5月に入ってから、twitter上ではヴィーガンを攻撃するようなツイートが、目立って増えてきている。なぜ突然そのような現象が起きたのか。一説では、まとめサイト(アフィリエイトサイト)における仕掛けがあるという。
真偽のほどはさだかではないが、たとえきっかけがまとめサイトのアクセス数稼ぎにあったとしても、けして彼らを「アフィブログに釣られた情弱」とバカにしてはいけない。むしろ日本twitterにはヴィーガンに対して進んで攻撃的な態度をとるようなユーザーが潜在的にそもそも多かったことが、こうした大きな動きにつながった理由だろう。
私はヴィーガンではないし、菜食主義やヴィーガニズムについて特に専門的に勉強したこともない。しかし、ヴィーガンについてここまで偏ったイメージが流布され、攻撃されてしまう点については、「ネットの闇」を感じるほかはない。
日本のネット文化においてヴィーガンが嫌悪される理由を考えるなら、まず「享楽の盗み」*1が第一候補にあげられるだろう。それを念頭に以下のツイートをしたところ、多くのリプライをいただいた。
その多くははっきり言えばクソリプなのだが、そのクソリプを我慢してよく読んでみると、その傾向の中に、ヴィーガン蔑視の背後にある「享楽の盗み」の存在が、ますますにじみ出ているようにも思える。
リプライの中で一番多い内容は、ヴィーガンこそが肉食者の生活スタイルを脅かしている、というものである。その証拠として、実際に起きたヴィーガンの直接行動をあげる人もいる。
次に多いのは、ヴィーガンの肉を食べないというライフスタイルも享楽なのではないか、というものである。それに付随して、ヴィーガンのようなライフスタイルは先進国のセレブリティしか可能ではないという、事実に反する思い込みをしている者も多い(私の菜食主義者やヴィーガンの知人友人は、ほぼほぼ金のない人間ばかりである)。また、この主張のポイントは、肉を食べないというライフスタイルで享楽を得られるならその人もやればいいという話になるのだが、そうではなく、ヴィーガンの享楽は「彼らの」享楽であって肉食者の享楽ではないのだと、暗に述べているということである。
直接行動の問題は後で述べるとして、ヴィーガンとは我々の知らない享楽を得ており、そのために我々のライフスタイル(肉食)を侵食してくる存在なのだ、という認識は*2、レイシズムやセクシズムを支える思考と同一のものである。たとえば、排外主義者にとって移民は、マジョリティの文化とは異なる得体のしれない文化によって享楽を得ており、それをひっそりとではなく堂々と楽しんでいることによって、マジョリティの文化を破壊する存在なのである。
ヴィーガンは、ベジタリアンの中でもさらに徹底した肉食を禁じる立場のことを指す。ベジタリアンは肉食を制限する人のことであり、魚類や鶏肉は食べるという人もいる。サベジタリアンやヴィーガンになる理由については様々で、健康や宗教やその他ライフスタイルによって選択する人もいれば、動物の権利や農業畜産業の南北格差の観点(たとえば、先進国の食肉を生産するための牧畜により途上国の森林が伐採されている、生産された穀物が飼料になる一方で飢餓が放置されている、などの観点)からそれらを選択する人もいる。
個人的なライフスタイルの問題よりも政治的な問題を重視するヴィーガンが、他者に対しても肉食をしないよう勧め、ときにその主張も告発的なものになるのはやむを得ない。もし動物に人間と同等の権利があるならば、その権利を守るためには自分が食べないだけでは済まないのだし、人間社会の格差や差別という構造的な問題を解消しようとするなら、個人のライフスタイル以上のことをやらなければならないからである。
私は、人間と動物の完全なる平等という意味でのアニマルライツについては、現時点では支持してはいない。だが、人間の動物に対する「非人道的な」行為については、世界的には食肉産業の現場含めて革新的なスピードで規制されつつある。おそらくこの動きは不可逆的だろう。たとえばEUでは経済性を犠牲にしてでも鶏のケージ飼育を規制する動きが拡大しており、遅かれ早かれ日本に対してもこの圧力が強まっていくと思われる(ここでどう対応するかは議論が分かれるところであろうが)。動物に対して人間が行ってよい行為は、けして今なお自明ではないのである。したがって、人間と動物の完全なる平等という主張について、荒唐無稽なものとはしない。
また、食肉産業にともなう経済格差や差別についても、肉食を維持しながら解消することも論理的に可能だとは思うが、それは私が不勉強なだけなのかもしれず、肉食を廃止しなければそうした構造的問題を解消できないという可能性については排除しない。
したがって、菜食主義・ヴィーガニズムに賛成するかどうかはともかく、またそのことによって個人的に罪悪感をもつかどうかはともかく、は肉食を続ける以上、われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。問われることすら個人の自由の侵害だとするのは、民主社会に生きる人間として筋がよい態度とはいえない(もちろん、菜食主義者やヴィーガンの主張の中に差別的なものがあるのであれば、その意見については個別的に批判すべきである)。
ヴィーガン批判者の自意識は、自分たちはただ肉を食べているだけの無垢な庶民である、というものだろう。したがって、かれらの政治的な主張に巻き込まれるいわれはないと。しかし、無垢だろうが何だろうが否応なしに巻き込んでいく、また巻き込まれてしまうのが政治の力である。これまでそうしたことに気づかずに生きていけていたとすれば、それはマジョリティの特権にすぎない。そして「享楽の盗み」の妄想は、外部からの告発から、そうした居心地の良いマジョリティの世界を救うのである。
さて、そうはいっても、ヴィーガンは現に直接的な行動を行っている。それは妄想ではないのではないか、という声もあろう。実際ヴィーガンの一部が(たとえ一部にせよ)、肉屋などを「襲撃」するといった実力行使を行なっていることについては、どう考えればいいのか。
もちろん、そうした事実は存在していて、ニュースにもなっている。しかしそのことをもって、ヴィーガンが「我々」の生活様式を脅かしている、と主張するなら、やはりかれは妄想的なのである。それは、日本やアメリカのレイシストが、自らのレイシズムを正当化するために、黒人や在日コリアンの「実際の」犯罪を取り上げたニュースを探してきてあげつらうやり方と同じだからだ。
映画『デトロイト』は、一発のおもちゃの銃声から、白人警官が黒人たちに対して凄惨なリンチを行う。
このとき、銃が本物かおもちゃかは問題にならない。白人警官は銃の存在を過剰に恐れる一方で、銃声が聞こえたことを巧みに利用して黒人に暴力をふるう。銃声は暴力の原因ではなく、暴力の原因は白人警官のレイシズムにある。事件があって差別があるのではなく、差別者が事件を利用する。それ以上でも以下でもない*3。
海の向こうで、アクティビストたちがいくつかのパフォーマンスを行ったからといって、直ちに日本中の肉屋や焼肉店が襲われることはありえない。しかしその妄想に取り憑かれ、ヴィーガンに対してTwitterで愚にもつかない揶揄を行うという「反撃」に手を染めたというのなら、それは極めて恥ずかしいことを言っているということを自覚するべきだ。
すでに述べたように、政治的な問題意識を有するヴィーガンが、他者に肉食の禁止を勧めるのは当然のことである。その上で、その政治的主張をいかなる手法によって訴えるかはヴィーガニズムの問題ではなく運動論の問題である。日本に比べて直接行動を志向するアクティビストが多く、また理解者も多い国で、ヴィーガニズムの一部がより先鋭的な立場をとるのは、その運動論において理解しなければいけない。
もちろんその行為に賛成するか反対するかは別の話である。直接行動のパフォーマンスのやり方はもちろん、戦略的な有効性についても吟味されるべきだろう。個人的には、あらゆる政治的直接行動は原則としてなしとはしないが、小さな商店をターゲットにすることはやるべきではないと思っている。
最後に、ヴィーガンの不徹底性を批判する主張について言及しておこう。つまり、ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手をギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。個人的には、こうしたことを言ってくる手合いに対しては、相手が不誠実だと指摘するだけで、直接的には答える必要はないと思う。
「掌の中の小鳥」という寓話がある。ある盲目の賢者をやりこめてやろうと、ある少年が自分の掌の中に小鳥を握って問う。「小鳥は生きているか死んでいるか」と。「生きている」と答えれば、彼は小鳥を握りつぶすつもりである。「死んでいる」と答えれば、彼は小鳥を飛び立たせるつもりである。賢者は答える。「生きているか、死んでいるか、それは君の掌の上にある」他者をダブルバインドの状況において弄って遊ぶものは、そうやって遊んでいる自分自身が主体として際立ってしまったとたん、自分自身の不誠実さに恥じ入るしかなくなる。もっとも、恥の感情があればの話だが。
恥の感覚の有無は、「柏原発」だけが知っている。
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*1:端的に言えば、資本主義社会においては、自らが享楽するためには、享楽を盗んでいると想定される他者を必要とするということ。詳しくはスラヴォイ・ジジェク、酒井隆史・田崎英明訳『否定的なもののもとへの滞留』筑摩書房、二〇〇六年、三八五頁以下。
*2:個人のライフスタイルとしては干渉しないといいながら、ヴィーガンが肉を食べて肉食主義者に転向した話とか、豚を積極的に食べるムスリムの話がウケるのは、彼らが禁欲を享楽と認識し、自分たちの快楽的生活を脅かすものとして認識しているからである。「やっと彼らも、楽しむ方法を学び、「私たちの同類になりつつある」、というわけなのである。」前掲書、三九三頁。
*3:差別主義者の恐怖と暴力の関係については、アクチュアルな話題としては「痴漢に対して安全ピンで自衛するのは是か非か」というトピックについても通用するだろう。安全ピンの恐怖におびえた男たちはレイプによって報復すると脅迫し、自らのセクシズムを暴露するのである。