| 2. 安龍福の行跡と活動に対する評価の問題 安龍福の研究は、日本が主張する17世紀独島領有権確立説、1905年の独島無主地先占論などを否定するのに決定的な役割をする。日本が安龍福を蔑み否定する理由だ。韓国における安龍福の活動に対する評価は、おおむね次のようなシン・ヨンハ教授の主張の範疇に留まっているようだ。安龍福と朴オドゥンは1693年春に鬱陵島で日本人漁師によって隠岐島に拉致された。安龍福は拉致の不当性を主張し、これに対して幕府と伯耆州の太守は鬱陵島は日本の領土ではない(欝陵島非日本界)という文書を安龍福に書いたという。シン・ヨンハ教授はこれを次のとおり整理している。 当時、伯耆州の太守は鬱陵島が朝鮮領土であることを知っていたので、幕府の関白(幕府将軍)に安龍福などを移送して報告した結果、幕府関白も鬱陵島が朝鮮領土であることを認め、「鬱陵島は日本の領土ではない」(欝陵島非日本界)という文書を伯耆州太守に作成させ、安龍福を釈放して朝鮮に送還するようにした。しかし、安龍福が江戸を出発して長岐に至るとすぐに長岐島主は安龍福が持っていた「鬱陵島は日本の領土ではない」という文書を奪い、安龍福たちを日本領土である竹島を侵した罪人だと拘束してしまった。この時、対馬島主宗義倫は安龍福事件を逆に利用して鬱陵島(独島を含む)を対馬島の付属領土に編入しようと試みた(注3)。 (注3)シン・ヨンハ(1966) 『独島の民族領土史研究』 知識産業社 p31 上の文章は、1)関白(幕府将軍)が鬱陵島の領有権を認めたという事実(独島も含んでいると読める)を指摘して、2)長崎島主がこの文書を奪い、対馬はこれを利用して鬱陵島を編入しようとしたという点を強調している。ここで、その後の展開過程と関連して次のような点を検討する必要がある。 対馬は幕府の指示を受けて安龍福の送還と同時に朝鮮政府に対して朝鮮人の竹島(鬱陵島)渡海を禁止するように要請し、韓日間で鬱陵島領有権に関する論争が始まった。鬱陵島争界(日本では「竹島一件」という)の始まりだ。上の引用文の内容と重ねて調べれば、幕府はオキ州(翻訳者注:隠岐と伯耆が混同されている?)の太守には安龍福に鬱陵島は日本の領土でないという文書を書くようにして、同時に対馬藩には朝鮮政府に対して朝鮮人の竹島(鬱陵島)渡海禁止(以下、便宜上「渡海禁止」という)を要請することにしたのだ。この二つの事実は互いに相反する。 幕府が二重プレーをしたということで、国家間の外交関係としては成立しにくい話だ。合理的な説明が必要な部分だ。これをどのように理解するべきか。シン・ヨンハ教授は、「東海に鬱陵島ではなく鬱陵島と似た別の日本領土である竹島があるように話を作って、今後は竹島では朝鮮の船舶を決して容認しないので、貴国も(朝鮮の漁師の竹島出漁を)厳格に禁制して欲しいというとんでもない要求をした」と説明している(注4)。鬱陵島竹島二島説で説明しているが説得力が弱い。日本が渡海禁止を要請したことに対して朝鮮政府は竹島と鬱陵島を併記して朝鮮人の渡海を禁止しているという答書を送ったが、日本(対馬)は答書から「鬱陵島」を削除するよう強力に要求した。これは日本(対馬)が鬱陵島と竹島を同じ島と認識していたことを意味するためだ。 次は1696年の安龍福の2次渡日に関してだ。安龍福一行11人は1696年5月20日に鬱陵島と独島を経て隠岐島に到着し、8月6日朝鮮へ送還された。安龍福の2次渡日の動機について、シン・ヨンハ教授は「朝鮮の朝廷が強硬対応策を採択し、幕府関白の決定があったのに対馬島主が相変らず鬱陵島と独島を奪取しようと時間をかけているという話を聞いて、自分が再び日本に行って伯耆州太守と談判する決心をした」と説明している(注5)。 (注4)前掲書 p31~32 (注5)前掲書 p34~35 日本での安龍福の活動については、「この過程で、東莱出身の漁師安龍福の活躍は鬱陵島と独島を守るのに大きな役割を果たした」と評価する(注6)。安龍福の日本での活動については「元禄九(丙子)年朝鮮舟着岸一巻之覚書」などの記録で事実として立証されている。安龍福は持参した朝鮮八道地図を提示して、鳥取藩に鬱陵島と独島の朝鮮領有を強力に主張した(注7)。韓国側では、安龍福の主張に対して日本は当時だけでなくその後も何の対応も無かったという点を挙げて、日本が鬱陵島と独島の領有権を認めたと解釈している(注8)。この指摘は大変重要だ。 ここで問題になるのは、安龍福の渡日時点が幕府の渡海禁止令が決定された後だという点だ。もちろん、安龍福はその事実を知らずに鬱陵島と独島の領有権を主張するために渡日したのは事実であり、高く評価しなければならない。しかし、安龍福の活動が実質的に鬱陵島(独島を含む)領有権の確保、言い換えれば幕府の渡海禁止令決定に影響を及ぼすことはなかった。 安龍福の活動でより重要なのは、安龍福の活動で当時の朝鮮の独島と鬱陵島に対する認識を垣間見ることができるという点だろう。安龍福の身分については不明な部分があるが、少なくとも彼は高い身分ではなく官吏でもなかった。それならば、身分が低い民間人が日本に渡って行って独島と鬱陵島の領有権を主張したという事実は、当時の朝鮮において鬱陵島と独島に対する認識が一般に広く浸透していただけでなく、独島と鬱陵島に対する領有権意識も普遍化していたことを物語るものだと推論することができる。安龍福の評価としてはこの点が強調されるべきことと思われる。 (注6) 前掲書 p36 (注7) 安龍福の2次渡日は対馬が渡海禁止令を朝鮮側に伝達するのを催促したという主張がある。つまり、安龍福を通じて朝鮮が渡海禁止令を認知する場合、朝鮮との交渉窓口としての対馬の役割に疑問を持たれることになるだけでなく、安龍福の活動に押されて日本が渡海禁止令を出すことになったという誤解を避けるために、対馬が急いで渡海禁止令を朝鮮に知らせたという意味だ。 (注8)金炳烈 「独島領有権に関連した日本学者のいくつかの主張に対する批判-元禄9年調査記録を中心にー」 『国際法学会論叢』50巻3号(大韓国際法学会 2005) p84~92 <コメント> 韓国人の独島研究者でシン・ヨンハ御大の説明には問題があるという主張を提起した人は他にいたかなあ。 イ・ソンファンさんは、あまりに下らない説明を言っていてはだめだという視点はあるようなのですが、それに変えて、あんまりレベルの違わない新たな希望的観測を結論としています。しかし、安龍福という一個人の行動だけに基づいて社会全体の認識を判断することはできないし、現実問題として、当時の朝鮮社会が竹島(独島)というものを知っていたことを証明する史料なんて何もないですからね。 、 |
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2019/2/6(水) 午前 8:36 [ まいこ@会社辞めました!! ] 返信する