(続き) 太政官は、そういう一連の事態、内務省の地籍編纂に関する照会書と東京部に提出された「竹島渡海願」、外務省に提出された「松島開拓之議」の報告を通じて島根県地籍編纂に係わって内務省が問い合わせた「竹島外一島」が「磯竹島略図」の「松島」と判断して「伺いの竹島外一島の件について、本邦は関係がないことを旨すること」という指令案を迅速に下すことができた。 杉原の場合「竹島渡海願」、「松島開拓之議」については全く言及しないまま、島根県が提出した添付資料1~4号にだけ限定して論理を展開している。これらの資料の検討無しに、太政官の判断した資料が内務省から受けた添付1~4号の資料で「松島」(独島)に関する言及がなかったから太政官がその「竹島」(鬱陵島)に関する史料だけを根拠として日本と関係ないと判断して「竹島」(鬱陵島)が本邦と関係ないという指令を下した可能性が高い、という杉原の主張は誤っているのだ。また、内務省が島根県の伺いを太政官に照会する時に「竹島外一島」という題目を用いたのは、稟議書によく見られるように元々の島根県の伺いにあった題目をそのまま案件名として使ったのだという論理を広げるのも説得力がない。 杉原の境二郎に対する誤った認識 杉原が注目したのは、石見国の士族大屋兼助外一名が提出した「松島開墾願」という資料だ。大屋兼助外一名の「松島開墾願」を明治政府に提出したのは島根県令境二郎だった。 彼は、明治9年に島根県が内務省に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を出した当時の島根県参事だった。大屋兼助外1名の「松島開墾願」を明治政府に提出した境は、「松島開墾願」の文案の中で、今回の開墾願いに出て来る「松島」については、自身が明治9年に内務省に島根県の地籍に登載すべきかを質問した時に太政官から日本と関係ないという指令を受けたことを想起しつつ、大倉組が「松島に渡航して材木伐採をしていることを見ればその後判断が変更になって日本領になったのですか?」という質問をしている。 杉原は、明治9年に「竹島外一島」の用語を使って地籍編纂の件を提出した境二郎がその島を「松島」としたことと、大屋たちが言う「松島」が伐木と農地として開墾が可能な島だという点を挙げて、現在の「竹島」(独島)ではあり得ないと断言している。 杉原が指摘したように、大屋たちが提出した「松島開墾願」の開墾の対象になった島は「松島」(独島)ではなく「竹島」(鬱陵島)だ。しかし、明治9年に内務省地理寮が「竹島」に関する質問をしたのに加えて敢えて「竹島外一島」の地籍編纂を内務省に質問した境が、大屋たちが提出した「松島開墾願」における「松島」が現在の「竹島」(独島)ではなく「竹島」(鬱陵島)だと考えただろうか? この時の「松島」を「竹島外一島」の「外一島」すなわち「松島」(独島)だと把握したと言うのが理にかなう。 大屋は本人が言う「松島」すなわち「竹島」(鬱陵島)に行って見たわけだが、境は「竹島」と「松島」に行ったことがない。大谷・村川家の記録に基づいて「竹島」(鬱陵島)へ行く途中にある島であり、その路程において中間寄着地として、あるいは漁業活動をしたところと把握したのだから、当然に「竹島外一島」の「外一島」を「松島」(独島)だと考えたのだ。そういう境であったから、「松島」(独島)を日本領とする判断の変更があったのかを明治政府に質問したのだと見なければならない。 結語 杉原は、明治9年、境二郎が島根県参事として内務省に質問をした「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と、大屋兼助ほか一名が提出した「松島開墾願」を明治政府に問い合わせた人物が島根県令である境二郎であったことに注目して論議を展開している。 杉原が注目したのは、吉田松陰が米子の大谷・村川家が「竹島」に70年余り渡海した元禄時代の「竹島」一件について知らなかったという事実だ。彼が知らなかったので弟子たちにも教えなかったから、その門下で修行した境二郎が明治9年「日本海内地籍編纂伺」を提出した時の大谷・村川家門の「竹島」航海に関する添付資料に過りが多いことを見逃したのは、この件に関する知識が不足していたために生じた可能性があるとした。 しかし、吉田から「竹島」開拓の件に対する知識を習得した境は、大谷・村川家の「竹島」と「松島」に関する記録を見ながら、「竹島外一島」の「竹島」が鬱陵島で「松島」は独島であることを自覚して「竹島外一島」という二つの島についての質問を内務省に提出したと考えなければならない。ただ、大谷・村川家の資料だけを通して認識したから「松島」が無人島であり開墾することができる土地ではないということを知らなかったのだと見なければならないだろう。 (終) 明治10年太政官指令に関する日本の主張の批判 キム・ホドン 嶺南大学独島研究所教授 独島研究ジャーナル/韓国海洋水産開発院独島・海洋領土研究センター 2012年春号(第17巻) <コメント> 「「竹島渡海願」、「松島開拓之議」については全く言及しないまま」と言っても、太政官指令に関する一件文書の中にその2件のことは全く出てこないのだから、内務省~太政官がその2件のことを含めて考慮したなんて言えません。杉原論文にその2件のことが出てこないのは当たり前でしょう。 この論文の著者は、一つだけいいことを書いています。「大屋は本人が言う「松島」すなわち「竹島」(鬱陵島)に行って見たわけだが、境は「竹島」と「松島」に行ったことがない」という一文です。境さんは竹島にも松島にも行ったことはない(部下職員に実地調査をさせたわけでもない)のだから、竹島と松島がどこにあるどういう島なのか、自分が収集した古記録以上の知識はないわけですね。だから、「松島は独島であることを自覚して」などと言う現代人がするような判断ができたわけではないのです。 まあ、とにかくこんなふうに杉原論文を批判したところで、現実の竹島問題には何の影響を与えることもありません。この批判文は、明治14年の内務省と外務省のやりとりには中途半端に触れるだけでその意味を考えようとはしていないし、明治16年の明治政府の最終通達の存在も一切視野に入っていません。 |
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こんばんは!この問題に対する正面からの反論は、日本広しといえども、管理人さんしかできないと思います。
他の有利な主張を持ち出さず、お互い正面から反論することが大事なんですね。両国にとって。この論者の問題提起もいいですね。この問題最大のポイントです。結論としては、この問題は、管理人さんの、この前の太政官指令PartⅢ全9回に示したとおり、地理混乱が解消した後の明治政府の見解(明16通達)の中から、理解すべきということですかね。
太政官指令の当時(1877年明10年)は、竹嶋松嶋は2島説であったことは確かなんですよね。しかし、竹嶋→どの島、松嶋→どの島との正確な比定にまでは、至っていない。この頃は「勉強すればするほどわからなくなる状態」(仮に当たったとしてもマグレ当たり)です。
この時点(1881年明14年)では、内務省は「外一島」は松嶋とするも鬱陵島とまでは把握していない段階ですかね。もちろん島根県令境二郎も、竹嶋→鬱陵島 松嶋→竹島(韓国名;独島)までには至っていない。論文のように決め付けることはできない。
2013/9/15(日) 午後 9:29 [ Gくん ] 返信する
過分のほめ言葉をいただいて恐縮の行き当たりばったりですが、まあ韓国人の論者には無理でも、日本人の論者で「太政官指令は鬱陵島と現竹島を版図外と認定した」と主張する人には、少なくとも「磯竹島略図で決まりではない」ということを納得していただいて、それから議論を再構成してほしいものだと思いますね。
上のキム・ホドンという人は太政官指令の俗説を固く信じてそれを前提に杉原説を批判しているのですが、せっかく杉原説を検討したなら、そこに含まれている新たな可能性について考えて見ればいいのに、批判して終わりですね。彼らの限界でしょう。
太政官指令の当時(1877年明治10年)は、内務省は竹嶋松嶋2島説であったことは確かですね。ただ、「具体的にどこにあるどういう島なのかは知らない」というところがポイントだと思います。境さんも同じです。
2013/9/16(月) 午後 5:52 [ Chaamiey ] 返信する