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【コラム 人生流し打ち】

「ドラゴンズと火災」のトラウマ 栄光だけではないナゴヤ球場悲劇の歴史

2019年3月6日 18時35分

2回裏、火災報知機が鳴り試合が一時中断する中日―DeNA戦

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 小牧球場の中断は報知機の誤作動だったようで安心した。ドラゴンズと火災。筆者はトラウマになっている。というのもナゴヤ球場の前身である中日球場は1951年8月19日の火災で焼失し、ファンが犠牲になる大惨事が起こっていたからである。

 もちろん筆者が生まれる前の話だが、当時居合わせた人の話を聞いて慄然(りつぜん)とした。中日の高木守道元監督もスタンドにいた一人だった。

 「当時10歳でね、生まれて初めての野球観戦だったんだよ。確か一塁側スタンドの中段にいたんだ。『火事だ』『火事だ』と大騒ぎになり、人波に押されてグラウンドに飛び降り、バックスクリーン横の通路から必死に逃げたよ」

 巨人戦の試合中で、選手たちは必死に救出作業をしたそうだが、当時木造だった球場に火が回るのは思いのほか早く、死者は4人、負傷者は300人超にのぼった。

 杉下茂さんによると、選手たちは翌日、病院へお見舞いに出向いたという。「ところがね、『野球選手は野球を頑張ってください』と言われたんだよ。『それが私たちの力になるんです』とね」

犠牲者には、姉と2人暮らしだった13歳の少年が含まれていた。外野手だった坪内道典さん(故人)はその事実を新聞記事で知ったそうだ。残された姉の気持ちを考えただけで胸が張り裂けそうになる。

 寮長をつとめた坪内さんからは生前こう聞いた。「1球もおろそかにしてはいけない、あの時そう決意したんだよ。あの(火災の)シーンは忘れようと言ったって忘れられるもんか」 今年、ナゴヤ球場でオープン戦が行われる。ここには栄光だけでなく悲劇の歴史が刻まれている。あらためて亡くなったファンの冥福を祈り、惨劇を目にした当時の選手たちの気持ちが今に伝わればと願う。(増田護)

 

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