| (続き) 当時の朝鮮漁民の陳述を整理してみれば、風浪に遭って鬱陵島に偶然に遭難した彼らは、(1)島にアワビが多くて滞留して採取をしていて、(2)船が若干損傷を受けて修理した後に離れるといった。そして、(3)弓や鉄砲の種類はもちろん武器類は所持していなかったという。また、翌年の1693年にも鬱陵島で朝鮮漁民らと日本漁民が遭遇した記録が残っている。正にこれが安龍福拉致事件の原因になった鬱陵島出漁だ。このように、文献上で朝鮮漁民が鬱陵島付近の海域で漁撈活動をしたの1692年が最初であると見えるが、それ以前にも漁撈活動があった可能性を否定することはできない。 一方、鬱陵島近海漁場での日本側の漁業は、これまで、1620年代に徳川幕府から「渡海免許」を得た米子地方の大屋と村川が実施したアシカ猟が最初だと知られて来た。しかし、彼らより先に鬱陵島で漁業活動をした日本人がいた。1618年に出雲地方三尾関の馬多三伊(注12)ほか7人が鬱陵島出漁中に朝鮮に漂流したことがある。そして、1620年には密かに鬱陵島に渡って密貿易行為をした対馬の商人弥左衛門と仁右衛門という者が幕府の指示を受けた対馬藩の武士に捕えられて処罰された事実がある。この当時、幕府はいわゆる彼らがいう「竹島」が鬱陵島であることを明確に認識していただけでなく、朝鮮国の所属ということもはっきりと認知していた(注13)。 (注12) 又左衛門の仮借であるように見える。 (注13) 「通航一覽」(巻129) p511 「元和六庚申年, 宗對馬守義成, 命によりて竹島(朝鮮國屬島)に於いて潛商のもの二人を捕へて京師に送る」 このように、鬱陵島近海漁場で漁業活動を最初に始めたのは大屋と村川ではなく、彼らの他にも多くの人々が鬱陵島に渡って漁撈行為、さらには密貿易行為までもしたことが分かる。そして、彼らの鬱陵島渡海行為は全て不法であり、1620年を前後した時期の徳川幕府はこのような日本人たちの行為を摘発して処罰することさえした。このような経過を参考にすれば、17世紀初期に日本の漁民が鬱陵島に渡って行って漁撈行為をしたことは、当時の日本の国内法に照らしても不法だということが分かる。 だが、現在の日本政府は、1620年代初期に徳川幕府の許可を受けた米子の町人村川市兵衛と大屋甚吉がその後にも毎年鬱陵島に渡海し、その過程で独島でも漁業を実施したとして、独島に対する領有権を17世紀に確保したと主張している。1620年に鬱陵島に渡って漁撈をした弥左衛門と仁右衛門を処罰するように指示した徳川幕府がすぐ直後である1620年代初期に大屋と村川一族に「鬱陵島渡海免許」を発行したという日本側の主張は理解し難いのだ。 そして、幕府から「鬱陵島渡海免許」の発給を受けて鬱陵島に渡っていって漁撈行為をした大屋と村川一族の身分は、町人であって漁民ではなかった。彼らの正体はそれほど知られていないが、下記のような日本側史料によれば、彼らは運送業を運営した商人であったことを知ることができる。 (大屋)甚吉は米子に来てあちこちに渡海して運送業をした。元和3年(1617)甚吉が越後(注14)から帰帆するとき漂流して竹島(鬱陵島)に至った。島は隠岐の西北100里程度、朝鮮までは50里、周囲は10里程度であった。当時人家はなく、山海の産物があった。喬木、大竹が生い茂り、禽獣、魚、貝などが多かった。特に、アワビを採ろうと思えば夕方に竹を海に投げ込んで置いて朝これを引き上げれば、そのアワビが枝と葉についている姿はキノコのようで、その味もまた逸品だ。甚吉は情況を把握して米子に帰ってきた。 (注14) 今の新潟県の旧名 折しも幕臣安倍四郎五郎正之が検使として米子に来ていた。甚吉は直ちに村川市兵衛と共に竹島(鬱陵島) 渡海許可を斡旋することを懇請した。元和4年(1618)に二人は江戸へ行って安倍氏の紹介で請願を幕府に上げ、5月16日に渡海免許状を受けた。これが竹島(鬱陵島)渡海の始まりだ(注15)。 (注15)鳥取県編 『鳥取藩史』 第6巻 「事變志」 1971年 p466 上の内容を見れば、運送業をしていた大屋甚吉が1617年に東海を漂流して偶然に鬱陵島を発見することとなり、鬱陵島に海産物が多いことを知ることになった。鬱陵島について調査をした後で米子に戻った大屋甚吉は、村川と共にちょうど徳川幕府に代わって米子城に来ていた安倍四郎五郎に鬱陵島渡海許可を幕府に斡旋してほしいと要請した。これが大屋と村川が鬱陵島に渡っていくことができるようになった契機になった。したがって、大屋と村川は漁業勢力でなく商人であり、当時の日本国内漁業秩序によれば、彼らには当初から近海漁業はもちろん遠海漁業さえもする資格がなかった。 3)山陰地方民と鬱陵島渡海免許 大屋と村川の要請により、日本の幕府は1618年5月16日に下のような内容の「鬱陵島渡海免許」を発行したという。 伯耆国米子から竹島へ何年か前に船で渡っていったことがあるとのこと。したがってそれと同様に今回も渡航したいということを米子の町人村川市兵衛と大屋甚吉が申し込んで来たところ、将軍がお聞きになって異議がないとの仰せである。したがってその意を敬って渡海の件を許可する。謹んで申し上げる。 5月16日 永井信濃守尚政(印) 井上主計頭正就(印) 土井大炊頭利勝(印) 酒井雅楽頭忠世(印) 松平新太郞 殿 (注16) (注16) 従伯耆国米子竹島先年船相渡之由候然レ者如其今度致渡海度之段米子町人村川市兵衛大屋甚吉方申上付テ達上聞候之処不可有異義之旨被仰出間被得其意渡海之義可被仰付候 恐々謹言 五月十六日 永井信濃守 尚政 井上主計頭 正就 土井大炊頭 利勝 酒井雅楽頭 忠世 松平新太郞 殿 この「鬱陵島渡海免許」はその発行時期と内容において論議が多い文書だ。まず、発行時期と関連した問題点に対して調べれば、幕府が発行したという渡海免許は次のような経緯を経て発行されたと見られる。 1617年に大屋・村川一族の要請を受けた安倍四郎五郎が江戸に戻って幕府の老中に斡旋した結果、当時の将軍である徳川家光の許諾を得て老中4名の名義で1618年5月16日に鳥取藩主松平新太郎すなわち池田光政に発行したのだ。1617年は幕府の指示で鳥取藩主が交替させられた年で、幕府の直轄家臣である旗本安倍四郎五郎は鳥取藩主の交代を監視するために鳥取に派遣されていた。新藩主である池田光政が鳥取に転藩されたのは1617年3月6日であり、彼が領地である鳥取に初めて入るために江戸を出発したのは翌年の1618年2月だった。したがって、大屋甚吉が鬱陵島漂流から米子に帰ってきた時に鳥取地方を引き受けて治めていたのは安倍四郎五郎だっただろう。 だが、上で言及した経緯が事実ならば、大屋と村川は新しい領主が到着したにも拘わらず江戸に上がって安倍を媒介として幕府に請願したことになる。そして、このような一介の商人の請願を幕府が受け入れてその免許を新領主である池田光政に下したことになる。これに関連して、『竹島之書附』(注17)に載っている「1693年6月27日、松平美濃守に提出した文書(元禄六年六月二七日、松平美濃守殿江差出候書付之事)」にも同じ内容が記録されている。 (注17)『竹島之書附』は、江戸時代初期に幕府が鬱陵島への渡海免許を発行して、鬱陵島で日本人の漁業活動があったという日本側の主張の根拠になる史料の一つだ。作成者は文書の中に明記されていないが、対馬藩が作成した『竹島紀事』を参考にすれば、幕府の老中だった阿部豊後守の家臣である秋山惣右衛門であると推定される。だが、江戸時代に作成された原文書の出典、編集時期、編集原則などについてはこの資料だけでは分からない。そして文書の体裁や文章にぎこちないところが多く、文書自体に対する信頼性が非常に落ちると見られる。文書の中に出てくる地図、距離の問題に関しては他の史料との交差検討が必要と考えられる。 (続く) <コメント> いくつか、疑問が述べられています。一つは、「1620年に鬱陵島に渡って漁撈をした弥左衛門と仁右衛門を処罰するように指示した徳川幕府がすぐ直後である1620年代初期に大屋と村川一族に「鬱陵島渡海免許」を発行したという日本側の主張は理解し難い」ということです。幕府は竹島渡海を許可する前に既に竹島というのは朝鮮の鬱陵島だと知っていたのに、というわけです。 ですが、理解し難いと言ったって、現に出たものは今さらしょうがないでしょう。 パク・ジヨンさんがそういうことを言う根拠は (注13) の「通航一覽」(巻129) p511 「元和六庚申年, 宗對馬守義成, 命によりて竹島(朝鮮國屬島)に於いて潛商のもの二人を捕へて京師に送る」という記録ですが、↓こういうものですね。 これを見れば、冒頭本文では「竹島」の次に確かに「朝鮮国属島」と書いてはあるのだが、果たしてこれは元和六年時点での幕府や対馬宗家の認識だと断定できるのだろうか。『通航一覧』が編集されたのは幕末で、「朝鮮国属島」という言葉は注釈のようなものだから、編集時点での知識によって補充されたものという可能性もあるのではないか。それに、事件がどう処置されたのかも結局不明なので、朝鮮の属島に行ったことが問題になったのかどうかも分からない。 だから、この史料からパク・ジヨンさんがいうような疑問が必ず成立するとは言えないと思う。 次に、「当時の日本国内漁業秩序によれば、彼らには当初から近海漁業はもちろん遠海漁業さえもする資格がなかった。」と言ったって、現に大谷・村川はアワビなどを採って幕府にまで献上していてそれで何も問題が起きなかったのだから、今さらそんなことゆーてもしょうがない。大体「竹島渡海免許」ってのは特殊な状況に対応した特殊な許可ですからね。異例のものだから、そういうものだったんでしょ。 |
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竹島渡海免許発給は、本論文は1618年説、池内氏(新書)はさまざまな史料から1625年説が正しいとします(後説でしょう)。『扶桑録』などで、磯竹島の朝鮮領は確認されているとしています(池内新書50頁~)。とすれば、幕府はなぜ「竹島渡海免許」を発給したのか!? 解釈が難しい(まさか磯竹島と竹島が別島!?w)。
2018/6/21(木) 午後 10:09 [ Gくん ] 返信する
『扶桑録』のその記述は対馬藩家老と朝鮮通信使随行員との会話ですから、幕府の認識を直接に示すものとは言えないようですね。
2018/6/23(土) 午後 5:57 [ Chaamiey ] 返信する