日韓近代史資料集

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「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と太政官指令「竹島外一島の件は本邦と関係なし」についての日本側主張の批判
 
 杉原隆の<明治10年太政官指令-竹島外一島の件は本邦と関係なし-をめぐる諸問題>は、「竹島外一島」が「竹島」とか「松島」と呼ばれる鬱陵島だという観点を持って、これを立証するための主旨で作成されたものだ。
 
 
太政官指令に対する杉原の誤った主張
 
 杉原は、元禄12年に日本人の「竹島」渡海禁止が完全に成立したということを明確にした後に、添付された14号資料には「竹島」(鬱陵島)に対する記述だけがあって「松島」(独島)に対する言及がどこにもないということに注目している。
 
 添付資料14号は、元禄年間の「竹島」渡海禁止に関して対馬藩から朝鮮に通知する書信とその答信に関する内容を記している。彼は、添付14号の資料において「松島」(独島)に関する言及がないから「竹島」(鬱陵島)に関する史料だけを根拠として日本と関係ないと判断して「竹島(鬱陵島)が本邦と関係ない」と言う指令を下したという点を浮き立たせている。
 
 また杉原は、内務省が島根県の照会を太政官に送るときに「竹島外一島」という見出しを用いたこと、そして太政官が「竹島外一島の件は本邦と関係なし」と言う指令を下す時に「竹島外一島」と表現したのは、元々の島根県の照会にあった表題をそのまま案件名として用いたものだ、という論理を展開している。
 
 そういう主張は、一見すれば妥当性を持つものと考えてしまいやすい。普通、公文書を作成する場合、それに対する返事をする場合、相手が送って来た公文書の題目をそのまま使うのが一般的であるという点で、杉原の考えはもっとものように見える。しかしながら、太政官指令文には「伺いのあった竹島外一島の件に関して本邦は関係がないということを旨とすること(伺之趣竹島外一島之儀ハ本邦関係無之儀ト可相心得事)」とする指令案が付けられている。杉原が主張するところによれば、この指令案さえも島根県が上げた案件名をそのまま用いたと言わなければならないのだが、そんな論理は全く説得力がない。
 
 杉原が論文で明らかにしたように、島根県では添付14号の4種類の文書の外にも下の<1>の「磯竹島略図」を添付したが、そこには「松島」が地図上に表記されている。


<1>島根県が添付した「磯竹島略図」(独島部分を拡大)
 
 島根県が提出した「磯竹島略図」を見れば、「外一島」が「松島」であることを確かに知ることができる。当初、内務省の資料では「竹島」に関する質問ばかりをした。島根県から内務省に送った伺い文書では、「竹島外一島」として「竹島」と「松島」が描かれた「磯竹島略図」を添付した。内務省と太政官が島根県の伺いを検討する中で、「外一島」に対して全然注目しなかっただろうか?
 
 杉原は、内務省が太政官に送った317日の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」とそこに添付された14号資料に基づいて太政官が判断したとするが、内務省が言ったように「版図の取捨は重大な事件」にもかかわらず4日めである320日にその決断を下した理由は何なのだろうか?
 
 それが可能だったのは、1877(明治10)127日、島根県の士族である戸田敬義が提出した「竹島渡海請願書」を受け付けて、それに対する論議がその間にあったからだった。戸田が、明治維新以来、北海道の多くの荒れ地を開拓して続けて良い成果があることを知るや、「竹島」というのも我が国に属する小さな島であるのかも知れないということに考えが及んで深い愛情を持つようになったり、去年小笠原島に鎭事官を派遣したという話を聞くや「政府が開懇事業に非常に注意を傾けていることを喜んだ」と言ったことを通じて見れば、彼は明治時代の島の開拓、特に小笠原島の領土編入に鼓舞されて鬱陵島への渡海を請願したものと見られる。戸田は313日に再び請願書を出して、渡海が実現すれば日本の土地が大きく拡張され、国家の利益となり、外国人との関係で不利な事も発生しないのみならず、国内の無産者たちを万分の仕事でも助けることができるということを立てながら、東京府庁が単独で決められることでないならば関係の部署に速やかにいかなる措置でも取ってほしいと求めた。
 
 1876年の小笠原諸島の領土編入と日本による朝鮮の開国は、「竹島渡海禁止令」によって鬱陵島への渡海が禁止されていた島根県の人々に「竹島」渡海を再開することができる好機に思われた。1876105日、島根県に地籍作成のために派遣された内務省の職員が島根県の地籍編制係に「竹島」(鬱陵島)を地籍に含ませるべきかどうかを内務省に問い合わせてくれという公文書を送ると、「竹島」渡海を念願していた島根県の漁民たちの願いを伺い文書(1876.10.16)に込めたものと見ることができる。
 
 さらに、外務省でも既に18767月に武藤平学の「松島開拓之議」が受け付けられていた。武藤の「松島開拓之議」をよく見れば、「松島」と「竹島」はいずれも日本と朝鮮の間にある島々で、「竹島」は朝鮮に近くて「松島」は日本に近いとしたが、「松島」に関する言及を見れば「竹島」、すなわち鬱陵島であることが明らかだ。そういう次第で、外務省では武藤が開拓したいという「松島」が「竹島」(鬱陵島)なのか「松島」(独島)なのかを巡って甲論乙駁の論争が起きた。しかし、「竹島」と異なる一つの島の存在を正確に分かっていた。
 
 
 
 
(続く)
 
 
 
<コメント>
 
 太政官の判断が早かったのは、政府が東京府庁に提出された竹島渡海願いや外務省に提出された松島開拓之議を既に検討していたからだ、という意見のようなのだが、これは何を根拠にそういうことが言えるのだろうか。
 
 外務省の松島探索の物語である『竹島考証』には竹島渡海願や松島開拓之議のことは出てくるけれども、太政官指令のことは一切出てこないのですよね。ということは、外務省は太政官指令には関わっていないはずなのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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