2. 山陰地方民の鬱陵島での活動 1)山陰地方民の鬱陵島渡海の意味 (1)江戸時代初期の日本漁業の特徴 江戸時代初期の日本漁業の特徴は、まず、漁業生産が量的、地域的な面で以前の時代と比較して大きく発達したことが挙げられる。戦争がない江戸時代には、都市の発達と農業の発達によって水産物に対する需要が食料品、肥料用として増大していった。そして、このような変化によって各地の漁業が発達した。伝統的な漁村で漁獲努力が増大したし、技術革新のための努力も増加しただけでなく各地で漁村と漁業者が増加していった(注7)。 (注7) 日本近世の漁村社会の構造及び形成過程については、荒居英次 『近世日本漁村史の研究』 新生社1963 ; 網野善彦外 『塩業・漁業』(講座 日本技術の社会史 第2巻) 日本評論社1985 ; 後藤雅知 『近世漁業社会構造の研究』 山川出版社 2001 ; 伊藤康宏 『地域漁業史の研究 : 海洋資源の利用と管理』 農山漁村文化協会 1992 を参照 農業生産の発展は肥料として使われる乾燥イワシの需要を増加させたし、大阪の商人は江戸時代初期から相当の量の乾燥イワシを供給するために漁業を発達させるための努力を繰り返した。だから、乾燥イワシの生産において関東地方より先に発達した関西地方の場合、日本の紀伊地方と和泉地方の漁民の労働力と技術及び大阪商人の資本力で開発に成功した。関東地方の場合もこれらによって開発された。日本の漁業は高い漁労技術を保有していた紀伊地方と和泉地方の漁民が主力になって発達させ、全国各地の海岸に漁村を形成させた。 このように江戸時代初期には漁民と漁村が広く成立することになったが、これらが江戸時代の日本の政治体制である幕藩体制の中でどんな位置にあったのかを調べる。幕藩体制は、農村に対しては本百姓と呼ばれる直接生産者層を支配の基礎単位として、漁村でも同じ方法で支配体制を構成していた。江戸時代には耕地を持たない漁民は少なかったためか、領主の側も漁民に対する呼称として百姓という言葉と漁民という言葉を混用していた。 江戸時代は泰平の時期が続いたので、前の時代に漁民が持っていた軍事的な意味が薄まり、漁業と海運業の分化も進んだ。そのような時代だったために、漁民に対して領主は兵農分離政策が施行された後の農民のように、生業に邁進して租税と賦役を担当することを期待していたものと見られ、したがって実際にもそのような方向での支配秩序が整備されたと見られる。各藩の租税制度を調べれば、漁村内の漁民間の漁場占有利用関係が彼らの土地所有関係と一切不可分の形態で成り立っていた。各漁民の主要漁場に対する占有利用権と彼らが所有していた土地に賦課された租税額が関連している形態が領主の指示によったものか漁民の自主的な対応によったものかは明らかでないが、領主側から見るならば、不安定で把握しにくい漁業生産に対する租税を漁船や漁具を基礎にして取ること以外に、耕地、すなわち兼業関係にある農業生産量を基礎として取ることが便利だったものと考えられる。漁業だけでなく、一般的に兼業が多い村に対してはそれを勘案して租税徴収率を高く設定することが少なくなかった。このような形態は総百姓共有漁場制度(注8)のまた他の形態と見えるが、これは主な漁場の占有利用権を総百姓が共有してその権利の持分はそれぞれの租税額に比例する制度だ。 (注8)江戸時代の漁場占有利用権は、一般的に総百姓が共有するというものだった。このような総百姓共有漁場(村中入会漁場、総百姓入会漁場、村持漁場)は幕藩体制下で成立したと見られる。幕藩体制は直接生産者層の独立を推進して、それを支配の基礎とした。それがいわゆる本百姓だ(漁民の場合も身分は百姓であり、当時に耕地を持たなかった漁民は例外的に考えるほかはない)。本百姓は耕地を占有して正租を上納しただけでなく、一人の百姓として領主に賦役をする義務がある者でなければならない。したがって、商人の場合は百姓ではないので漁場に対する利用権がない。二野瓶徳夫 『漁業構造の史的展開』 御茶の水書房 1962 p3-16 参照 江戸時代には漁民と漁村が広範囲に形成されたと述べたが、それがどのように形成されたものかに対して考察して見る必要がある。まず、江戸時代の初期の漁民及び漁村はその大部分が前の時代から存続して来たもので、関東地方に比べて関西地方に多かったようだ。そして歴史の古い漁村であるほど支配する漁場が広く、江戸時代初期に新しく形成された幕藩体制中で再組織される時も、特別な事情がない限りそのまま維持された。 水産物需要の拡大に対応するための漁業の発達に伴う漁民と漁村の増加は、上のような既存の漁民及び漁村の存在を前提に成り立ったものだ。上で言及したように、関西漁民による関東漁業開発のように先進地域の技術と労働力が直接間接的に影響を及ぼして後進地域の漁民と漁村が形成され増加した場合も少なくなかっただろう。ただし、このような場合、後進地域には強力な伝統的漁民、漁村が少なかったために、漁民、漁村の形成過程で先進地域の漁民、漁村との間に紛争が発生することも初めには少なかったものと考えられる。しかし魚種のうちには回遊性の魚種もあって、漁場をめぐる相互関係は非常に広い範囲に及ぶ場合が少なくなかったために、水産物の需要が拡大したといっても、沿岸の居住民であろうと今まで漁業に従事したことがなかった農民が沿岸の海水面で漁業を始めることはできなかった。近隣先進地域の漁民、漁村がそれに対して反対したし、旧慣尊重を一番に挙げる領主側もそれを許可しなかったためだ。また、領主は先進地域の漁村からそれに相応する租税と賦役を徴収していたので許可をしなかっただろう。 だが、後進地域の漁民、漁村は、先進地域の漁民、漁村との紛争を繰り返しながらも、沿岸の居住民が自分の村の前の水面にある魚介類を採取するのは極めて当然のことだと考えることになったし、水産物に対する需要が増大すればするほどそういう考えは強くなることになった。このような沿岸地域居住民の行為に対して、先進地域の漁村は強力に抗議をしたし、領主に訴訟を提起したり法廷闘争まで続くことになった。 このような紛争が持続的に発生するようになると、すぐに領主側は、むしろ先進地域漁村を納得させたりあきらめるようにさせて漁民、漁村が増加することになれば租税徴収額が増加することになるので利益だという考えを持つことになる。このような過程を経て、江戸時代初期の日本漁業は「村の近海の漁場はその村に権利がある」という原則と、「遠い海の漁場は共有する」という原則の下に成立することになった。そして、該当地域の漁場に対する権利及び漁業権の管理権限は、中央政府である幕府でなく該当地域の領主、すなわち藩主及び代官にあった。 (2)山陰地方民の鬱陵島渡海の経緯 近世の時代の鬱陵島近海漁場での漁業に関連しては、朝鮮側の場合は15世紀以後の朝鮮政府の刷還政策によって、公式に記録されたものは現存しない。公式記録に最初に登場する鬱陵島漁業の関連記録は、安龍福が拉致される前である1692年度に日本から来た漁民らと接触した漁民53人に関することだ。これらについても、朝鮮側でなく日本側の記録に残っているだけだ。その記録によれば、彼らは朝鮮の「かわてんかわく(現在の釜山広域市嘉徳島と推定される)」(注9)の漁民で、「この島(鬱陵島)の北側に島があって、国主から命令を受けて3年に一回ずつアワビ採りに来ます。それで去る2月21日に漁船21隻で出船したが風で遭難し、5隻に乗った人数53人がこの島に3月23日に流れて入って来ました(注10)」と述べたという。 この朝鮮漁民の陳述をありのままに受け入れようとするなら、彼らは鬱陵島の漁場を狙って出船したのでなく、偶然に風浪によって遭難して鬱陵島に漂流したと見られる。だが、彼らの陳述は、「この島は公儀の免許を受けて毎年渡海する場所だ。どうして君たちが来ているのか?(注11)」という日本漁民の叱責に対する返事なので、単純に朝鮮漁民が弁解するために上のように答えたものと理解しなければならないだろう。したがって、彼らは鬱陵島での漁業を目的として渡っていったに違いないと見なければならないだろう。そして、このような朝鮮漁民の漁業活動がそれ以前からあったことなのかどうかは明らかでないが、陳述に見えるように3年に一度程度行われた可能性を完全に否定することはできない。 (注9) 『伯耆志』 「朝鮮国の内かわてんかわくの者と申候」 (注10)『伯耆志』 「此島北に当り島有之, 国主より三年に一度宛蚫取參候に付,二月廿一日猟船十一艘致出船候処, 遭難風五艘人数五十三人此島へ三月廿三日流著申候」 (注11) 『伯耆志』 「此島の儀従公義被遊御免毎年致渡海候。 何とて其方共參候哉」 (続く) <コメント> 江戸時代の漁村の形成過程などというえらくムズかしいところまで研究なさっているようだが、果たしてどういう意味があるんでしょうかねー。 |
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管理人さん!!オチがありそうなコメントですね。第4項と第5の結論部分に注目しています。注7文献で歴史学者網野善彦氏が出て来たのは意外でした。この方、下(農民など)から歴史像を構築する手法の学者で、一時期著作をいくつか読んだことがあります。
2018/6/19(火) 午後 10:18 [ Gくん ] 返信する
オチは非常に単純でして、大谷・村川の渡海事業にどんなケチをつけても、江戸時代の一時期、日本人が今の竹島を自由に利用していたという史実は何も変わらない、ということですね。
2018/6/19(火) 午後 11:02 [ Chaamiey ] 返信する
>Chaamiey さん
ああっ!まだ途中なのに、はやくも止めを刺してしまっては…!(笑)
2018/6/20(水) 午後 11:44 [ mam*to*o*1 ] 返信する
パク・ジヨンさんという人は、いかにも韓国人研究者ですね。
出典が、『伯耆志』になっていますが、『伯耆志』には、村川家のことが書かれてはいますが、この論文で引用されているような記述は見つかりません。
『伯耆志』は明治初年に成ったもので、活字本が国会図書館デジタルで読めます。
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885095
伯耆志 卷四 会見郡八です。
www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/kenkyuukai_houkokusho/takeshima04_01/index.data/05_a.pdf
「かわてんかわく」に関係するので重要ですが、いったい何の史料を見たのでしょうか??
原史料は、大谷家文書の『元禄六年酉四月朝鮮人召つれ参候時諸事控』のはずです。
その史料には、「ちやうせんかわてん国村之者と申候」とあります。
2018/6/21(木) 午後 3:47 [ 小嶋日向守 ] 返信する
原文の画像がネット上にはないので、確認できません。
「く」、「ら」、「じ」、のどれとも判読できる難読な、平仮名のようです。筆書きで字が続いて書かれていれば、「く」、「ら」、「じ」、のどれも似ています。
「かわてん国村(かわじ)之者」という判読もあれば、
sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/anhs-incident
「ちゃうせん国かはてんかわじの者と申候」というのもあります。
なお粤で、GTOMR氏が出典として「竹島渡海由来記抜書書」は明らかな間違いです。
dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/02/was-ika-shima-matsushima.html
竹島図説(文鳳堂雑纂)では、「カワテンカハラ」の「人氏」
4.bp.blogspot.com/-p4UfTEVZdCc/T6WfpH7KElI/AAAAAAAAAN0/b4Xlfvlubzc/s1600/text+8.jpg
2018/6/21(木) 午後 3:57 [ 小嶋日向守 ] 返信する
松浦武四郎によれば、「カツ テレ カハ ラ」。人氏は「人民」
田中阿歌麻呂によれば、「カワテンカワラ」。人氏は「人民」
dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2012/05/by-ken-kanamori-text-on-takeshima.html
なお、安龍福事件に関するスケッチがある、「因幡志」 筆記之部九は、画像があります。
www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-n.data/inabashi.pdf
それから、パク・ジヨンさんが推定している地名は、「加徳島」でしょう。嘉徳とも書くようです。対馬から見て、北西にあります。
i.imgur.com/urxkE7b.jpg
絶影島(タケジマ)と巨済島の中間に位置します。
2018/6/21(木) 午後 4:06 [ 小嶋日向守 ] 返信する
確かに『伯耆志』には出ていないらしいですね。
2018/6/21(木) 午後 8:57 [ Chaamiey ] 返信する
そうなんです。『伯耆志』というのは、間違いだろうと思います。韓国人の論文は、出典を確認しないで、どこかの論文から孫引きしたりするので信用できないのです。
wikiは、「恐れ乍ら」を「恐れ作ら」としているレベルですし。
パク・ジヨン論文:「朝鮮国の内かわてんかわくの者と申候」
ビーバーズ氏記事:「ちやうせんかわてん国村之者と申候」
パク・ジヨン論文:「此島北に当り島有之, 国主より三年に一度宛蚫取參候に付,二月廿一日猟船十一艘致出船候処, 遭難風五艘人数五十三人此島へ三月廿三日流著申候」
ビーバーズ氏記事:「此嶋より北に当り嶋有之三年に一度宛国主之用にて 鮑取に参候国元は二月廿一日に類舟十一艘出舟いたし 難風に逢五艘に以上五拾三人乗し此嶋へ三月廿三日に漂着、此嶋之様子見申候へは 鮑有之候間 致逗留 鮑取上けしと申候」
パク・ジヨン論文:「此島の儀従公義被遊御免毎年致渡海候。 何とて其方共參候哉」
ビーバーズ氏記事:「此嶋之儀公方様より拝領仕毎年渡海いたし候嶋にて候所に何とて参候や」
2018/6/21(木) 午後 10:56 [ 小嶋日向守 ] 返信する
これは、まあ原史料を引用したなんらかの史料に依拠するのでしょう。
それにしても、
「国主から命令を受けて3年に一回ずつ」
「この朝鮮漁民の陳述をありのままに受け入れようとするなら」
いやあ、あのねえ、冗談はやめてほしい。絶対それはない。
空島政策があって、しかも国王に無許可で、国主?が、水宗を越えることなど考えられません。
安龍福のこの証言など、オオボラとハッタリが明らかです。国主の命令で三年に一度ごとに来ているなどとという絶対あり得ない点をスルーしちゃ駄目ですね。
2018/6/22(金) 午前 0:27 [ 小嶋日向守 ] 返信する
石塔のことは記憶にないですね。
2018/6/23(土) 午後 5:53 [ Chaamiey ] 返信する