| (続き) 第9条は官船準備のための対策だ。鬱陵島には内陸に航海できる船舶は無かった。したがって日本人の潜入と不法が強行されても直ちに政府に知らせる方法がなかった。島民が必要な米・塩・麻・木綿やその他の日用品を相応の時に購入することも難しかった。島民たちは、これらのものを全羅南道の船舶から供給されたりもした。しかし日本の船舶に依存する場合も多かった。日本の船舶が持ってくる商品は、島民が生産する豆・落花生・麦・海産物と交換された。そして交易する過程で日本人たちの不法伐採を幇助する島民も現れることになったのだ。だから鬱陵島としては内陸に往来する船舶を備えることが切迫した実情だった。禹用鼎はこういう島内の実情を見て、島民が開運丸を購入しようとするのを見て資金をやりくりしてくれた(注63)。それと共に、鬱陵島の物産は開運丸だけで運ばなければならず、貨物運搬は可能ならば鬱陵島の船にするものの、外国船舶で輸送してもその貨物はひとまず鬱陵島会社所属とする告示を発した(注64)。 (注63) ソン・ビョンギ 2007 前掲本 182~183p (注64) 柳美林 2012 前掲文 100p 裵季周は史料①で見るように韓国沿岸との交通が開かれていなかったために非常に困難を感じて、その結果頻繁に日本人の渡航を薦めることに努め、また、直接島根または神戸などの地方に行って鬱陵島産出の槻木売買を特約するなど、次第に日本人がこの島に渡航する道を開いたと日本が評価するように、鬱陵島行政の急務は船を用意することだと考えた。そして初めての鬱島郡守としての在職時、開運丸が破船した後、前節で言及したように鬱陵島の島民たちが協議した結果、鬱陵島の商権を外国人すなわち日本人に奪われるのは貨物を運ぶ船舶がないためだと結論付けて、島民たちがそれぞれ股金(株式会社の資本金)を出資して保合丸2隻を購入しようと決めたのを、裵季周が開運丸が破船した後に運搬船2隻の費用を島民に賦課しようとしたが一部島民の激しい反発に遭ったという事実がある。 また、鬱陵島の在留日本人の二大派閥を率いた畑本とワキタが自分の船に荷物を積んで出港しようとするとすぐに、裵季周と崔秉鱗がチャンニョン号が着き次第便乗して釜山税関に行って、船体と貨物を押収して畑本などを鬱陵島から退去させようと島の韓国人らと協議したことのために金性述が自殺して、結局、裵季周が鬱陵島から逃走した経歴があった。そのような裵季周としては「郡規」に官船購入に関する条項を入れざるを得ない。その船の購買費用は不法伐採の代金を公のものとして購入するという意向を明らかにしている。 第10条は、その他の郡規は本郡で協議して決めるということを内部に明らかにしたものだ。 裵季周は以上のような「郡規」を内部で承認してほしいと「鬱島郡節目」を上げた。その節目を内部で検討し、「後録」を入れて内閣総理大臣尹容善の決裁を受けて裵季周に戻したのが前章の原文に含まれている。内部の「後録」には鬱島郡から政府に香木200斤を隔年に進上することと戸布銭500両を毎年度支部(たくしぶ。大蔵省のようなもの)に納めることを明示している。1899年6月頃、内部は裵季周を再び島監に任命して規則を指示したが、そこに「魚と豆に関する税金は事実のとおり調査して本部に上納すること」が入っている(注65)。それに加えて「鬱島郡節目」の内部の「後録」では、献上品と戸布銭まで受け取るという姿勢であったことが分かる。 (注65) 『皇城新聞』1899年6月15日‘雑報’「仍任裴監」 Ⅳ 結び この文は、韓国学中央研究院で東海と西海、南海の島々の古文書を通じて島々の社会像を調べてみるという企画課題から出発したものだ。それで「鬱島郡節目を通じて見る1902年代の鬱陵島の社会像」という題名を考えた。「鬱島郡節目」が2010年に公開された以後、しばしばこの資料は独島に関する行政管轄の証拠として把握されている。「鬱島郡節目」には「独島」に関する言及が一つもない。それで「鬱島郡節目」の原文全文を紹介して、それを通じて1902年の鬱陵島の社会像を簡単に描き出すという考えからこのテーマを構想した。 研究を進めたところ、果たして1902年3月7日に裵季周が鬱島郡守に再採用された後に鬱陵島に赴任したのかという疑問を感じた。それで裵季周の行跡を追跡することに多くの紙面を充てた。そうした意味で、この文は鬱陵島島監と鬱島郡守裵季周の追跡記だ。だから題名を変えた方が良くはないかとも考えたが、企画課題として用意されたという点、また裵季周の行跡の追跡を通じて鬱陵島の社会相を理解できるという点から、題名は直さなかった。結局、そうした点から裵季周の行跡の追跡を通じて鬱陵島の社会像を説明しようとする考えのために、冗漫な文章になった。 裵季周は鬱島郡守に1902年3月7日に再採用されたが鬱陵島に赴任できず、最初の鬱島郡守としての行跡のために裁判に付され、結局免職になった。そのような状況において、裵季周はソウルで自身が「郡規」を施行する目的で「鬱島郡節目」と名付けて内部に上申し内部の裁可を受けてそれを得たが、鬱陵島に入ってハングルで書き写して各洞に掲示することはできなかった。施行されることがなかった「鬱島郡節目」を指して、独島を含む鬱陵島の所轄区域を大韓帝国が実効的に経営した証拠として注目するほどの価値があると評価するのは、問題があると考えられる。 「鬱島郡節目」は鬱陵島の各洞に掲示された「郡規」ではないが、その節目を通じて1902年代の社会像を垣間見ることができる意味ある資料であるのは明らかだ。この節目はハングルに翻訳して謄写して各洞に掲示しようとしたもので、日本人ではなく本国人を対象にした「郡規」だ。しかし、節目には鬱陵島在留の日本人との対立が深刻に示されている。当時、鬱陵島の懸案は日本人が行う無断伐木と家屋買い入れだった。また、鬱島郡の行政体制をどのように確立するのか、税収をどのように確保するかという問題があった。「鬱島郡節目」にはそれが含まれている。特に、序文には鬱島郡守と鬱陵島住民との対立が現れる。 「鬱島郡節目の収税条項は1900年代大韓帝国勅令第41号の延長線上に出てきたものだ。そして大韓帝国勅令第41号の収税条項は呉相日と裵季周が当時行っていた非開港場交易の収税慣行を政府が認定したものだ。収税の品目には韓国人が採取したワカメと造船用木材、穀物も含まれているが、節目にいう「出入りする貨物」は主に対日輸出貨物を示していて海産物も含む。海産物にはアワビと右多くの歌詞リ、ナマコ、イカ、アシカなどが入っていて税金の納付者は日本人だった。アワビとテングサは鬱陵島だけでなく独島でも採れたし、アシカは20世紀始めには独島だけにいる動物だった。ところで、大韓帝国政府はこれらの品目の徴税権を鬱陵島の首長に委任した。日本が輸出貨物に定めた韓国の徴税権に同意して、その貨物に独島産の海産物が含まれているという事実は、日本が独島の徴税権を認めたことを意味する」という見解は、「大韓帝国勅令第41号」と「鬱島郡節目」の「収税」条項を間違って理解したものだ。それは鬱陵島に住む本国人に対する収税条項だ。「大韓帝国勅令第41号」と「鬱島郡節目」を非開港場交易の収税慣行を政府が認めたとすれば、輸出税に対する韓日両国の論議と大韓帝国が鬱陵島在留日本人の撤収を要求する権利がないことになる。それは、鬱陵島に在留日本人を創り出そうとする日本の画策に翻弄された鬱陵島島監と鬱島郡守が輸出税を徴収したことから現れた問題だ。振り返って見れば鬱陵島島監と鬱島郡守がそこにうまみを感じていたので、結局島監と郡守は何度も交替したし任命されても赴任できなかったのだ。これが1902年代の鬱陵島の社会相だ。 「鬱島郡節目」を通じて見る1902年代の鬱陵島社会像 キム・ホドン 嶺南大学独島研究所研究教授 <コメント> 翻訳終わり。しかし、この文章をどこからダウンロードしたのか分からなくなってしまった(汗)。 鬱島郡節目のことが初めて報道されたのは、もう4年近くも前のことになるんですね。正月のお祝い記事で大々的に出てきたのですが、このブログにも転載しています。 ここらへん↓です。 新春特報!「大韓帝国は独島を実際に経営した」 「独島」は出てこなくても「独島の史料」だ! 柳美林さんは大得意だったのでしょうが、今回、キム・ホドンさんにガツンとやられちゃいました。 とはいえ、柳美林は島根県の『竹島問題100問100答』に対する反論「韓国の1900年の勅令で竹島は韓国の領土になったのか (島根県Q85)」http://takeshima.academy.jp/?p=275 の中で、一部キム・ホドンさんの説明を受け入れて「鬱島郡節目は大韓帝国が独島を実際に経営した証拠だ」というような直接的な言い方はしていませんが、しかし、竹島のアシカ漁に対して鬱島郡が課税したような形になっていることについて、日本ではそんなことはしなかったのだから、このことはやはり大韓帝国が独島を実際に経営した証拠だという主張をしていますね。節目自体の効果の主張はあきらめたようですが、課税の主張に絞って主張を継続しているわけです。その主張と、上のキム・ホドンさんの収税についての評価は一致しているんでしょうかね、それともずれているんでしょうかね。そこまで真剣に読み込むのはめんどうなので、とりあえず資料の紹介で終わることにします。 なお、↓こちらにも記事があります。 1902 - 大韓帝国内部 『鬱島郡節目』 |
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>>施行されることがなかった「鬱島郡節目」を指して、独島を含む鬱陵島の所轄区域を大韓帝国が実効的に経営した証拠として注目するほどの価値があると評価するのは、問題があると考えられる。
こんなことが言えるようになったんですねぇ。日本に有利なことを言ったとみなされると社会的に抹殺される韓国で、このような主張を公にするとは一大決心が要ったのではないでしょうか。
2014/12/1(月) 午前 1:55 [ Makoto ] 返信する
この論文はどういう意味合いなんでしょうねえ。キム・ホドンさんという人は太政官指令についてはお決まりの反論をしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/55772977.html
今回の鬱島郡節目の件は、一応、史料を厳密に調べた結果がこうだったからそのとおり書いただけだという印象はあるんですけどね。スタンスは良く分かりません。
2014/12/3(水) 午後 11:21 [ Chaamiey ] 返信する