会は各分野の最高の専門家を投入することにした。 地質、鉱物、地形、測地、動物、植物、水産、海洋、農学、林学、医学、歴史、地理、考古、方言、民俗、社会経済、報道、文人などで調査班を作り、ここに韓国山岳会の会員であるその分野の専門家を入れようとしたのだ。この中で最も重要なのは、独島の実体を示してくれる「測地(測量)班」だった。 1952年は戦時であったため、ソウルにあった大学は全て釜山に下っていた。韓国山岳会は、後に建築家として名を上げるソウル大学キム・ジュンオプ教授(建築科、故人)と漢陽大学のパク・ハクジェ(土木科、故人) 教授を測地班に選抜した。しかし、実際の測量には不慣れだった二人の教授は、釜山工業高校の土木科長兼教員であるパク・ビョンジュ氏を連れて行こうと言った。 測量専門家として独島調査団に参加 こうして朴先生は韓国山岳会に加入して会員となり、最も重要な独島の測量を引き受けることになった。朴先生は日本で測量技術を学んだ。1925年に釜山で生まれた彼は、日本にいた姉の計らいで1941年に渡日、官立神戸工業専門学校夜間部土木科に通いながら昼は測量設計会社で働いた。1945年に帰国してからは鉄道局に勤めて測量設計業務を行い、1948年に釜山工業高校土木科教師になった。 6・25戦争が起こると、国連は韓国復興団(UNCRA)を作って多様な支援をした。この時にUNCRAから最新の測量装備の支援を受けたのが、整った学校施設を持っていた釜山工高だった(釜山工高は、その後釜山工業専門学校を経て釜山工業大学になったが、1996年に釜山水産大学と合併して釜慶大学となった)。 朴教師と二人の教授は偶然のきっかけで互いを知ることになる。1952年の春、チョ・ビョンオク、チャン・ミョン博士が率いる忠武公記念事業会は、アメリカ・ロックフェラー財団の支援金でソウル・スユ里に忠武公李舜臣記念公園を作るという計画を立てた。公園を作ろうとすれば現場測量からしなければならない。事業会はキム・ジュンオプ教授、パク・ハクジェ教授とパク・ビョンジュ教師に基礎調査を頼んだ。そして三人は警察の同行を得て民間人立ち入り禁止地域だったソウルのスユ里一帯を調査して帰って来た。こういう縁があったから二人の教授はすぐに朴教師を推薦したのだった。 弱冠27歳にして国家的に重要な独島を調査することになったことに朴教師は大きく鼓舞されたが、すぐに苦悩に陥った。測量は一人でできる仕事ではないからだった。誰かが測量のポールを持ってくれなければ距離と角度を測ることができないが、教授たちにそれを頼むことはできなかった。 この悩みは偶然なことから解消された。キム・ジュンオプ教授がイタリア・ベニスで開かれる国際芸術家会議に参加することになったのだ。キム教授が出張を理由に不参加を表明すると、パク教授も「それなら私も抜ける」となり、朴教師は測地班の班長になって、同じ学校の土木科の先輩教師であるキム・キバル氏を調査団に引き入れた。 7月に始まった調査団の編成は何回も修正され、9月に確定した。1947年の朝鮮山岳会の調査の時には海岸警備隊が船を提供したから、今回は海軍が船を提供してくれることが期待された。しかし、この時は戦争中だったため海軍は米軍の統制を受けていた。独島領有権をめぐる韓日の対立をよく知っていた米軍事顧問団は、海軍に船を提供するなと指示した。結局、交通部海運局所属の燈台巡視船である「ジンナム号(305t)」が動員され、調査団38人を乗せて9月17日午前10時20分ごろに釜山魚市場の波止場を出発した。海軍は船を提供しなかったが、国防部が後援する行事であるためジンナム号に対する統制を引き受けることにした。海軍は「当然に」ジンナム号の全日程を米軍に通報した。 「私の歴史は記録され始める」 翌日の朝、ジンナム号は鬱陵島の道洞港に入港し、鬱陵警察署長の出迎えを受けた。そして、9月22日の夜明け5時30分に道洞港を出航して独島に向かった。朴先生は、釜山で船に乗ったときから日記形式でメモを書き始めた。朴先生が作成した9月22日付けメモには、「今日から私の歴史は記録され始める」という言葉が書かれていた。 彼のメモによれば、調査団員たちは船酔いに苦しんだと言う。そして、誰かが「独島が見える」と叫び、船室で横になっていた調査団員たちが甲板に上がって独島を眺めた。ところが、しばらくすると物凄い音とともに戦闘機4機が飛来して独島を爆撃し始めた。朴先生のメモ帳には「独島から2km離れた所に船が到着した時、4台の飛行機が飛んで来て独島を25回爆撃し、私たちの船は午後12時40分に航路を転回して午後6時ごろに鬱陵島に到着した。」と書かれていた。 彼の回想だ。 「戦闘機のように見える飛行機が落とした爆弾が独島に当たると大きな火花が散り、海に落ちれば大きな水柱が上がった。船酔いに苦しんで独島が見えるからと甲板に上って来た私たちは、その光景に色を失った。私は自分がすべきことを悟った。腕時計をつけていたが、揺れる船と吐き気、そして爆撃のために時計を見る余裕がなかった。そのとき洪鐘仁調査団長が、私たちの船の位置を確認しろ、と言った。 当時、私は、学校で音を聞いて距離を推算する「音測」の講義もしていたので、音測能力を持っていた。独島に爆弾が落ちて火花が散れば注意を集中して数字を数えたが、20を数えたら「ドカン」という音が聞こえた。私は1秒に三つを数えたので、20を数えたなら6秒を超えたことになる。音は秒速340mで伝わるから、6秒なら2040mと言う計算が出る。そして羅針盤を見れば、独島が北東方面にあるので、後日、調査団は独島の南西方2kmの海域に接近した時に4台の戦闘機が独島に25回爆弾を落とすのを目撃した、という結論を下すことになった。」 まことに異常なことだった。海軍は調査団を乗せたジンナム号がいつ独島に到着する予定かを前もって米軍に知らせた。ところが、ジンナム号が独島に到着する時間に正確に戦闘機が飛んで来て独島を爆撃した。朴先生は、「この爆撃に驚いたジンナム号の船長は直ちに釜山にある海軍本部へ無電を送ったが、応信は来なかった。」と証言した。 爆撃で混乱の渦中だったが、朴教師は「夾角法」によって独島で一番高い西島の高さを略測した。彼は、腕をすっと伸ばした時、自分の目から手先までの距離が61cmということが分かっていた。そして手先に持ったボールペンの根元を海が見えるところに立て、ボールペンに西島の頂上がある地点を表示した後、その高さを測った。高さは4cmと出た。彼の腕の長さ61cmがジンナム号から西島(独島)までの距離 2kmなら、ボールペンで測定した4cmは 130mという計算が出る。釜山を離れる前、彼は日本の資料で独島の頂上(西島)の高さが海抜115mと言う記録を見たことがあった。115mと彼が目測した130mはおおむね似ている。彼は、ジンナム号が独島から2kmほど離れた場所で独島爆撃の場面を目撃した、というより確かな判断を持つことになった。 (続く) |
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