日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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 この文書は1693年に安龍福拉致事件に関連して鳥取藩が幕府に上げた書類で、徳川幕府が鳥取藩の大屋・村川一族に発給したという「鬱陵島渡海免許」に関する鳥取藩の説明が記述されている。
 
備忘録
伯耆国米子の町人村川市兵衛と大屋九右衛門が竹島に渡海し始めたのは、1618年に安倍四郎五郎の斡旋で渡海免許を受け、その時からこれら二人が将軍の拝謁を許諾されたことに由来します。
(1)竹島に渡海するのと関連した朱印状はありません。 松平新太郎が伯耆国を治める時、渡海を許諾する奉書をくれました。その写本を提出します。
(2)竹島に渡海する船に将軍の紋章を標識とすることができるような許諾を受けたかどうかは明らかでないが、この二人の先祖代々から今に至るまで使っています。何年か前に竹島に渡っていった船が朝鮮国に漂着した時、将軍の紋章を標識として使っていたので日本の船であることが明らかになって、対馬に送還されて米子に戻ることになった事件がありました。
 (3)これら町人が江戸に行くのは45年ごとに一度で、一名ずつ交代で行きます。 江戸に行けば寺社奉行所に斡旋を要請して、拝謁の許下が出れば時服を下賜されるといいます。以上 (18)
 
(18)    
伯耆國米子町人村川市兵衛大屋九右衛門竹嶋江渡海始候儀元和四年阿部四郞五郞殿御取持渡海被遊御免其節より右貳人御目見被仰付候事
右嶋江渡海付御朱印無御座候松平新太郞伯耆國領知之節渡海之儀付被成御奉書候則寫懸御目候
右嶋江渡海船御紋之船印御免被遊相立候儀不分明候得共右貳人先祖より至于今相立申候先年竹嶋江渡海之船朝鮮國江流着候節御紋之舟印立候付日本之船見知申對馬國江送越米子江罷歸候由御座候
右町人御當地江罷下候儀五年壹度宛壹人替罷越候其節寺社御奉行衆江御案内御目見之儀奉願御目見被仰付以後時服拜領仕由
以上
 
 
この史料は、大屋・村川一族の鬱陵島渡海と将軍拝謁の件に関する幕府の問い合わせに対する鳥取藩の返事が記述されているものだ。まず、「鬱陵島渡海免許」に関して、鳥取藩は、朱印状はないが1618年に渡海を許諾する奉書を受けたとし、その写しを提出するという内容を文書に書いている。また、大屋と村川が何年に一度江戸に来て誰の斡旋で将軍に拝謁するのかについての問い合わせに対する返事では、4~5年に一度ずつ二つの家が交代で江戸に来て寺社奉行所の斡旋で将軍拝謁を実施すると書いている。以上のような内容を参考にすれば、幕府の関心事項を次の通り整理することができる。
①大屋と村川が鬱陵島に渡海することになった根拠
②大屋と村川が渡海する時に将軍家の紋章を標識としたのかどうか
③二つの家が将軍拝謁を誰の斡旋によってするのか
この三つはいずれも大屋と村川が鬱陵島に渡海して漁撈活動を実行したことに対する法的な根拠を尋ねるもので、誰の許諾で鬱陵島に渡っていって漁撈作業をして、将軍に拝謁するというが誰がそれを斡旋するのかに幕府の関心が集中していたことが分かる。このような幕府の問い合わせに対して、鳥取藩は、鬱陵島に渡海することになった法的な根拠として1618年に幕府の老中が発行した奉書の写しを証拠書類として提出した。また『竹島考』でもこの奉書は1618516日に作成されたと記録されている。
「鬱陵島渡海免許」の奉書は永井信濃守尚政、井上主計頭正就、土井大炊頭利勝、酒井雅楽頭忠世の名義で発行された。だが、下に提示した1618515日付老中奉書(19)を見れば、「鬱陵島渡海免許」とは全く違う署名が記載されている。
 
姫路城の男山の石垣を上げて門を多数作りたいという要請を受けました。それに対して当然と考えられると言われたので、そういう心掛けで進めてください。謹んで申し上げます。
1618
安藤對馬守 (重信)()
土井大炊頭 (利勝)()
本多上野介 (正純)()
酒井雅楽頭 (忠世)() 
本多美濃守殿 (忠政)
御家臣御中
 
 
(19) 譜牒餘録」 上 p946
路之御城,男山之方石垣御上候而多門作被成度之由承候右之段申上候處, 被思食候間其御心得可被成候 恐謹言
 (元和四年)
  五月十五日       安藤對馬守 (重信) 書判
              土井大炊頭 (利勝) 書判
                    本多上野介 (正純) 書判
酒井雅樂頭 (忠世書判
本多美濃守殿 (忠政)
 御中
 
 
 
<表1-1 16185月に在任中の老中
姓名    在任期間
本多正純   1616-1622
安藤重信   1611-1621
土井利勝   1610-1638
酒井忠世   1610-1634
 
上のように、一日前に作成・発行された老中奉書に書かれている本多正純と安藤重信の署名が「鬱陵島渡海免許」の奉書には存在しないのだ。それは、この奉書が1618516日に作成・発行されたのではないということを意味する。特に、「鬱陵島渡海免許」奉書に署名している井上正就永井1622年に老中に任命されていて、このような事実関係を考慮するならば、「鬱陵島渡海免許」奉書というものは1622年以後にこそ作成されることができるものだ。
一方、日本では「鬱陵島渡海免許」の奉書が1624年あるいは1625年に作成されたものという見解もある(20)。だが、このような見解もまた適切ではない。なぜなら、1623年に老中に任命された阿部正次が1626年まで在任したためだ。それだけでなく、1623年に鳥取藩主である池田光政が「元服」と呼ばれる成人式を経たためだ。光政は成人式の後に当時の将軍である徳川家光の「光」という字を下賜されて「松平光政」という官名を使うことになって、同じ年に「従四位下侍従」に叙任された。上に提示した姫路城修理工事についての老中奉書でも分かる(20)ように、老中奉書の受信者名には官職名が記載されなければならない。したがって、正式に官職の授与を受けた池田光政に発行する奉書に「松平新太郎」のような通称を使うのは有り得ないことだ。1624年以後に作成されたのならば、必ず受信者名に「松平侍従様」と記載されなくてはいけない。

また、「鬱陵島渡海免許」奉書に署名した永井政の場合は、1622年に老中に任命されたものの、老中として奉書に署名が可能になるのは石高が約2万5千石になる1623年以後だ(21)。したがって、「鬱陵島渡海免許」奉書を幕府が正式に発行したことが明らかとするなら1623年に作成されたものと見なければならない。

 

(21) 藤井讓治 「江戸幕府老中制形成過程の研究」(史科学叢書) 1990 p326。江戸時代の老中は大名としての身分基準の一つである石高が2万5千石以下の場合は例え老中として任命されても老中格に分類されて書への署名は不可能だった。

 

 

しかし、先に言及したように、1620年に鬱陵島で密貿易行為をした弥左衛門と仁右衛門に対する逮捕命令を下して、当時に竹島が鬱陵島であり朝鮮所属だということを明確に認識していた幕府が、1623年に大屋・村川一族に「鬱陵島渡海免許」を発行したというのは常識的に理解できないことだ。渡海免許に署名した四人の老中のうち井上と永井は1622年に老中になったので1620年の状況を知らないこともあるが、酒井と土井の場合は1610年から老中職にあったので、わずか3年前に発生した深刻な外交状況を忘却したと考えるのは合理的な判断ではない。したがって、「鬱陵島渡海免許」の奉書が作成されて発行された時期に関してはまだ解決しなければならない疑問点が残っていて、このような疑問点が解決する前にはこの奉書が正式に発行されたものだと決めつけることはできない。
次に、「鬱陵島渡海免許」はその発行時期の問題が解決されたとしても、内容的な面でも問題点を内包している。いわゆる「鬱陵島渡海免許」と呼ばれるのは、以前に米子から鬱陵島に渡って行ったことがあって、したがって同じように今回も渡って行きたいと申し込んで来たので許可するということが主な内容だ。この内容を分析すれば、第一に、幕府は大屋と村川が鬱陵島に渡って行くことを許可したのであって、そこで漁撈活動をしても良いと許諾したものではなかったということが分かる。一応、彼らの鬱陵島渡海目的は漁撈活動にあったと判断することはできるだろうが、幕府の渡海免許のどこにも漁労活動まで許可するという内容はない。したがって、彼らの鬱陵島漁業権を保障したものではないと見ることができる。
そして、先に言及したように、江戸時代初期の日本漁業は「村近海の漁場はその村に権利がある」という原則と、「遠海の漁場は共有する」という原則があった。鬱陵島は日本のどの地方から見ても近海漁場には該当せず、遠海の漁場に該当する。したがって、鬱陵島の漁場は一部漁業勢力に独占的に漁業権を付与するのではなく共有が原則だったということができる。また、漁場に対する権利及び漁業権の管理権限も幕府でなく該当地域の領主、すなわち藩主及び代官にあったので、「鬱陵島渡海免許」は鬱陵島に対する大屋・村川家の独占的な漁業権を保障したのではないということは明瞭な事実だ。

(続く)


<コメント>
(1) パク・ジヨンさんはあて名を「松平新太郎」とするのはおかしい、「松平侍従」と書くべしという御意見ですね。そんなこと言っても、竹島渡海免許だけでなくて竹島渡海禁止令にも「松平新太郎から伺いのあった・・・・」って書いてあるしなあ、後年の鳥取藩の文書でも先祖の松平新太郎のことを「松平新太郎」って書いているしなあ。本人が松平新太郎って名乗っていたから周りもそう呼んでいたんでしょ。大体、幕府が配下の大名に文書を送るときに「侍従」などという朝廷の官職で書くなんてことがあったのかな、ちょっと想像できないのだが。
 
(2) 疑問点が解決する前にはこの奉書(竹島渡海免許)が正式に発行されたものと決めつけることはできないのだそうだが、そんなこと言ったって、竹島渡海禁止令には「先年松平新太郎が因州伯州を治めていたときに伺いのあった伯州米子の町人村川市兵衛と大屋甚吉が竹嶋へ渡って今まで漁をしていたのだが、今後はダメよ」というふうに書いてあって、松平新太郎に許可を出していたことを認めているし、大谷・村川の言動もちゃんとした許可があったことを前提としたものばかりですよ。

(3)「鬱陵島渡海免許は鬱陵島に対する大屋・村川家の独占的な漁業権を保障したのではないということは明瞭な事実だ。」と言ったって、大屋・村川が鬱陵島で独占的に漁を行って、幕府でも鳥取藩でもそれが何の問題にもならなかったという史実は変わらないしなあ。

 まあ、どういうけちをつけてもむだな抵抗ですよ。






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渡海免許についても、韓国人研究者が調べれば調べるほど、韓国側に不利になるだけなんです。
それじゃあ、韓国側には、現在の竹島に行ってよいという許可が出たことがあるんですか、ということでブーメランが自分の額に刺さることになる。

まあ、漢字もろくに読めない、参考出典も調査できない、日本の歴史知識もないというレベルなのですから、まさか、朝鮮の水宗祭祀を調べてみれば、「東海」も「独島」も併せて根拠を失うことになるなどとは夢にも思っていないのでしょう。
この調子で、どんどん研究して貰いたいぐらいです。 削除

2018/6/24(日) 午前 0:18 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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「水宗」と「東海」についてまた一言です。詳しくは、本ブログの
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56273050.html

リンク先のコメントを参照いただきたいのですが、簡略に説明します。
李氏朝鮮において、海上の国境を示す存在として「水宗(水旨)」がありました。
釜山と対馬の間の水宗が有名です。水宗は、三陟と鬱陵島との間にも存在しました。
鬱陵島検察(掃討)使を乗せた船が、鬱陵島に渡る際には、この「国境」である水宗を渡るお札(水宗牌)を国王から下賜されていなければなりませんでした。
鬱陵島検察使が、鬱陵島からさらに先の水宗を越える許可が出された記録はありません。
鬱陵島検察使には、現在の竹島に渡る許可証がなかったのです。 削除

2018/6/29(金) 午後 10:21 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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「水宗(水旨)」を司る祭神は、東海龍王の阿明です。これは朝鮮の国家宗教祭祀であり、明、清、李朝、日本に共通する東西南北の四神の内の神様です。

東海は、三国の東にある海の一般名称であり、固有名詞ではありません。日本海を東海と呼ぶのは、朝鮮に限られ、李朝にとっての「西海」は、明国にとって「東海」です。日本に於いては、太平洋が東海です。

現在まで、韓国で、「水宗(水旨)」を研究している学者はひとりも存在しないと思います。韓国側は、1882年の李奎遠の検察日記の水宗関連の史料をひた隠しにしています。

昨年NHKが、珍しいことに朝鮮の海神信仰に関して、ある番組内で言及していました。
うがった見方かもしれませんが、それは、朝鮮における海神信仰が、国家による龍王祭祀ではなく、庶民・漁民による、媽祖信仰であったと誤解させる内容でした。 削除

2018/6/29(金) 午後 10:26 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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はやぶさ2のニュースにも関連しますので、コメント追加します。

たしかに華僑から伝わった「媽祖信仰」というのが朝鮮の庶民にあったことは事実ではあるのです。 日本においては、それは、オトタチバナヒメであり、また竜宮城の乙姫さまは、龍王の夫人とも目されたので、海神は女神でもあるのですが、本来は、東海龍王という男神なのです。
ヤマトタケルノミコトの剣を奪おうと考えた東海龍王が起こした嵐に対して、弟橘媛が海に身を投げて嵐を鎮めた伝説があります。東京(江戸)湾の古来の名称は、弟橘媛の袖が流れ着いた事にちなむ、「袖ヶ浦」でした。横浜市、江東区、習志野市、袖ヶ浦市に「袖ヶ浦」の地名があり、船橋市の「海神」は駅名になっています。 削除

2018/6/29(金) 午後 11:21 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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そのテレビ番組というのは、2017年11月3日放送の
『歴史秘話ヒストリア』 沖ノ島 ~日本 はじまりの物語~
で、45分の番組の22分を過ぎたあたりから、
韓国人考古学者の禹在柄氏による、全羅北道扶安郡辺山面格浦里の竹幕洞祭祀遺跡の紹介場面になります。
「朝鮮半島の西海岸にある『竹幕洞遺跡』、沖ノ島と同様の海の安全を祈る場でした。」
「ここからは、百済や中国の品が大量に出土しています。沖ノ島に捧げられたものとよく似た倭人が作った石製品もあります。倭人がここで祭祀を行った証です。」
続いて、竹幕洞遺跡近くの漁師ジョン・ドンオクさんの話
「風と波を司る海の女神様です。」
「この海は荒れると波が強く、とても危険なんです。此処で祈らずに海に出ると遭難してしまうことだってあるんで、だから私たち漁師は、とても熱心に祈りを捧げて来たんです。」
映像は、お堂(水聖堂)の内部に飾られた女神の絵を映します。この女神のイメージは、まさに媽祖そのものです。そして、ジョン・ドンオクさんの夫人らしき女性が、岩石を積んで作った須弥山に向かい、手掌を合わせ投地して伏し拝む様子が映ります。 削除

2018/6/29(金) 午後 11:37 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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動画は、まだ検索すればネット上にあります。

NHKスペシャルなどで、竹島問題を取り上げるべきだという視聴者の多くの声には、一切耳を貸そうとしないために、在日の巣と揶揄されるNHKですから、かなり偏向しています。つい先年まで、「日韓が領有権を主張する日本海の竹島(韓国名・独島)問題と言っていて、やっと「島根県の竹島」と表現をあらためた前科がありますから、この番組でも、御多分に漏れず、朝鮮半島南部が、かつて倭人の国土であったことを、ひたすら誤魔化しています。倭人の国土は、古代から朝鮮半島を含まずに、現在の日本列島に限られるとするイメージに拘泥する姿勢です。
「ヤマト政権が貪欲に」とか、朝鮮半島の鉄を通じた国を超えての交流が、「日本の夜明けを育んだ」と、時代遅れの歴史観を丸出しにして、しかも耳障りなバック音楽を大きく被せる演出のおぞましさは相変わらずです。困ったものです。 削除

2018/6/29(金) 午後 11:49 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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パンパカパーン!!。凄い画像を皆様にお見せできることになりました。
画像は、二枚あります。私にとっては、先月発見した『萬歳報』の画像以上にインパクトのあるものです。韓国側が公開していない、李奎遠の『鬱陵島検察日記』の画像の一部です。日本初公開となります。というより、韓国内でもこれほど見やすい画像は発表されていないはずです。
画像を見ていただく前に、基本的な説明をします。
李奎遠の『鬱陵島検察日記』は、田中邦貴さんのサイトにあります。
www.tanaka-kunitaka.net/ulleungdo/prosecution/
素晴らしい解像度の画像で、頁数にして34頁分あります。
しかし、この史料には、韓国が隠している27頁分の別画像があるのです。田中さんのサイトにあるのは、全画像の56%に過ぎません。先日のコメントで、私は、韓国がひた隠しにしていると書きましたが、韓国人たちが、その重要性を認識して隠匿しているというより、重要性を認識できないために隠しているのかもしれません。 削除

2018/7/2(月) 午後 3:23 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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この史料の隠匿と改竄には、竹島侵略の張本人である、李承晩のブレインであった李瑄根が関わっています。公開されているテキストは、この史料の発見者である李瑄根によって都合良く書き換えられているのです。田中さんのサイトにあるテキストがそれです。
李承晩の宣伝部員であった安在鴻や李瑄根については下記参照
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57884578.html

公開されていない部分と公開されている部分を読み比べると、李奎遠という人物が、いかにも朝鮮知識人らしく、国王への報告書を捏造改竄していることが判明します。
李奎遠は、于山島とは、鬱陵島の別名であると考えていました。鬱陵島に上陸したときに、「わぁーい。鬱陵島だ! やっと于島についたんだぞ」と喜んでいます。このように、李奎遠の検察日程が正確に追跡できることによって、鬱陵島検察使の対象が、島根県の竹島とはまったく関係がないことや、国家宗教として水宗・東海龍王の祭祀をしていることなどが証明されます 削除

2018/7/2(月) 午後 8:07 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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さて入手できているのは、27頁分の全ての画像データですが、分析がまだまだで、文字が読み取れる画像として、皆様に公開できるのはまだ二枚だけです。勿体ぶらずに画像をお見せするべきですが、なるべく多くの人に、「感動」と「理解」をして頂きたいので、もうすこし「前宣伝」にお付き合い下さい。今回、皆様にお見せできる部分は、すでに三年前に解読出来ていた部分です。この部分から話を始めるのが、もっとも話が分かり易いのです。これは、紙背文書の解読であり、ゲリー・ビーバーズ氏には、それをどう説明しても理解して貰えませんでした。田中さんのサイトには、「鬱陵島検察日記」という題字とリンク番号に続いて、
www.tanaka-kunitaka.net/ulleungdo/prosecution/
「※4月30日~5月9日の原本は別途掲示予定」と注意書きが最初に目立ちます。
不思議なことに、この注意書きをビーバーズ氏は、気が付かなかったと言うのです。半分は算用数字の日付で、後半を機械翻訳すれば、注意書きが理解出来ないとは考えにくいのですが、彼は分からなかったと言っています。(欧米人研究者とはそんなものです) 削除

2018/7/2(月) 午後 8:56 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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「別途掲示予定」とありますが、田中さんがいくら申請しても残りの部分は見せてもらえなかったと思います。田中さんは、裏書(紙背文書)の存在に気が付ついていないようです。したがって、注意書きにある、公開されていない部分の日付(4月30日~5月9日)は、間違っているので、あまり意味がありません。

お待たせしました。では画像をご覧下さい。
画像はモノクロですが、袋綴じの糸を外して、紙の裏側を開いて写真に撮ったものです。
解像度が低すぎて、文字が判読できなかったものを、背景を、ガウス拡散法で、画像処理して、文字が読み取れる水準に到達させました。
i.imgur.com/qaL4jJA.jpg
i.imgur.com/Mg9P6To.jpg
これは、船出する前の、お祈りの儀式が行われた四月二十七日の部分になります。 削除

2018/7/2(月) 午後 10:18 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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今回お見せできた画像は、田中さんの画像では、下記の画像の左側の頁、
www.tanaka-kunitaka.net/ulleungdo/prosecution/05.jpg

「盤可容數百人其下有」と書かれている部分の裏書きです。続いて下記の右頁
www.tanaka-kunitaka.net/ulleungdo/prosecution/07.jpg
「不知貴問之事也。問曰、爾等」と書かれている部分の裏書きになります。

この二頁分を切り出して、拡大し、「盤可容」と「不知貴」などの見える側に書かれている墨書の文字を、画像処理で白く塗り潰します。
これで、裏書きの文字がかろうじて読み取れるようになります。
i.imgur.com/EOwf2nI.jpg
i.imgur.com/Mt2cHOi.jpg 削除

2018/7/2(月) 午後 10:24 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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これでも、一見しただけでは、何が書いてあるのかさっぱりわからないと思います。目を凝らして良く見て下さい。これと、
三年前に、私が、判読を朱書きで入れたものと、
i.imgur.com/Fo7dSGW.jpg
i.imgur.com/CvUlkIO.jpg

今回の画像を見比べて下さい。
i.imgur.com/qaL4jJA.jpg
i.imgur.com/Mg9P6To.jpg

紙背文書が確かに存在するという事が、誰にも分かって戴けると思います。 削除

2018/7/2(月) 午後 11:14 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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十日ほど前に拙者は、重要な史料を発見したことをコメントに書きました。ゆっくり研究して行こうと考えていましたが、科研費を貪った詐欺のような研究が横行している日本の現状を鑑みると、竹島問題の解決に向けた、正しい学問の発展のためには、この史料の発見というプライオリティを本ブログに早期に記録しておく必要性を覚えました。順いまして、取り急ぎ報告することに致します。

奎章閣所蔵の『照會』という史料で、請求記号は、奎 17823です。
表紙書名:各部去牒(第1冊), 照覆一, 照會ニ, 照會三(第2-4冊), 議政府各官廳來文(第 5-6冊), 各官廳公文原本(第7冊), 各府部院來報(第8冊)で、内容は、
1906年(光武10年)から1909年(隆熙3年)まで議政府から各部(度支部、軍部、內部、農商工部、外部、法部)と、各院(中樞院、表勳院など)に送信通牒、輪牒と各部の議政に上げた照會、照覆、報告、請願書、奏本などを綴じた本です。
この内の二冊目の九番目の文書がとりわけ重要です。 削除

2018/10/19(金) 午後 8:21 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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1903年3月20日の史料です。
「五嶽、五鎭、四海、四瀆의 應封山川 을 參酌磨錬함이 祀典과 관련된 所重한 일이라 議政府 로 稟禀處할 事로 本院에 서 奏下했으므로 原奏本을 別紙謄交한다는 照會 제一호。」

送受信 掌禮院卿金世基(1903年3月20日)→議政府議政李根命
発信元 掌禮院卿金世基(1903年3月20日)
宛先 議政府議政李根命
発信者 掌禮院卿金世基
発信日 1903年3月20日
受信者 議政府議政李根命
引張議政印、參政印、參贊印、掌禮院卿之章、掌禮院印。

大韓帝国の宮内府には、掌礼院という役所がありましたが、その機関のトップの金世基という人物が、議政府議政の李根命という人物に送った文書です。 削除

2018/10/19(金) 午後 8:33 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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地味な文書ですが、意味は、「天子が祭祠を過ごすときには天下名山大川の五嶽、五鎭、四海、四瀆に於いて、取り行わなければならない」という掌禮院卿金世基からの文書の件ということになります。この役所は、朝鮮王室の儀礼制度を伝統的に行うための役所であり、其処のトップが、大韓帝国皇帝が司る国家祭祀の在り方を伝統と基本に従った形式で催行する必要性を訴えた文書であると言えます。
これは、私がこの数年間、ずっと探していた決定的な証拠史料です。李氏朝鮮ではなく、開国した大韓帝国においても、しかも1903年の段階で、四海の海神祭を大韓帝国皇帝の祭祀として行っていたことを示す公文書ということになります。東海の海神祭は、朝鮮本土に於いてと鬱陵島に於いてまでしか、行われていなかったことを示すのですから、この史料によって、東海という名称を、日本海全体を示す解釈が不可能であることを証明するのみならず、大韓帝国が、鬱陵島以遠の島根県の竹島を領土にすることはもとより、大韓帝国の役人が、竹島を訪れていた可能性を宗教的・歴史的に完全に否定できる証拠となる多重の意味を持つ公文書だからです。 削除

2018/10/19(金) 午後 8:59 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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竹島の日の今月二十二日に、小惑星探査機の「はやぶさ2」が「リュウグウ」の着陸に成功しました。将来起こり得る天体衝突災害を防ぐ研究にも繋がる素晴らしい成果です。アポロ群に属する地球近傍小惑星の「リュウグウ」とは、竜宮城の「龍宮」に由来します。「竹島」と「龍宮」が重なったことで、いっそう印象的な到着でした。
自国の周囲にある四つの海を、東西南北の名を冠した海として、それぞれ四海神を祀る日中韓越の文化圏には、竜宮というものが古くから意識されていました。
それでは、朝鮮人にとって、東側の海の竜宮城はどこにあったのでしょうか。それは王妃を媽祖とする、東海龍王という海の神様の住む宮殿がある場所ということになり、韓国では、自国の範囲を規定する海の境界としての「水宗」がある海の底です。
まだ大院君が隠然とした力を持っていた1880年の朝鮮王朝実録には、水宗を越えて「火輪船」がやって来たことを不安な事件として記載しています。この水宗は対馬と釜山の間の水宗と考えられます。因みに、1882年の李奎遠らの水宗祭祀は、竹島の170㎞以上手前側でした。 削除

2019/2/25(月) 午前 0:23 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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