| 「大韓帝国勅令の石島は独島 口述録発見」 KBS 2017/10/19 「鬱陵全島と竹島、石島」を鬱陵郡の所轄区域にするという1900年大韓帝国勅令の石島が独島という主張を後押しする資料が発見された。キム・ヨンス東北アジア歴史財団独島研究所長は、独島の名称が「石島-トクソム(石島/独島)-独島」と変化したという事実を立証する日本人の口述録を島根県総務部所蔵の資料で確認したと19日明らかにした。 大韓帝国勅令第41号第2条の内容は、「郡庁の位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」であるが、日本政府は石島が独島という主張を証明する文献がないという立場を堅持してきた。しかし、我が国では旧韓末に鬱陵島に移住した多くの全羅道の人々が石でできた島を「トルソム」あるいは「トクソム」と呼んで、これを漢字で書いたものが「石島」だったと主張している。 このような状況でキム所長が探した口述録は、1953年7月11日、漁師であった奥村アキラの発言を日本外務省アジア局第二課が記録した文献である「竹島漁業の変遷」だ。鬱陵島で生活したことがある奥村は、「当時、朝鮮人はランコ島を独島といった。日本人と話す時はランコ島といった」と語った。 キム所長は、「日本人の口述によれば、日本人は独島を竹島よりはランコ島と呼んだ」とし、「日本人も独島とトクソムを同一に把握したという事実が現れて、トルソムートクソムー独島という音韻変化説が力を得ることになった」と主張した。彼は続けて、「島根県東京事務所職員が現地に行ったり関係者の意見を聞くなど苦心の末に整理した」という口述録の解題を紹介して、「日本政府が生産した文書という点でより一層意味がある」と説明した。 キム所長は、解放直後に国内で創刊された日刊紙「漢城日報」の1948年6月13日付にも「独島は私たちの島、原名はトルソム」という題名の記事が載ったと明らかにした。この記事は、独島に対して「本来の名前はトルソムであるが、以後誤って伝わって松島またはトクソムに改称されたという」と説明している。 <コメント> えーっと、紹介しておいて何ですが、キム所長が何をおっしゃりたいのか、正直分からない。ある日本人が、「当時、朝鮮人はランコ島を独島といった。日本人と話す時はランコ島といった」と述べたことが「石島は独島であることの証拠だ」と言いたいという気持ちだけは分かりましたが。 画像追加 1948年6月13日漢城日報「独島は我々の島、原名はトルソム(石島)」 |
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自分が気になったのは、ラスト3行の『漢城日報』の件です。1948年6月13日の紙面のイメージ画像をネットで見つけましたので、URLを貼っておきます。
http://webviewer.nl.go.kr/imageviewer_web/imageviewer.jsp?control_no=CNTS-00069170739
ところどころ文字が滲んでいたりして記事が読みづらいですが、題名には「(独島の)原名はトルソム(石島)」としっかり書いてありますね。1948年時点で、「独島=石島」説は韓国社会の中ではそれなりに存在感があったということでしょうか。
2017/10/21(土) 午後 9:46 [ nob*7*84 ] 返信する
とりあえず画像を追加しておきますね。
2017/10/21(土) 午後 10:50 [ Chaamiey ] 返信する
もっとも、石島が誤って伝わって松島に変わったとも書いていますから、内容の信憑性には疑問が大有りですけどね。
1950年前後の時代には、独島の語源として「甕(トク)の島」説や「孤独な島」説もありましたから、「石の島」説はそうした数ある候補のうちの一つだったのでしょう。
そして、韓国政府はその中から最も都合の良い「石の島」説を採用した、と。
その後は他の説については完全無視、と。
・「甕(トク)の島」説
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a.html
>「独島=ドクソムの概観」
>島の形がトク(甕・かめ)のようだとして、普通、「ドクソム」と呼ばれたところだ
・「孤独な島」説
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/12/blog-post.html
>3 独島の名称
>東海の真ん中に孤独に立っている という理由で、このように命名されたようである。
2017/10/21(土) 午後 11:21 [ nob*7*84 ] 返信する
黒幕をもう一人見つけました。1948年という時期に、誰がこの妄想文学を綴ったのかを知って謎が少し解けました。
「漢城日報」は、 1947年8月から9月にかけて、鬱陵島と「獨島」について記事を連載しプロパガンダを行っています。
dokdo.mofa.go.kr/jp/pds/part_list03.jsp
最初の記事は、Chaamieyさんが、「"心眼"で読む韓国の古新聞」として2010年12月に下記で紹介なさっています。
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/12/1895-knowledge-necessary-for-all.html
この「漢城日報」というのは、1946年2月26日にソウルで創刊された日刊新聞で、社長が、安在鴻でした。気になるのは、この安在鴻社長よりも、主筆の名です。なんと、史学者として見覚えのある「李瑄根」です。
2017/10/22(日) 午後 4:12 [ 小嶋日向守 ] 返信する
なお、漢城日報というと、明治二十七年(1894)一月に、安達謙蔵が設立した新聞社の方が日本では知られていますが、これは別のものです。また井上角五郎の「漢城旬報」「漢城周報」とも名称が似ているので注意が必要です。
まず、安在鴻ですが、
安在鴻(1891~1965)は、1950年朝鮮戦争時に入北後、在北平和統一協議会最高委員となり、1965年平壌で死去ということですが、
kotobank.jp/word/安在鴻%28あんざいこう%29-1502581
1950年9月21日に拉致されて、1965年3月1日に死んだとも伝えられています。
encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0034973
2017/10/22(日) 午後 4:15 [ 小嶋日向守 ] 返信する
さて問題の「李瑄根」です。名前を見て、びっくりです。彼は、後になって、李奎遠(于山島とは鬱陵島の異名に過ぎないと知っていた)の『欝陵島検察日記』という史料を見つけた人物です。史料を解読したのは良いものの、内容を再構成してしまって肝心な部分を隠蔽しているあの、「李瑄根」氏とは、いやはや、恐れ入りました。史学者の李瑄根なら、1948年に石島うんぬんのファンタジー記事を書いても何ら不思議はありません。
参考記事
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56273050.html
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2015/07/question-about-lee-gyu-wons-1882.html
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2015/07/1882-may-9-lee-gyu-won-sails-around.html
李瑄根の出生日は、1905年5月12日ですので、日本の竹島に関しては、殊更に逆恨みしたのかも知れません。後に大邱の嶺南大學總長として、独島学なる妄想研究を指導した張本人です。
2017/10/22(日) 午後 4:26 [ 小嶋日向守 ] 返信する
この記事は、李承晩による竹島の不法占拠を、工作員の宣伝記事を根拠にして正当化する悍(おぞま)しいものです。茶阿弥さんの2012/5/14(月)の新聞記事紹介には、
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/54668982.html
朝鮮日報の記事に、『漢城日報』について、南朝鮮の「過渡政府の準機関紙である」とはっきり書いてありました。安在鴻や李瑄根が、李承晩の宣伝部員であったことを隠していないわけです。
それにしても、社長の安在鴻が、北朝鮮に拉致されたことによって、漢城日報が廃刊になったというのも呆れます。日本で、一人の人間を拉致しただけで新聞社が無くなるでしょうか。朝鮮に何らかの変革をもたらすのは、議論や理屈ではなく、常に、暴力と拉致によってしか、変革されない国なのだと分かります。竹島問題も、法理や議論では、埒が明かない相手です。
2017/10/25(水) 午前 0:29 [ 小嶋日向守 ] 返信する