(続き) 鬱陵島視察員禹用鼎が調査を終えて帰京したのは1900年6月中旬(15日)だった。彼は内部大臣李乾夏(イ・コンハ)に報告書を提出した(注36)。禹用鼎が政府に建議した内容は、最初に、島監裵季周は1896・1897年の両年に日本人たちから罰金と税金を徴収したが、その後は不通商海岸での収税が不可であることを知って徴収せず、日本人が一日暮らせば「一日之害」、二日暮らせば「二日之害」になるだけでなく、島に居ること自体が条約外のことであるから、日本側と早く談判して彼らを撤収させることによって島民と森林を保護しなければならない。二番目に、鬱陵島の官制を改編するとして、これに伴い増える官員・書記・給仕の月俸は島内400余戸から集める豆・麦80石で充当することができるし、島の経費は全羅南道民から徴収する藿税を100分の5から10に上げればその金額が年間1,000余ウォンになるのでかなりの助けになるというものだった(注37)。 禹用鼎の報告書と1900年「受命照査事項報告書」(1900年外務省記録3532 『欝陵島に於ける伐木関係雑録』)中の「輸出税件」に関する日本の報告書を比較してみれば、禹用鼎が裵季周に寛大だったことが分かる。先に述べたように、『独立新聞』と『皇城新聞』を見れば、1899年9月以後鬱陵島島監裵季周が日本人の槻木盗伐と弊害に関する報告を引用した記事が多数登場する。外部大臣朴斉純が日本公使林権助に送った外交文書の中では、禹用鼎が鬱陵島を離れた以後の状況を裵季周が報告した次のような記録を引用している。 (注36) 『皇城新聞』光武4年6月18日 (注37) 禹用鼎『鬱島記』;『内部去来案』8(光武4年),照会第12号;ソン・ビョンギ2007 前掲本187~188p参照 「大韓外部大臣朴斉純が照会します。今回受け付けた内部大臣の公文書に「鬱陵島監務裵季周が報告するに、‘内部視察官禹用鼎がその間鬱陵島の山林を日本人が不法に切ることに対して調査を行った文書があります。しかし禹用鼎が戻った翌日には日本商船5隻が鬱陵島に停泊し、ここに滞留する日本人たちは四方の山をあまねく歩き回って残った槻木を思いのままに切って真裸になるようで恐ろしいです。それで日本人烟本に問いつめると、彼は、鬱陵島の前監務呉相鎰と田在恒の伐木許可証があると言いました。これに対し呉相鎰の許可証を調べると槻木2株だけだったのに不法に切ったものは70本余りに及び、田票は80株だったのが、彼らが不法にで切ったのは83株を越えました。遡及して調べれば、禹用鼎が調査する時に日本領事と数回の談判を経たし、日本領事は再び不法をするなという意を鬱陵島にいる日本人たちに命じました。それでも今回法を無視して思いのままに切ることが以前より激しくなったので、真に驚くべきで嘆かわしいです。’とあります。このとおり通知するので、貴大臣におかれては日本公使に照会して、鬱陵島に滞留する日本人たちを直ちに撤収させて再び不法行為が無いようにしてください。」とある(注38)。 このように、裵季周は1899年6月鬱陵島に赴任した後、日本人の伐木を摘発してその処罰を中央政府に一つ一つ報告したので鬱島郡守の適任者と見なされたのだろう。それで裵季周は1900年11月26日付けで鬱島郡守に任命された。 (注38) 『各社登録』第63号(光武4年9月6日) (翻訳者注:「各社」ではないと思うがどう翻訳すべきか分からない) 1901年初めに設郡に伴う色々な準備をするために、内部官員崔聖麟を派遣した (注39) 。ところが1901年2月2日の記録に鬱島郡守裵季周が未赴任であるという記録(注40)と、3月13日に渡任したという記録が出てきて(注41)、 8月20日までも鬱島郡守裵季周の赴任報告が到着していない(注42)という記録が出てくる。 裵季周の報告が来ないからなのか、8月に釜山海関のスミス、同幇辧金声遠、東莱監理署主事丁宝燮などを鬱陵島に派遣して日本人たちの実態を調査した。現地調査を終えたスミスはまもなく政府に報告書を提出した(8月)。その要旨は、①島内に常駐する日本人数は550人で、この他にも毎年伐木のため来島する者が300~400人に達する。 ②島内日本人の2大派閥である「ハタモト党」と「ワキタ党」が鬱陵島を南北に分界、森林を自ら領有して「認状」なしに伐木している上に、島民たちの伐木を禁じて違反者から罰金を徴収している。 ③島内の日本船舶の数は板材をのせて出港中の5隻を含めて21隻であり、釜山の日本領事館の准単(許可証)を持つ漁船7隻と潜水夫艇13隻があるということなどだった(注43)。このようなスミス報告があった後、裵季周の同じような報告が受け付けられた(注44)。この資料を通じて、鬱島郡に昇格し鬱島郡守が鬱陵島を治めたものの、裵季周が日本の侵奪を全く防ぐことができないということを見せてくれる。実状は、鬱島郡に昇格して郡守が派遣されたが、行政実務を担当する官属もまともに配置されなかったし、治安を担当する吏校は最初から配置されていないことを1902年の「鬱島郡節目」を通じて確認することができるので、裵季周の無能は大韓帝国政府の無能のせいだ。 鬱陵島在留日本人の弊害だけでなく、郡の経費は島民から徴収したので裵季周、崔聖麟らは鬱陵島民の怨みを買ったりもした (注45) 。その代表的なものを列挙して、裵季周が鬱島郡守を免職になった理由を推測してみよう。 (注39) 『皇城新聞』光武5年1月18日 (注40) 『各司謄録』通牒第23号(1901年2月2日) (注41) 『各司謄録』通牒第152号(1901年7月15日) (注42) 『各司謄録』通牒第187号(1901年7月15日) (注43) 『皇城新聞』光武6年4月29日 (注44) 『各司謄録』照会第11号(1901年9月25日) (注45) 『交渉国日記』光武5年5月1日;『皇城新聞』光武5年5月3日、7月26日 まず、鬱陵島の開拓後、鬱陵島民の交通と通信を担当する我が船舶はなかった。窮余の策として、島民は開運丸という名前の帆船一隻を購入しようとした。その代金をやりくりする方法が見つからない1900年に、鬱陵島視察委員である禹用鼎が蔚珍の人チェ・ビョンニンと共に購入して運行するようにしたことがある(注46)。 『皇城新聞』1901年3月11日付「雑報」の記事によれば、開運丸(済益船)が槻木を載せて黄土浦から風浪で破船すると、開運会社社員は、船舶は政府が購入したものなのにお前たちが槻木を積むのを手間取ったためにつぶれたとして、船価と費用1万 6千両を島民から徴収して再び船舶を購入しようとした。これに対して反対した島民たちが立って、郡守の報告書を持って鬱陵島の事情を知る田士能を釜山に送ったところ、印章を偽造して郡守の報告書に押したとして田士能を釜山港監理署で拘束して裁判を要請したという記事が出る。裵季周は3月13日に鬱陵島に赴任したので、郡守報告書の印章はにせ物だと簡単に分かったわけだ。 『皇城新聞』1901年10月29日「雑報」欄に、鬱陵島の島民たちが会議した結果、鬱陵島で商権を外国人すなわち日本人に奪われるのは貨物を運ぶ船舶がないためだと結論付けて、島民たちがそれぞれ股金(株式会社の資本金)を出資して保合丸2隻を購入することに議決したことを外部に報告したという記事を扱っている。裵季周が開運丸が破船した後に運搬船2隻の費用を島民に賦課しようとしたが、一部島民の激しい反発に遭ったとして1902年初めに解任されて姜泳禹が第2代鬱島郡守に任命された原因もここにあったと推定されるという解釈もある(注47)。 (注46) 禹用鼎『鬱島記』;『皇城新聞』光武5年3月11日付「雑報」 (注47)シン・ヨンハ編著『独島領有権資料の探求』第3巻、独島研究保全協会2000,151p (続く) |
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「(注38)『各社登録』第63号(光武4年9月6日)(翻訳者注:「各社」ではないと思うがどう翻訳すべきか分からない)」ということですが、「各司騰録」ではないでしょうか?
2014/11/28(金) 午前 7:21
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『各司騰録』・・・・・・季氏朝鮮王朝時代の各地域からの地方官の報告を収集したもの。なるほど、そうですね。御教示ありがとうございました。
2014/11/28(金) 午後 7:31 [ Chaamiey ] 返信する