第二章 第二節 不法侵犯及び銃撃事件 一 第一次侵犯状況 1953年5月28日午前11時ごろ、日本の島根県浜田港から島根丸、約80トン級の無電を装置した水産試験船と推測される一隻に船員約30名が搭乗し、そのうち6名がカメラ、双眼鏡を携帯して上陸し、同島の周辺において漁撈中の欝陵島北面竹岩洞の金俊赫(32歳)に対して日本語で話しかけたものの言語不通で通じなかったが、その者らは金俊赫に日本の雑誌(読切日刊紙)一冊、タバコ3箱を贈与し、漁撈状況を見て、同日午後1時に退去した事実がある」と内務部が報告して来た。日本政府はこの侵犯事実を是認するのみならず、逆に6月22日付けで次のような抗議の覚書を臆面もなく伝達して来た。 6月22日付け亜二第167号日本側覚書 外務省は、駐日韓国代表部に敬意を表し、日本領海を韓国漁船が侵犯し、前記海上において漁撈したことに関して、次のとおり通報する光栄に浴する。 1 1953年5月28日午前11時に日本の島根県水産試験場所属の試験船島根丸が韓国の漁夫30名が発動船あるいは漁船により竹島とその領海において海藻と貝類を採取しているのを発見した。前記日本船舶の船員がその地点において韓国漁夫から入手した情報によれば、彼らはたびたび欝陵島から竹島海上に漁撈に来るという。彼らは、また、海藻等を乾燥させるために竹島に上陸するという。 2 駐日韓国代表部へ送付した1952年1月28日付け外務省覚書と、また、同年4月25日付け亜二第21号外務省覚書において明言したとおり、竹島が日本領土であることは議論の余地のない事実である。 3 したがって、日本政府は、韓国人によって犯された日本領土への不法侵入の事実に対して韓国政府に抗議を提出し、将来に同様のことが再発しないようにする効果的で適当な措置を要求する。 [附録8参照] この抗議ならぬ抗議覚書に対して、6月26日付けで駐日代表部から反駁して次のような覚書を送付した。 6月26日付駐日代表部覚書 駐日韓国代表部は、日本外務省に敬意を表し、いわゆる「韓国漁船が日本領海に侵入して同海域において漁撈した」件に関する1953年6月22日付け外務省覚書に言及し、次のとおり外務省に回答する光栄に浴する。 1 上記覚書の第2項は、「リアンクール岩」として知られる「独島」が日本領土の一部だとする。しかし、本代表部は、「独島」は大韓民国の領土の一部であることは疑うところなく明白であり、このことは、1952年2月12日付けの本代表部覚書において外務省に通告したことがあるので、上記島嶼の領有権に関してはさらに論議するところは無いと信ずる。 2 よって、外務省覚書の第1項において言及する境遇に関しては、大韓民国政府は、前記島嶼の韓国領海において海藻及び貝類の採取に従事した約30名の韓国人は、合法的であり適当であると考える。 3 したがって、日本政府は、前記の韓国島嶼の領海において前記韓国人によって行われた活動に関し、韓国政府に対していかなる抗議も提出する地位に決して無いものである。 [附録9参照] 前述の覚書の交換を通じて我々が感得できるのは、古来から韓国漁民が欝陵島の属島である独島に出撈しているという事実が再確認されたことを日本政府が是認するという点だ。日本は、1905年以前には無主物であった独島を1905年2月22日付け島根県告示第40号により「この島嶼を竹島と称し、自今本県所属島司の所管」と定め、それ以後に韓国によって請求されたことのない日本領土だと言うのだ。 しかし、韓国漁民が独島において漁撈をしていたことは、1904年11月に日本軍艦対馬が独島を実測する際に目撃し、「毎年夏になれば海驢を採るために欝陵島からこの島に来る者が数十名の多数に達するときがある」と記載した『朝鮮沿岸水路誌』[第一編第二章第五節二参照]の記事で知ることができ、日帝支配下においても出撈し、8・15解放後にも米空軍の爆撃によって犠牲者が出た事件があって、古来から韓国人が欝陵島の属島である独島に毎年出撈していたことを論証している。したがって、1905年以前には無主物であったというのは言語道断の議論であり、林子平の地図等にも朝鮮領土と図示されていることに照らし、愚かな理論だ。 ところで、日本外務省では、7月13日付覚書を送付して来た。 7月13日付亜二第186号 日本外務省覚書 外務省は、駐日韓国代表部に敬意を表し、日本の領土である竹島に不法上陸し、韓国人側において同島に隣接する日本領海において不法漁撈をなしたことに関し、次の抗議を行う光栄に浴する。 1 韓国代表部は、1952年2月12日の覚書において「マッカーサー・ライン」と「若干の外廓地域の日本からの政治上及び行政上の分離」に関する1946年1月29日付SCAPの覚書第677号に論拠を発見し、同島に対する韓国の請求を保証し確認する事実を主張する貴政府の見解を記述しているが、1952年4月25日付け亜二第21号外務省覚書において既に指摘したように、そのような根拠のない主張は、竹島が恒に長久の歴史を通じて日本領であったという厳粛な事実を変更する目的の助けになるものではない。 2 1953年6月26日付け代表部覚書において説明したような竹島領有に関する韓国政府の主張は、前記4月25日付け外務省覚書において強調した理由により全く発見することができず、日本政府は、現在、韓国人が再度竹島に不法上陸し、同島附近の日本領海において不法漁業を行う場合に、領土権の保全のために適切且つ必要と看做されるあらゆる措置を取らざるを得ない。 3 竹島が日本領だということは、その歴史と、また国際法上明白に確立された事実に照らして議論の余地がない。韓国政府が犯している誤解を明瞭にする見地から、現在の日本政府の見解をさらに説明する声明書を添付する。 [附録10参照] この覚書の別添として「竹島に関する本政府の見解」という長文の独島領有権に関する理論を展開する声明書が送付された。この声明書に関しては、必要によって本編第三章第一節で触れる。 二 第二次侵犯状況 1953年6月11日から同年7月1日まで同島に滞留中であった欝陵島中面苧洞の漁業鄭元俊(34歳)ほか5名が日本船の侵犯状況を目撃した陳述によれば、1953年6月25日午後4時30分ごろ、日本人が搭乗して米国旗を掲揚した木造船約100トン級の一隻が来侵、乗員は未詳だが、そのうち9名は同島に上陸し前記6名に対して滞留している理由を問い、姓名を聴取、記録して、焼酎二升、タバコ6箱、石油一升、古ロープ約20メートルを贈与し、韓国人及び独島遭難漁民慰霊碑を撮影した後、同日午後7時に退去した事実があり、 三 第三次侵犯状況 同年6月27日午前10時ごろに前記6名の目撃したところによれば、所属不詳だが米国旗を掲揚した青色に塗装された日本漁船約60トン級が来侵、乗員は未詳だが、日本人8名が同島に上陸し、漁撈中であった前記鄭元俊ほか5名に対して滞留の理由と住所、姓名を質問した後、白米4升、タバコ12箱、洋酒4本(小型瓶)、マッチ4箱(小箱)、携帯用磁石一個を贈り、同日午後3時ごろ退去した事実があり、 四 第四次侵犯状況 前記の漁撈中であった鄭元俊ほか5名がまた目撃して陳述したところによれば、同年6月28日午前8時ごろに日本艦艇2隻(鄭元俊ほか5名の陳述によれば、駆逐艦と認められるが所属は不明であったという)は米国旗を掲げて来侵、搭乗していた日本人約30名は拳銃、カメラなどを携帯し、事前に製作して持ってきた標木及び掲示板(別表図面の如し)、すなわち日本島根県穏地郡五個村(長さ2メートル30センチ、幅15センチ、正面角型)と記した標木2柱、掲示板に注意として日本語で「日本国民及び正当な手続を経た外国人以外は、日本政府の許可なくして領海(島嶼沿岸3浬)内に立ち入ることを禁ずる」及び、竹島(沿岸島嶼を含む)の周囲500メートル以内は第一種共同漁業権(海藻貝類)が設定されているので無断採取を禁ずるという内容に島根県と墨書で記入された各々一個ずつとセメント一袋を運んで来て、前記の標木と掲示板を同島に建立されている独島遭難漁民慰霊碑の周辺に思うままに建立した後、韓国人の漁撈状況、滞留起居、食事の状況等を撮影すると共に何処へか無電を打電し、再び滞留経過について訊問した後は、上陸した日本人中の韓国に18年間居住していたという者を通じて韓国語により、「本島は日本の領土であり、今後は本島に侵犯作業をすれば日本警察に引き渡される」と脅迫的な言辞を弄し、同日午後10時ごろ退去した事実あり。 62p~63p 図 以上が6.25~7.1の侵犯事件についての内務部の報告であり、その報告には7月1日の侵犯事件は記録されていない。 (52~63p) |