| 5. 朝日/韓日国境条約体制の形成と展開(注34) 太政官指令の成立で注目する点は次の二つだ。まず、太政官指令が鬱陵島争界の渡海禁止令(国境条約)を継承しているという点だ。二番目に、太政官指令が渡海禁止令を継承したことは、1699年の韓日間の国境条約が引き続き効力を維持しているということを意味する。この二つを総合すれば、太政官指令は1699年の韓日間の国境条約を国内的に実行するために日本の国内法体系で受け入れ(adoption)たと見ることができる(注35)。これを通じて日本は鬱陵島争界での韓日間の合意(国境条約)を守るために国内外的に法令体制を整えたことになる。 (注34)本章は、イ・ソンファン(2017)「朝日/韓日国境条約体制と独島」 『独島研究』 第23号を再整理したものだ。 (注35)アン・ホンイク 「条約の大韓民国法体系への受容:条約の分類と国内法的地位」(釜山大学修士論文 2009) p15~18 ; イ・サンヒョン 「国際法と国内法との関係に関する研究:理論と実際を中心に」(建国大学修士論文 1991) 1699年の国境条約(渡海禁止令)と1877年の太政官指令を軸として、韓日間に国境体制(regime of boundary)が成立したのだ。これを筆者は「朝日/韓日国境条約体制」と命名した。図式的に整理すれば、韓日間には(国際的には)1699年の国境条約が、日本国内的には太政官指令が直接作動する体制が形成されたのだ。この国境条約体制は1905年の日本の独島編入の時まで有効に作動、維持される。「一度合意すれば国境は持続する(once agreed,the bouncary stands)」は国境の現状維持原則、そして国境は安定性と永続性(stability and permanence)を重視するので、根本的な事情変更の原則さえ適用されない国際慣習法の原則に照らしてみれば(注36)、1877年に形成された朝日国境条約体制は永続性を持っている歴史的体制だといえる。そうすると、この国境条約体制は、実際にその後どのように作動したかを検討する必要がある。 いくつかの事例を中心にこれを調べれば、次のとおりだ。内務省が鬱陵島争界を調査している頃、1877年1月から島根県士族戸田敬義は東京都知事に何回かにわたって竹島渡海之願を提出したが、太政官指令が出た直後である6月8日に却下された(注37)。池内敏はこれを「鬱陵島渡海禁止令が効力を発揮していたためだ」と指摘するが(注38)、これは渡海禁止令を継承した太政官指令が効力を発揮していたことを意味する。 (注36)イ・グングァン (2010) 「統一後韓-中国境問題に関する国際法的考察」 『国際法学会論叢』55(4) p135 (注37)北沢正誠 『竹島考証』(1881);Web竹島問題研究所「戸田敬義と竹島渡海之願」 http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-230728.html(検索日:2017.06.25) (注38)池内敏 前掲書 p72 1881年11月14日、境二郎島根県知事は大屋兼助外1人が提出した「松島開拓願」を内務省に提出して鬱陵島渡海を要請した。開拓願を受け付けた内務省は、鬱陵島争界に関連する文書を添付して外務省に最近朝鮮政府と新しく交渉をした事実があるかを問い合わせた。12月1日、外務省は「朝鮮国鬱陵島すなわち竹島と松島(朝鮮国欝陵島即竹島松島)に対する特別な変更〔交渉〕」は無いと回答する。外務省の回答を基に内務省は1882年1月31日付で島根県に「最前指令(1877年の太政官指令-引用者)と同じく、竹島と松島(鬱陵島と独島)は本邦と関係が無いので開拓願の件は許可できない」と却下した(注39)。内務省が外務省に朝鮮との新しい国境交渉の有無を確認したのは、国境条約を受け入れた太政官指令は朝鮮との交渉如何により影響を受けるためだ。外務省は「特別な変更」は無いとしたので、1699年に成立した国境条約(渡海禁止令)は続けて効力を維持していて、これを受け入れた太政官指令も有効であることを意味する。 朝鮮政府は1880年元山津の開港を控えて、1879年10月、イム・ハンスを江原道観察使に任命して鬱陵島など関防の方策を準備させた(注40)。 1881年5月イム・ハンスから鬱陵島で日本人が無断で伐木をしている事実の報告を受けた朝鮮政府は、6月に礼曹判書イ・フェジョンの名前で井上馨日本外務卿に「先に書契を挙げて貴朝廷から特に(鬱陵島渡海を)禁止するという約束を受けたが、…(中略)…貴朝廷では未だ禁令を定めないので民衆たちがまだ不法を働いて」いるので、これを禁止せよという抗議の書簡を送った。 1699年の渡海禁止令を根拠として朝日国境条約体制を守れと要求したのだ。これに対して、日本外務省は同年10月、朝鮮政府に日本人を撤収させて鬱陵島渡海を禁止するという回答を送って(注41)、同時に太政大臣に1699年の渡海禁止令に基づいて日本人の渡海禁止を布告しなければならないという意見書を提出した(注42)。 (注39) 杉原隆「明治10年太政官指令-竹島外一島之儀ハ本邦関係無之をめぐる諸問題」 竹島問題研究会 『第2期「竹島問題に関する調査研究」中間報告書(平成23年2月)』 p15〜16 (注40) 高宗実録 高宗16年(1879年)8月4日。パク・ウンスク(2012)「東南諸島開拓史金玉均の活動と領土・領海認識-鬱陵島・独島認識を中心に」『東北アジア歴史論叢』36号p98 (注41)旧韓国外交文書第1冊、日案1 文書番号74(1881.7.26)75番(1881.10.24);パク・ウンスク 前掲論文 p99 (注42)池内敏 前掲書p73~74 また、朝鮮政府は1882年5月、李奎遠を鬱陵島に派遣して現地調査を実施し、鬱陵島に侵入している日本人(77人)の撤収を要求するなど空島政策を廃止して鬱陵島の開拓に着手した。朝鮮の鬱陵島開拓に呼応して、日本政府は日本人の撤収に着手し、1883年3月1日「鬱陵島(我が国の人々は竹島または松島と呼ぶ-原注)が朝鮮国の版図であることは既に元禄年間(1699年-引用者)に我が政府と朝鮮政府間で議定したこと」であるから「今後誤解が無いように(各地方官は)管下人民に告由」すべしとの諭達を発布した(注43)。そして太政大臣は司法卿に、鬱陵島に渡航する者を朝日貿易規則第9則及び刑法第373号(1月以上1年以下の有期懲役)により処罰するように各裁判所に指示することとした(注44)。処罰規定がない渡海禁止令と太政官指令で形成された国境条約体制を強制するために、朝日貿易規則と刑法を適用したのだ。 日本人の撤収のために鬱陵島に派遣された山口県の山本修身の復命書(1883年9月)に載せられた鬱陵島での朝鮮官憲と日本人の対話の記録にも、渡海禁止令に対する当時の日本人たちの認識が明確に現れている。日本人たちは万国公法(国際法)に言及して、鬱陵島を無人島(無主地)と見なして退去を拒否した。これに対して朝鮮官憲が「日本政府に照会をする」と言ったところ、日本人たちは「鬱陵島は貴国(朝鮮)の土地という朝鮮と日本政府間の条約があるので」として撤収した(注45)。ここで「条約」は1699年の渡海禁止令をいう。 (注43)日本外交文書(日本外務省外交史料館)「朝鮮国蔚陵島犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻処分一件」 ; 池内敏 前掲書p73 再引用 (注44)http://blog.naver.com/cms1530/10015986629(検索日 2018.4.25) (注45) 木京睦人「明治十六年『蔚陵島一件』」 『山口県地方史研究』 第88号 2002年10月 p81 鬱陵島に渡海した日本人たちが直接「条約」という用語を使っていたという事実は、1699年の渡海禁止令=国境条約という認識が当時の日本人たちに相当な程度で浸透していたことを物語る。その後、鬱陵島渡海者などに対する処罰は行われなかった。これに対して、井上馨外務大臣は、「幕府以来その帰属が決定(従前彼我政府議政)されたと宣言しているにも関わらずそのような裁判所の処置を許容すれば」朝鮮政府だけでなく外国から日本の公正性が疑いをかけられると政府に抗議した(注46)。井上の認識は、渡海禁止令が単純に日本国内用でなく国際的な性格を持ったものだという点を見せている。以上の事例で、少なくとも1880年代まで朝日国境条約体制が有効に作動していたということが分かる。 (注46) 日本外交文書第16巻 p133 附記1. 木京睦人「明治十六年『蔚陵島一件』」 『山口県地方史研究』第88号 2002年10月 p74 <コメント> 元禄竹島渡海禁止令は現竹島も渡海禁止にしていたとか太政官指令はそれを再現したとかいう思い違いをベースして、それらに「国境条約体制」とかいういかめしい名前を付ければ、何か強力な論理を手に入れたような気分になるんでしょうかねえ。 |
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