このような観点で見るならば、現在議論になっている韓日間の独島領有権問題は1699年の韓日間の国境条約(渡海禁止令)によって既に解決したと見なされる(渡海禁止令に独島が含まれているという点を前提とした場合だが、これについては後述する)。 それなのに韓国側が現在の独島問題解決の原則として1699年の韓日間の国境条約(渡海禁止令)を強調しない理由は何だろうか。1699年の国境条約が現在もその効力を維持しているのかということについて、明確な認識を持つことができないためだろう。ここで検討されなければならない事項は、1699年に日本幕府と朝鮮政府の間に成立した国境条約(渡海禁止令)は、その後の日本及び韓国の政体(政権)の変動にも拘わらず、引き続き効力を維持しているのかだ。幕府と朝鮮政府によって締結された条約が明治維新及び第二次世界大戦などによる日本の政体の変動に影響を受けるものか、だ。これは国家の同一性及び継続性に関する問題だ。国家の同一性及び継続性の問題は、関連当事国の利害関係だけでなく国際関係の安定性、条約の継続性などにおいて大変重要な要素であり、国際法それだけでなく国際政治的な要素も含んでいるが、国際法的な側面が強調されるだろう。 これまで確立された国際慣習法によれば、条約によって確定した国境には「事情の根本的変更」が許されないように、政府や政体の変動は国家の同一性と継続性に影響を及ぼさない(注21)。政府や政体の変更は合法的でもクーデターなど非合法的方法でも成り立つが、非合法的な方法で政府や政体が変更されても国家の同一性は維持される。例えば1917年ロシア革命以後、ソビエト政権はロシア政府の債務を否認したが、これは国家の同一性を否定する国際法違反と見なされて当時の多くの国家がソビエト政府を承認しなかった。そして戦時占領のように一時的に領土が占領されて統治権が中断されたりしても、国家の同一性と継続性には影響を及ぼさない。第二次世界大戦の後、連合国はドイツと日本を占領したがドイツと日本の法人格が消滅したのではなかった。西ドイツは戦争前の債務に対する責任を認めたし、アメリカ、英国、フランスも西ドイツ政府が旧ドイツ帝国の権利と義務の主体と認定した(注22)。 このような観点で見るならば、明治維新と第二次世界大戦後の日本の政体の変化は国家の同一性と継続性に影響を受けない。したがって、1699年に幕府によって締結された国境条約も影響を受けないと見なければならない。日本と韓国の間でこの条約の変更に関する新しい合意が無ければ、この条約は現在まで効力を続けて維持しているのだ。 (注21) ハン・ヨンソプ (2011) 『南北統一と北韓が締結した国境条約の承継』韓国学術情報(株) p191-192 (注22) Lauterpacht, “Continuity of States andEffectof War: The present position of treaties concluded with Prussia”, 5 ICLQ(1956), pp.414∼420。 イ・スンチョン(2012) 『条約の国家承継』 開かれた本 p243 再引用 3)渡海禁止令には独島が含まれたのか 次に、これと関連して最も重要な争点は、渡海禁止令が依然として効力を維持しているとしても、この渡海禁止令に独島が含まれているかどうかということだ。1699年の国境条約(渡海禁止令)が現在の独島問題を解決する国際法的規範として用いられるためには、渡海禁止令に独島渡海禁止も含まれていたことを立証しなければならない。独島が含まれていないならば国境条約としての渡海禁止令の地域的適用範囲は鬱陵島に限定されるので、現在の独島問題とは関係が無くなる。 このことについては二つの見解が存在する。一つは渡海禁止令を文言そのままに解釈して、渡海禁止令は鬱陵島への渡海を禁止しただけであって独島への渡海は禁止しなかったという主張だ。渡海禁止令は独島と関連がないというものだ。しかし、池内敏など日本側の研究でも渡海禁止令には独島が含まれていたことが立証されている。彼の主張は、1)幕府の渡海禁止令は幕府が独島を認識して決定を下したもので、2)また、幕府が独島に対する渡海許可をしたことがないのに拘わらず日本人の独島渡海が可能だったのは、鬱陵島への渡海許可が独島への渡海を含んでいたためだ。したがって、鬱陵島禁止は独島禁止を含むものだと結論付けた(注23)。また、日本人の鬱陵島と独島渡海の慣行を見れば、日本人たちは独島だけに渡海をしたことは無く、鬱陵島渡海のために、または鬱陵島渡海のための航行の目標や中間寄着地として活用するためのものだったから、鬱陵島渡海の禁止は自然に独島渡海を禁止することになったというのだ(注24)。 (注23) 池内敏(2012)『竹島問題とは何か』 名古屋大学出版会 p36 (注24) 前掲書 p36 これと関連して、最近、パク・ジヨン氏は村川家文書(米子市立図書館所蔵)を通じてこれを立証している。鬱陵島争界以前に幕府の渡海許可を利用して鬱陵島と独島で漁労活動をした大谷と村川一族は、1740年、幕府の寺社奉行所に「竹嶋・松島二島に対する渡海禁止令」が下された後の窮乏した生活を打開するために請願書を提出した。この請願書には当時の渡海禁止令が独島(竹島)を含んでいたという内容が書かれていて、請願書を受け付けた奉行も請願書の内容を否定しなかった(注25)。このような事実を通じて、パク・ジヨン氏は「当時幕府から渡海を禁止された当事者である大谷と村川一族は、独島への渡海も禁止されたものと認識して」いたし「当時の幕府の公式見解もまた独島に対する渡海も禁止したこと」と結論付けた(注26)。 (注25)パク・ジヨン(2017)「日本の山陰地方民と鬱陵島、独島渡海禁止令について」『独島研究』第23号 p381~385 (注26)上の論文 p385 <コメント> はいはい、元禄の竹島渡海禁止令が国境条約であろうとなかろうと、今でも有効であろうとなかろうと、どうでもいい話です。江戸幕府は竹島(鬱陵島)へ行くことは禁止した、日本政府はその後もその方針は継続した。いったん国と国との間で交わした「鬱陵島は朝鮮のものと認めます」という約束を破ることはしなかった。それだけのことです。 しかし、もちろん、イ・ソンファンさんは竹島渡海禁止令には独島(竹島)も含まれていたということにして論じる気満々です。次の項目で太政官指令との関係性を熱心に説明することになります。竹島渡海禁止令には独島(竹島)も含まれていたという理解は池内説とか大谷の請願書によるものですが、そんなもので竹島渡海禁止令には今の竹島への渡航禁止も含まれていたということを証明することにはならないことは、既にこのブログでは書きました。 |
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ここまで拝読いたしました。結論は、管理人さんのコメント前半のとおりです(誤解されると困るので)。元禄の竹島渡海禁令では、「江戸幕府」としては、松島(いまの竹島)には、言及していないんですよね。現代訴訟の判決であれば、判決の客観的範囲で消極ですね。池内『竹島』は、渡海禁令に含まれるも(竹島/独島が)、領有権とは別物と考えているようです。
2019/2/8(金) 午後 11:40 [ Gくん ] 返信する
池内さんは、江戸時代のことは日韓両国とも何も確たるものは無いから、話しは一切不用だ、大事なのは近代以降だという考えのようですね。そういうふうに言うことで、ある程度日本に有利な江戸時代のことを無価値にしたいのでしょう。
2019/2/9(土) 午後 10:39 [ Chaamiey ] 返信する