「鬱島郡節目」を通じて見る1902年代の鬱陵島社会像 キム・ホドン 嶺南大学独島研究所研究教授 (翻訳 続き) 2 「欝島郡節目」に現れた1902年代の鬱陵島の社会像 「鬱島郡節目」は鬱陵島の各洞に掲示された「郡規」ではなかったが、その節目を通じて1902年代の社会像を垣間見ることができる意味ある資料であるのは明らかだ。この節目はハングルに翻訳して謄写して各洞に掲示しようとしたものであり、日本人ではなく本国人を対象にした「郡規」だ。当時鬱陵島の懸案は日本人が行う無断伐木と家屋買い入れ、行政体制、そして税収問題であった(注57)。 「鬱島郡節目」にはそれが含まれている。 (注57) 柳美林2010前掲文105p 第1条で、日本の潜越人が不法伐採することを特に厳禁することを一番最初に言及している。日本人の鬱陵島在留が「犯越」であることを明らかにして不法伐採することをまず最初に厳禁せよとしたのは、この時期の大韓帝国政府では継続して鬱陵島から撤収せよという要求があったので、それに合わせて郡規としようとしたことが分かる。鬱陵島在留の日本人を「犯越者」と規定した上で、結局、家屋・田畑を外国人(日本人)に密かに売る行為は「一律(死刑)」に処するということを明らかにしたと見られる。この第1条、第2条を通じて知ることができるのは、それまで日本人たちの不法伐採は日常的に繰り返され、鬱陵島民の中に日本人に家屋、田畑を売るのが非一非再(一度や二度でなく数多いこと)であったことを示している。 第3条では、本島の開拓がまだ進んでおらず税金も決まっていないので、本土復帰者の田畑を官有にすることを規定している。多分この頃、本土帰還者たちが田畑を個人的に売買することがあったので、官有とすることを明らかにして税収の不足を埋めるという意味と理解される。開拓民の税金免除を強調して、本土帰還者の個人的な売買を不法と見なして官の所有にしようとする目的を納得させようと考えたと見れば良い。 第4条の場合、官庁の新築による迷惑の禁止と見ることができるが、屋根を修理して4~5間をさらに建築するから最小限の負担を了解してくれという意味と解釈される。 第5条の場合、郷長1人、書記1人、使令3人をまず置いて仕事をすることを規定したのは、1905年(翻訳者注:1900年ですね)鬱島郡に昇格した以後にも最小限の人員がいないということを物語る。第4条の官庁4~5間をさらに建築する理由に該当することだ。 第6、7条は郡守以下の官吏の給料規定だ。禹用鼎は、当初、官制を改編するもののこれに伴い増える官員、書記、給仕の月俸は島内400余戸から集める豆・麦80石で充当できるし、島の経費は全羅南道民から徴収する藿税を100分の5から10に上げればその金額が年間1,000ウォンになるのでかなりの助けになるはずだと建議したことがあった(注58)。それと比較すると、裵季周が「鬱島郡節目」で提示した金額ははるかに多い。第6条では本島の戸500戸に毎戸ごとに春等の麦3升と秋等の豆4升ずつを納めさせ俸給に充当するとし、第7条では500戸に納めさせる麦100俵に対して郡守、郷長、書記、使令の給料を明示している。「後禄」で内部が計算した郡守以下の官吏の給料は春等の麦と秋等の豆を合わせて麦100石、豆100石だ。各洞に掲示しようとする「郡規」6,7条について、裵季周はみみっちいやり方をした。裵季周は鬱島郡守として再赴任して、郡守以下の官吏の給料を大幅に上げようとする考えを持っていたと見られる。 第8条は税金に対する規定だ。第8条の規定を「商船及び輸出入貨物に対する徴税」と解釈する場合があるので(注59)、その条項を再び紹介する。 (注58) 禹用鼎『鬱島記』;『内部去来案』8(光武4年)照会第12号 (注59) 柳美林2012前掲文105p 各道の商船が本島に来泊して魚藿を捕採する人々から毎10分の1を税金として徴収し、その他に出入りする貨物は金額により毎100分の1を(税金として徴収して)経費に補充すること。 「鬱島郡節目」は本国人を対象とした「軍規」だ。 裵季周は、大韓帝国政府が日本に対して鬱陵島在留日本人の撤収を要求していることを当然知っていたし、日本人から不法に輸出税を受け取りながらも領収書を発行しなかった。1900年に禹用鼎が鬱陵島を視察した時、裵季周の陳述を聞いて次のように言及している。 日本人から税金を徴収する条目は、島監が赴任した初期である丙申年と丁酉年の二年間は時々罰金を出せと叱責しながら貨物を検分して100に2を納めさせた。何年か前からは島監自らが通商のない港で税金を徴収することは正しくないということを知るようになると日本人の無視が次第にひどくなって、事実のとおりに納税しようとしない。それでそのままにして納めさせないでいる。(禹用鼎「後録」) 裵季周は丙申年(1896)と丁酉年(1897)に在留日本人から罰金として税金を徴収したことがあるが、後日、不通商港で税金を徴収することは正しくないということを知ると税金を徴収しなくなったという(注60)。そのような彼が、各洞ごとに掲示する「郡規」に輸出入税を取るということを明示する理由がない。これを「輸出入貨物に対する徴税」の規定とは解釈できない。先に言及した「各道の商船」は鬱陵島に居住する「本島人」ではなく各道の外部商船を意味して、「その他に出入りする貨物」はおそらく鬱陵島に居住する「本島人」の貨物や商船でないが本土と鬱陵島を行き来する官船、あるいは私船の貨物に対する徴税と見ることができる。「その他に出入りする貨物」を日本の船と想定して輸出入税を賦課したというのは、間違って理解したものと見られる。 (注60) 『内部来去案』「外部大臣の内部大臣への照復」(光武4年9月12日)の記録として、外部大臣朴済純が内部大臣李乾夏に送った文書で帝国政府の意見を羅列して「島にある本邦人が島の住民と共に商業活動をして需要と供給を行っているが、緊要かつ島住民の希望に関係することとして、島監がその輸出と輸入の貨物から徴税するのは輸出税と輸入税の場合同じにしなければなりません。」という見解に対して「島監が徴収した税金に関する条目というのは、ただ港の外に出て行く物資に対して値が百ならば2割だけを選んで罰を与える条項に代ったものだが、これは日本人が自ら望んだことによるのです。港に入ってくる物資に至っては、この例に含まれていません。もし輸出税と輸入税のようなものなら、どうして貨物を積み出す時にだけ徴収して貨物を受け入れる時には徴収せずにおきますか。また、どうして値が百ならば2割だけを取る方法がありますか」といって明らかに輸出入税ではないとした。日本の資料に出てくる「輸出税」の項目は、日本が鬱陵島在留の居住民を確保するための画策として「輸出税」と記録しただけのことだ。 しかしながら、現実の当時の状況は、日本人から輸出税を受け取るのが現実だった。1900年6月1日、禹用鼎一行が鬱陵島に来た時、韓日両国の調査委員が福間たちを尋問する時、「貨物を持ち出す時、島監が毎回人を派遣して摘発して100分の2を税金として取ったので、これは貨物を密かに運送したものではない」(注61)といったり、「鬱陵島に来た日本人から税金を取って置いて送りかえすな」と要請したことを通じて、日本は収税を理由に挙げて在留日本人の撤収を避けようとした。 「鬱島郡節目」第8条を「輸出入貨物に対する徴収」と見て、「非開港場の徴税は認めないという政府訓令があった後で日本人は納税を回避しようとしたが政府訓令は実行されず、むしろ政府の政策は島監の徴税権を認める方向に変わった。その最初の処置が1900年大韓帝国勅令第41号の収税条項であり、二番目が1902年鬱島郡節目の輸出入税の条項だ」としたり、「政府が大韓帝国勅令第41号で鬱島郡守の徴税権を合法化したのに日本人たちが払おうとしなかったのだ」という見解(注62)は、大韓帝国勅令第41号と鬱島郡節目の収税条項が鬱陵島の本国人に適用されるものだということを理解できないところから始まったと言うことができる。非開港場の外国人居住は不法だったから撤収の対象であって収税の対象ではなかった。ところがこの時期の鬱陵島の場合、日本人たちが不法居住して日本との輸出入に従事していたので、島監や郡守は官庁の経費を調達するために不法的に税金を賦課するという現実だった。それを助長し、それを口実として日本は鬱陵島に日本人たちが居住することを企んだ。結局、日本は移住漁村を作って行った。開港期の歴史は失敗の連続だった。結局、このような現実のために大韓帝国は1910年に日本の植民地に転落した。その失敗の歴史の中に鬱陵島も含まれていたということを認識する必要がある。 (注61) 禹用鼎「鬱島在留日本人調査要領―韓日人分日査問」 (注62) 柳美林 2012 前掲文 100・104p (続く) |
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