| 独島問題研究に対する主な争点検討-渡海禁止令と太政官指令を中心にー イ・ソンファン/ 啓明大学人文国際学部日本学専攻教授 『独島研究』第25号 p251
1) 日本はなぜ太政官指令を発令したのか 1877年の太政官指令は、指令単独でなく1699年の渡海禁止令との関連性の中で論じる時により明らかな価値を定義することができる。 1)日本はなぜ渡海禁止令を継承して太政官指令を発したのか。 2)渡海禁止令にはない外一島(独島)が太政官指令に含まれた理由は何か。3)太政官指令は日本国内法令体系においてどんな効力を有しているのか、などに対する検討が必要だ。 日本が渡海禁止令を継承して太政官指令を発した理由を直接説明する資料はない。『公文録』に編纂されている太政官指令関連文書には地籍編纂のための島根県の質問を契機に内務省が鬱陵島と独島に対する領有権を調査して太政官に上申することによって独島と鬱陵島は日本の領土でないという趣旨の太政官指令が出て来ることになったという過程を見せているだけで、太政官指令が出て来ることになった根本的な理由に関する説明はない。次のような当時の日本の状況の中でその理由を探すほかはない。 太政官指令が作られる1877年は、名嘉憲夫氏が明らかにしているように、明治維新後の日本が国民国家としての国境を画定していく「国境画定期」に該当する(注27)。近代国民国家は基本的に排他的主権を持つ政府、同質的な国民、そして領土を区分する国境の画定で成り立つ。国民は同じ文化とアイデンティティを持つ集団によって自発的に形成されると考えられるが、実際には確定した国境の中で教育や政策等を通して国民を作っていくことになる(nation building)。イタリア統一旗の「イタリアは作られた。今からはイタリア国民を作らなければならない」という警句はこれを象徴している。したがって、国民国家形成を指向する明治政府の最優先課題は国境を確定することだった。岩倉具視が1871年に使節団を率いて欧米歴訪に出る頃、台湾、竹島(鬱陵島)、無人島、琉球の境界を調査する必要があると(注28)国境画定が急務だということを示唆したのもこのためだ。 その後日本は「周辺地域を強権的に占領併合」して国境を画定していった(注29)。1875年には樺太千島交換条約を通じて北海道を始めとする北方地域の国境を確定し、1876年には小笠原諸島を編入して、1879年には琉球(沖縄)を併合した(琉球処分)。曖昧な状態にあった周辺地域を編入、拡張して国境を画定して行ったのだ。 (注27) 名嘉憲夫(2013)『領土問題から国境劃定問題へ』 明石書店 は、歴史的に日本の領土変化(国境画定)の過程を執権国家形成期(1867~1873年)、国民国家としての国境画定期(1874年~1881年)、対外膨張期(帝国形成、1882~1945年)、対外縮小期(帝国崩壊、1945~現在)に区分した。 (注28) 『岩倉具視関係文書』 第7巻 p306~309 (注29) 名嘉憲夫(2013)『領土問題から国境劃定問題へ』 明石書店 p101 ところで、国境画定の過程では北海道、小笠原諸島、琉球(沖縄)等に対しては攻勢的に領土編入をしたが、松島(独島)は反対に日本の領土から除外したという特異点が見える。小笠原などの例に照らしてみれば、日本が独島編入を意図することができたにもかかわらず松島(独島)を日本領土から除外した理由は、竹島(鬱陵島)と松島(独島)は日本が領土に編入できないほど朝鮮の領有権が明確だったためだという点を除いては説明し難い。明治3年(1870)に領海3海里説を導入するなど近代国際法を積極的に受け入れていた日本政府は、1699年の国境条約の存在を意識しないわけにはいかなかっただろう。 また、他の一方では、この時期の日本ではウラジオストックに往来する日本人が増加し、鬱陵島の木材と資源を欲しがって鬱陵島(松島)開拓願が頻繁に提出されていた。1876年から1878年の間に提出された青森県の武藤平学の「松島開拓之議」、千葉県の斎藤七郎兵衛の「松島開拓願」、島根県士族戸田敬義の「竹島渡海願」などだ(注30)。ここで「松島」は竹島(鬱陵島)を指すのだが、当時は名称の混乱で竹島(鬱陵島)を松島と言ったのだ。このような開拓願は、領有権が多少曖昧な状態にあった鬱陵島を日本の領土にしようとする認識の発露と見るべきだが、開拓願は日本政府によって全て却下された。 そうすると、内務省を中心に日本政府が鬱陵島と独島を編入せずに、かえって日本の領土では無いことをより明確にした理由は何だろうか。上の要因、すなわち国民国家形成のための国境画定の緊急性、国際法遵守意識、国境に対する曖昧性を解消するためには竹島(鬱陵島)と松島(独島)に対する領有権を明確にする必要があっただろう。太政官指令の形成過程で内務省が鬱陵島と独島の領有を「版図の取捨は重大なこと」(注31)として取り扱って太政官に上申したのは、そういうことを意味するのだろう。 (注30)戸田敬義の請願書は東京知事あて、他の2通は在ウラジオストックの貿易事務官を経て外務省に提出されたチョン・ヨンミ訳(2006) 『独島資料集Ⅱ 竹島考証』 正しい歴史企画団 p294~354 (注31)イ・ソンファン他前掲書 p287、289 ところで、当時、日本は国境を画定する過程で多少曖昧な状態にあった周辺地域を編入したが、鬱陵島と独島は排除したという点に注目する必要がある(注32)。その前年1876年に不平等条約である朝日修好条規を締結するほど日本と朝鮮の力学関係は日本に絶対的に有利に形成されている状況であったため、日本は独島を自国の領土に編入する試みができただろう。それにも拘わらず、日本は鬱陵島と独島を日本の領土から排除する太政官指令を発令した。その理由を解明できてこそ、日本政府の領土政策の一環である太政官指令の意味をより明確にできるはずだ。反対に、1905年に日本が鬱陵島から独島を分離して領土に編入した理由も説明が可能だろう。 (注32)太政官指令が独島は日本の領土ではないといったとしても、それが独島が朝鮮の地であることを認定するものではないという日本側の主張がある(イ・ソンファン(2013) 「独島に対する無主地先占論は成立するのか」 『領土海洋研究』6号(東北アジア歴史財団独島研究所) p294~297参照)。太政官指令の文言的表現だけを見ればこのような主張も可能だ。しかし、この主張は独島領有権に対する歴史的淵源を見逃している。独島に対する領有権の淵源が1699年の韓日間国境条約にあって、太政官指令がこれを継承して、また、両者が現実的に効力を維持しているという点を考慮すれば、この主張は明確に事実に外れる見解だ。 2)太政官指令における外一島の意味 1699年の渡海禁止令を継承した太政官指令は、「竹島外一島」を日本の版図外と規定した。ここで竹島は鬱陵島であり、「外一島」は独島だ。渡海禁止令を継承した太政官指令に「外一島(独島)」が明記された理由は何だろうか。太政官指令に「外一島(独島)」が明記されることによって、1699年の渡海禁止令に独島が含まれていたということを遡及して明確にしている。それだけでなく、渡海禁止令の竹島は竹島(鬱陵島)と松島(独島)を包括する名称として使われたということも知ることができる。 竹島(鬱陵島)が松島(独島)を包括する用語として使われた事例はその後もたびたびあって(注33)、先に述べた松島(鬱陵島)開拓願も独島を含んだものと見なければならない。 (注33)例えば1881年の松島開拓願の「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付」という表現でも鬱陵島が鬱陵島と独島を包括する用語として使われたという点が分かる。竹島(鬱陵島)が松島(独島)を包括する用語として使われた点は、独島研究で重要な意味を持つ。 これについては別項で扱うことにする。 「外一島(竹島外一島)」という表現は島根県の内務省報告で初めて使われて、内務省と太政官もこれをそのまま受け入れて使っている。すると島根県が松島(独島)という名称を置いて「外一島」という代用語を使った理由は何だろうか。島根県は付属文書として添付した「原由の大略」で「次二一島アリ松島ト呼フ」と明らかにして「外一島」が松島(独島)であることを明確にしていながらも、あえて外一島と表現したわけだ。内務省が竹島(鬱陵島)についてだけ照会したので、下級機関である島根県が大胆に「松島(独島)」という名称を使用できず消極的に「外一島」と表現したか、内務省が主島である竹島(鬱陵島)に対する調査を要請したのでそれに付いた附属島という意味で外一島といったものと推測される(「竹島外一島」という文言では外一島(独島)が竹島(鬱陵島)の付属島というニュアンスはない)。ここで使われた「外一島」という用語は松島(独島)を示す代用語として太政官指令文でもそのまま使われた。 前で言及したとおり、以前まで鬱陵島と独島を包括して竹島(鬱陵島)としていたものを、島根県が初めて二島を分離して表現した点に注目する必要がある。これは島根県が独島を鬱陵島と分離して認識し始めたものだが、その意味は何だろうか。鬱陵島渡海のための中間寄着地や鬱陵島の付属島以上に、独島に対する新しい価値(漁業などを発見した)ためだろう。言い換えれば、鬱陵島の付属島でなく独立した島としての独島に対する価値付与だ。内務省と太政官が島根県の表現をそのまま受け入れて使ったという事実は、内務省と太政官も竹島(鬱陵島)と松島(独島)を分離して認識したということを意味する。このような認識の転換は、1905年に日本が独島を鬱陵島から分離して自国の領土に編入することになる端緒を提供したものと推論することができる。 独島を鬱陵島の付属島や寄着地程度に認識していたとすれば、独島を分離して編入する発想はしなかったはずだからだ。それでも、この時点で日本が将来独島を分離して編入することを念頭に置いていたのではない。それなら松島(独島)を分離して明記しないで、渡海禁止令のように竹島(鬱陵島)だけを表記して余地を残しただろう。 <コメント> 「日本政府が鬱陵島と独島を編入せずに、かえって日本の領土では無いことをより明確にした理由は何だろうか」などと、他の「独島研究者」が言わないようなことを自問しているのですが、「外一島=独島」という信念は揺るがないので、後に続くいろいろな推論は全て妄想になってしまいます。 |
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