| 3. 渡海禁止令に対する評価 1) 「渡海禁止令」は条約なのか 1693年から1699年まで約6年間かけて鬱陵島渡海を巡って韓日間で激しく展開した鬱陵島争界の結果、日本人の鬱陵島渡海が禁止された。この渡海禁止令は韓日間で初めて行われた国境交渉の結果だ。安龍福拉致事件を契機に、日本は朝鮮政府に対して朝鮮人の鬱陵島渡海を禁止することを要請した。これは日本が鬱陵島を自国の領土と見なしたか、これを契機に鬱陵島を自国の領土に編入するための意図から出た措置だっただろう。空島政策を取っていたにもかかわらず、朝鮮政府は日本の要求に強力に対応した。この過程で日本は鬱陵島は自国の領土という具体的な根拠を明確に提示できなかったが、朝鮮政府は『輿地誌』の記録、鬱陵島と朝鮮及び日本の距離関係など具体的な根拠を提示して鬱陵島の領有権を主張した。朝鮮の主張に対して、幕府は自らの調査と鳥取藩に対する質問等を通して、日本は鬱陵島を領有したことがなく、距離も朝鮮に近くて、『輿地誌』の記録がある点を挙げて、鬱陵島に対する朝鮮の領有権を認めて日本人の渡海を禁止した(注9)。幕府は鬱陵島に対する朝鮮の権原を認めて、これに基づいて渡海禁止令を下したのだ。幕府はこの決定を正式に朝鮮政府に文書で伝達し、朝鮮政府もこれを承認した。 (注9)この経過については、イ・ソンファン、ソン・フィヨン、岡田卓巳(2016) 『日本太政官と独島』知性人 の太政官関連文書参照 この過程を検討すれば、幕府の渡海禁止令は、1)幕府が朝鮮政府との議論を経て下した決定であり、2)両国政府がこれを承認する手順を踏んだという点が分かる。単純化すれば、両国の合意によって決定されたのだ。 そうすると、両国の合意によって作成された渡海禁止令は韓日間の国境条約と見ることができるのか。従来通用していた国際慣習法を反映して条約に関する一般原則を規定した条約法に関するウィーン協約(1969年採択、1980年1月発効、Vienna Convention on The Law of Treaties)第2条第1項(a)によれば、「条約とは(中略)特定の名称に関係なく、書面の形式で国家間で締結され、また、国際法によって規律される国際的合意を意味する」と規定されている。名称に関係なく国家間の文書化された合意を広義で条約と規定しているのだ。したがって、渡海禁止令は韓日両国の国境条約と見なすことができる(注10)。これに対してはパク・ヒョンジン氏が詳しい研究成果を出している(注11)。太政官指令に添付された鬱陵島争界当時の朝鮮と日本の間の往復文からは、現代国際法上の「交換公文書」(Exchange of Letters)の法的性格と地位を持つと見ることができるというのが彼の結論だ。当時の渡海禁止令を上のような現代国際法の理論で問い詰めるよりは、当時の日本でこれをどのように認識していたかを調べることがより実質的な意味を持つだろう。 (注10)この当時にも領有意識、境界意識が存在したことは明らかだが、そういう概念を近代的領有権及び国境の概念と同一に見ることができるかという議論は有り得る。しかし、連続した陸地でなく島という独立した領域なので同一に取り扱えるはずだ。 (注11)これに対しては、パク・ヒョンジン「17世紀末鬱陵島争界関連韓日‘交換公文書’の証明力」『独島領土主権研究』(京仁文化社 2016)p301~351 に詳細に論じている。また、パク・ヒョンジン 「17世紀末鬱陵島争界関連韓日‘交換公文書’の証明力:距離慣習に伴う条約上鬱陵・独島権原確立・海上国境黙示合意」 『国際法学会論叢』58(3)大韓国際法学会 p191~192 1877年3月、内務省は鬱陵島争界の過程で幕府と朝鮮政府間に行き来した書契などを検討した後、「元禄12(1699)年に至って概ね(朝鮮と日本の間にー引用者)文書往復が終わって(竹島外一島はー引用者)本邦(日本)と関係無い」という結論を下して、「版図(領土)の取捨は重大な事件なので…(中略)… 万全のためにこの件を(太政官に)問い合わせする」と明らかにした(注12)。内務省は、17世紀末に朝鮮と日本がやりとりした「往復文書」を根拠に鬱陵島と独島が朝鮮の領土として確定したことを確認して明治政府がこれを継承することを太政官に上申し、太政官は鬱陵島と独島は日本と関係無いという指令(太政官指令)を下したのだ。 また、日本人の鬱陵島渡海に対して朝鮮政府の抗議を受けた日本政府は、1883年3月1日、鬱陵島渡海を禁止する諭達を発布したが(注13)、諭達文には「鬱陵島(我が国の人々は竹島または松島と呼ぶー原注)が朝鮮国の版図であることは既に元禄年間(1699年-引用者)に我が(日本)政府と朝鮮政府が議定(彼我政府議定議定)したところ」であるから「今後誤解がないように(各地方官は)管下人民に告由」せよと指示した(注14)。すなわち朝鮮政府と日本政府は鬱陵島を朝鮮の領土と「議定」したので渡海を禁止するということだ。これと関連して、後述するように、1883年当時不法に鬱陵島で伐木をしていた日本人たちが朝鮮の役人たちの退去命令を受けて、「鬱陵島は貴国(朝鮮)の土地という朝鮮と日本政府間の条約があるので」(注15)という理由を挙げて撤収した事件があった。 少なくとも、鬱陵島に往来した日本人たちは1699年の(注16)渡海禁止令を朝鮮と日本政府間の条約と認識していたのだ。「往復文書」、「議定」、「条約」等の用例は日本政府及び鬱陵島渡海日本人たちが渡海禁止令を韓日間の国境条約と明確に認識していたという事実を示すものだ。 (注12) イ・ソンファン、ソン・フィヨン、岡田卓巳(2016) 『日本太政官と独島』 知性人 p288-289 (注13) (日本)外務省編纂(1996) 『日本外交文書』第16巻 巌南堂書店 p325〜326 (注14) 日本外交文書(日本外務省外交史料館) 「朝鮮国蔚陵島犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻処分一件」;池内敏 前掲書p73 再引用(翻訳者注:「前掲書」はこの論文のこれより前の部分には出ていない。『竹島問題とは何か』のことと思われる。) (注15) 蔚陵島一件録(山口県文書館所蔵 請求番号 戰前A土木25); 木京睦人(2002)「明治16年蔚陵島一件」 『山口県地方史研究』 第88号(山口県地方史学会) p81 2)条約としての渡海禁止令は戦後にも効力があるのか 問題はこの国境条約の時効に関してだ。一般的に、国境紛争と関連して「国境画定の安定性と明確性(stabilityand definitiveness in boundary limitation)」は重要な判断根拠となる。国境条約は、国家の変更、国家政体の変更などにもかかわらず継承されて恒久性を持つことが国際的に慣習法化していると言える(注17)。これは現代国際法と国際仲裁裁判などの司法的決定によっても確認されている(注18)。イ・スンチョン氏はこれを次のように説明している(注19)。 1978年ウィーン協約(条約に対する国家継承に関するウィーン協約Vienna Convention on Succession States in Respect of Treaties、以下便宜上ウィーン協約というー引用者)第11条は、条約によって画定された国境と条約によって確立された国境体制(regime of boundary)に関する権利と義務は国家継承によって影響を受けないと規定しているが、これは国境の神聖さ(sanctity of frontiers)に関する慣習法を再確認したものだ。 ……(中略)…… (注16)日本幕府が渡海禁止令を下したのは1696年であり、日本人の鬱陵島渡海が禁止されたのも1696年だ。しかし朝鮮と日本の両国が完全な合意に到達したのは1699年なので、本稿では渡海禁止令の成立を1699年とする。 (注17)1978年の条約に関する国家継承に関するウィーン協約(Vienna Convention on Succession States in Respect of Treaties)第11条は次のとおりだ。「国家継承はそれ自体として次の事項に影響を及ぼさない。(a)条約によって確定した境界、または(b)条約によって確定し、そして国境体制(regime of boundary)に関連する義務と権利」 (注18)イ・スンチョン(2012) 『条約の国家継承』開かれた本 p77 (注19)イ・スンチョン 前掲書 p80 そしてこの11条は、1969年条約法に関するウィーン協約第62条第2項の<事情の根本的変更>は国境条約を終了させたり同条約から脱退できる根拠として援用することができないという規定とも関連する(注20)。ウィーン協約第11条は、当事国間の合意が無い限り国境は変更されないという国境神聖の原則(principle of sanctity of frontier)に基づく国際慣行を確認したものだ。これを援用すれば、1699年の国境条約(渡海禁止令)は韓日間で変更の合意がない限り、時間の経過に束縛されることなくその効力は続くのだ。 (注20)条約法に関するウィーン協約第62条(事情の根本的変更)2項は次のとおりだ。②事情の根本的変更は、次の場合には、条約を終了させたりまたは脱退する理由として援用されることができない。(a)その条約が境界線を確定する場合、または…(後略) (続く) |
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