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日本山陰地方民と「鬱陵島・独島渡海禁止令」について
 
パク・ジヨン(嶺南大学独島研究所研究教授)

 

『独島研究』第23号 p357

嶺南大学独島研究所 (2017.12.30)

(この論文は、2016年大韓民国教育部と韓国研究財団の支援を受けて実行された研究である(NRF-2016S1A5B8A02929224))
 
 
<目次>
1. 序論
2. 山陰地方民の鬱陵島での活動
3. 山陰地方民の鬱陵島・独島漁業
4. 山陰地方民の「竹島渡海禁止令」に対する認識
5. 結論
 
<国文抄録>
本稿の目的は、鬱陵島争界の結果、日本人がそれ以上鬱陵島と独島への渡海を禁止されたことに対する日本側の認識を整理して、その歴史的意味を分析したものだ。そのために、(1)17世紀に日本の山陰地方民が鬱陵島近海で実行した漁業活動の性格と、その主体であった米子の大谷一族と村川一族の性格を明確にして、(2)「竹島渡海免許」が発行された脈絡を、17世紀始めの日本の政治的・社会的背景において把握しようと思う。そして、(3)1696年に幕府が指示した「竹島渡海禁止令」以後に大谷と村川一族が鬱陵島と独島への渡海に対してどのように認識していたかを明らかにしようと思う。これを通じて、現在の日本政府が主張しているように、当時渡海を禁止された当事者である大谷と村川一族も鬱陵島に対する渡海は禁止されたが独島に対する渡海は禁止されなかったと認識していたのか、に対する解答を提示しようと思う。
 
 
1. 序論
日本外務省が発表した「竹島(独島の日本名)問題を理解するための10のポイント」の中に、「日本は鬱陵島に渡っていく時の停泊場所として、また魚採地として独島を利用して、遅くとも17世紀中葉には独島の領有権を確立した」という主張がある。
このような日本の主張は、日本山陰地方に属する鳥取藩米子の大谷・村川二つの一族の鬱陵島・独島渡海をその根拠としている。日本は大谷・村川二つの一族が162325年頃にいわゆる「竹島(鬱陵島)渡海免許」を幕府から受けたと推定されて、17世紀中盤には独島にも寄港して漁業をしたと主張している。それだけでなく、東海におけるこれらの漁業活動は「鬱陵島争界(1696年に終結)」で鬱陵島渡海が全面禁止される時まで続いたが、当時、鬱陵島に対する渡海は禁止されたが独島に対する渡海は禁止されなかったとも主張している。
だが、このような日本の主張の核心的な根幹をなす山陰地方民の鬱陵島漁業活動に対する研究はほとんど進行されないでいる。また、彼らが幕府から受けたという「竹島渡海免許」に対する解釈もまだ確立されていない状態だ。これは、つまり、日本側の「固有領土論」に対する国内の総括的検討及び反論が生ぬるいということを意味する。
「鬱陵島争界」と関連しては、韓国側ではシン・ヨンハ(1)、ソン・ビョンギ(2)、朴炳渉の研究がなされて、日本側では田川孝三(3)、川上健三(4)、内藤正中(5)、池内敏(6)等の研究がある。
 
 
(1) シン・ヨンハ 『韓国の独島領有権研究』 景仁文化社 2006
(2) ソン・ビョンギ  『鬱陵島と独島、その歴史的検証』 歴史空間 2010
(3) 田川孝三竹島領有する史的考察』 東洋文庫書報 20 1988
(4) 川上健三 『竹島の歴史地理学的研究』 古今書院 1996(復刻新)
(5) 藤正中竹島(鬱陵島)をめぐる日朝係史』 多賀出版 2000 p9 ,獨島と竹島」チェイエンシ 2005
(6) 池内敏 「隱岐・村上家文書安龍福事件」 『鳥取地域史研究』 92007、『竹島問題とはか』 名古屋大出版2012、『竹島 : もうひとつの日韓係史』 中央公論新社 2016
 
 
だが、これらの研究内容はほとんどが大同小異であり、「鬱陵島争界」の経緯とその過程に対して論証しているだけで、根本的な要素である山陰地方民の性格と彼らの認識に対する研究は行われないでいる。特に、17世紀に山陰地方民が鬱陵島近海で操業をしていたにも拘わらず、その主体であった米子の大谷一族と村川一族に関する韓国国内の談論は極めて不正確で曖昧だ。漁民、商人などその正体に対して正確でない情報が流布している状況だ。したがって、第一に彼らの実体、すなわち身分、職業、一族の沿革などを明確にすることによって、17世紀に鬱陵島・独島近隣海域で行われた日本の漁業活動に対して把握しようと思う。
そして二番目に、「竹島渡海免許」が発行された脈絡を、17世紀初めの日本の政治的・社会的背景から把握しようと思う。「竹島渡海免許」は幕府が鬱陵島渡海を大谷・村川一族に許諾したものだが、その性格の特異性が持続的に議論になっている。日本では、幕府が発行した公式文書という理由を根拠にして、17世紀初めに幕府は鬱陵島まで日本の勢力圏と見ていたが、「鬱陵島争界」の結果、鬱陵島はあきらめたものの独島は日本の領土として残したのだと解釈している。
反面、最近の韓日両国で進んだ研究では、(1)文書の性格が不明確で、(2)一回限りの性質だった可能性を指摘するところに焦点が集められている。この文書が発行されたのは幕府の鎖国政策施行以前であり、幕府の権力自体が本格的に確立される前だという点を考慮しながら研究を進めようと思う。なぜなら、1630年代から鎖国政策が本格的に施行されたので、日本の国境が明確でない時代に「竹島渡海免許」は発行されたものと見なすことができる。一方、この時期の幕府権力自体もまだ内戦段階から完全に脱しておらず、行政体系も不備だったことを見逃すことはできない。したがって、大谷・村川一族は渡海免許を幕府から公式に受けたのではなく、個人的な親密なつながりを利用して発給を受けた可能性が非常に大きい。すなわち、渡海免許は国家政策の一環によったものではなく、私的な利益追求によったものである可能性が非常に高いということが分かる。
そして最後に、本研究では、1696年に幕府が指示した「竹島渡海禁止令」以後に大谷・村川一族が鬱陵島と独島渡海に対してどのように認識していたかを、米子市立図書館が所蔵している『村川家文書』を通じて明らかにしようと思う。現在の日本政府が主張しているように、当時渡海を禁止された当事者である大谷・村川一族も鬱陵島に対する渡海は禁止されたが独島に対する渡海は禁止されなかったと認識していたのか、に対する解答を提示するだろう。さらに、このような大谷・村川一族の認識に対して当時の江戸幕府がどのように受け入れていたのかも知ることができるだろう。

(続く)



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これを投稿した4分後に大阪で大きな地震が起きた。

2018/6/18(月) 午前 10:54 [ Chaamiey ] 返信する

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竹嶋渡海免許が「一回限りだった」というのはあり得ないですね。
簡単に説明できると思います。

1696年に幕府は竹嶋への渡海を禁止しますが、その時鳥取藩に渡海免許を返納させています。
本当に渡海免許が一回限りなのなら、それを返納される必要はありません。
渡海免許は1696年まで有効であったからこそ、幕府はそれを返納させたのです。 削除

2018/7/3(火) 午後 9:56 [ mendel ] 返信する

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同感ですね。そもそも、「免許」という言葉自体が、「特定の事を行うことを官から許される」ことです。一回限りでは、免許とは言わない。

一方、李氏朝鮮の水宗(水旨)越えの許可であった「水宗牌」は、一回限りで、事後国王に返納していました。そして祭祀者としての国王が後にそれを燃やす儀式までが礼制です。
おそらく水宗牌に関する知識もないであろう、この韓国人著者に、無意識的に李朝の感覚が植え付けられていることに驚きます。 削除

2018/7/5(木) 午後 5:35 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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