(続き) ラポーテはまもなく調査を終えて帰って来て、総税理士ブラウン(J. B. Brown,栢卓安)を通じて政府に報告書を提出した (注24)。ラポーテと裵季周などの報告によれば、「鬱陵島は開拓されて数年にもならないので人口は少なく、日本人の無頼者たちが群れを成して移住して居民を侵虐しながら森林を伐採し……穀物と物資を密貿易する。ちょっとでも止めたりすると刃物を抜いて振り回し立向かって暴れ、控えるところが少しもないので、居民は皆驚き恐れて安堵できない実情」(注25)だった。 鬱陵島での日本人の不法伐採と搬出に対する報告が中央政府に連続して報告されるや、ロシアは日本人の鬱陵島伐採と搬出をロシアの利権侵害と見なし、1899年8月に日本政府に鬱陵島の樹木がロシアに特許されたことを明らかにして、日本人の伐木を禁ずる措置を取ることを要請し(注26)、大韓帝国政府にも8月3日・15日、10月11日など三回にわたって日本人の伐木に強力に抗議してきた(注27)。ロシアが鬱陵島の不法伐採と搬出を問題にした理由は、1896年2月の俄館播遷を契機に朝鮮政府がロシアにいくつかの利権を譲り渡したが、その中の一つとして鴨緑江・豆満江流域及び鬱陵島の森林伐採権をウラジオストック商人ブリンナー(Y. I. Brynner)に特許を渡したためだ。 (注24)『海関案』2(『旧韓国外交関係付属文書』高麗大学アジア問題研究所1972)文書番号1621;ソン・ビョンギ2007 前掲本173p再引用 (注25) 『内部去来案』3照会第13号光武3年9月15日 (注26) 『外衙門日記』光武3年8月16日;『日案』4 文書番号5261;『日本外交文書』 32,事項9,文書番号166・168 (注27) ソン・ビョンギ2007 前掲本128p ロシアの抗議を受けた日本側は直ちに大韓帝国政府に伐採権を譲与した事実があるのかを問い合わせし、それを確認するとすぐに日本はロシアの伐木禁止要請を受け入れることに決めて(1899.8)、元山領事館外務書記生を鬱陵島に派遣して(1899.9)、現地の日本人たちに11月末までに撤収するよう指示した。『独立新聞』と『皇城新聞』を見れば、1899年9月以後、鬱陵島島監裵季周が日本人の槻木盗伐と弊害に関して報告したことを引用する記事が多く登場する。ところが史料②によれば、1899年から裵季周が韓国朝廷に日本人槻木盗伐云々と報告し、また島民が槻木を守ることを生命のように考えているといった話などは、裵季周が日本での槻木材の価値を知るために常に直接伐採して日本人一名と結託して利益を独占するための算段と解釈している。そのような認識を持つ限り、鬱陵島島監裵季周は日本人たちに強くものを言えない。 ロシアが鬱陵島問題を取り上げ論じて、ラポーテ・裵季周の報告により大韓帝国政府は日本側に鬱陵島在留日本人たちの撤収を要求する一方、9月に内部視察官を鬱陵島調査委員に任命派遣してその状況を見分させることを決め(注28)、 12月15日禹用鼎(ウ・ヨンジョン)を視察委員に任命した(注29)。韓日間で鬱陵島在留日本人たちの撤収交渉が進行される中で、1900年3月15日に島監裵季周から日本人の弊害に対する報告があった。その要旨は、①現地の日本人は退去する意向がないだけでなく、前島監呉相鎰が発行した文書を口実にして1899年8月・9月の間に1千余の板を伐採し、島監がソウルに上って告訴しようとするとすぐに日本人が船着場を守って出発できなかった。②島監が日本に渡って裁判をしたのは数年前のことなのに、日本人たちが当時の費用を強要して島民たちが弁償した。③槻木の伐採を禁じるとすぐに日本人たちは査検と伐木契約を結んだとして契約金の返還を要請し、島民たちが3,000余両を返済したという報告であった(注30)。大韓帝国政府は日本公使館に照会してこれに抗議し、日本人たちの早急な撤収と銭貨の償還を要請した(注31)。 (注28) 禹用鼎『鬱島記』 (注29) 『官報』光武3年12月19日 (注30) 『内部去来案』8(光武4年)、照会第6号;『交渉国日記』光武4年3月15日 (注31) 『交渉国日記』光武4年3月16日;『日案』 4,文書番号5566 日本公使は3月23日の回答照会で両側で共同調査することを要求し、日本人が島監に相当な代価を支払ってその許可を受けて伐木に従事したという陳情があったとし、日本人たちは島監の黙契の下に知らず知らずに往来居留することが慣例になったと主張した(注32)。両国の共同調査に関する議論が展開する間、日本公使は釜山領事に共同調査に備える覚書4項目を訓令した。その中では、秘密裏にロシア人と伐木権譲受の交渉を始め、その交渉はかなり進展していることを明らかにしている(注33)。この訓令に続いて「鬱陵島在留日本人調査要領」を示達して、日本政府は日本人たちが鬱陵島に残留するように承認を受けることが必要なので、調査に臨んでは島監が日本人たちの在留を承認したり伐木を承認あるいは黙認した状況に主眼を置けと強調した(注34)。林権助が提案した共同調査案を大韓帝国政府は5月4日に受諾した(注35)。 (注32) 『日案』 4,文書番号5572 (注33) 『駐韓日本公使館記録』各領事機密来信(明治33年)機密第5号 (注34) 『駐韓日本公使館記録』各領事機密来信(明治33年)機密第6号 (注35) 『交渉国日記』光武4年3月27日・5月4日;『日案』4,文書番号 禹用鼎を代表格の視察委員として、監理署主査金冕秀、釜山海関税理士ラポーテ及び封弁金声遠、そして釜山に駐在していた日本副領事官補赤塚正助及び警部1人で構成された調査団が5月31日に鬱陵島に到着、6月1日から5日間ラポーテの立会いの下でその実態を調査した。1900年の「受命調査事項報告書」(1900年外務省記録3532 『欝陵島に於ける伐木関係雑録』)の中の「輸出税件」についての調査は、3月23日の日本公使の回答文の中で「鬱陵島の日本人たちが島監に相当の代価を支払い、その許可を受けて伐木に従事した」という陳情を後押しして、「欝陵島在留日本人調査要領」を熟知して島監に輸出税を払ったという証拠資料の収集に力を入れたことが分かる。彼らは、前島監呉相鎰と鬱陵島在留日本人の間に結んだ別紙の約条文を証拠資料として確保した。輸出額の2分を大豆太で呉相鎰島監に払うという1899年4月1日の約条文だった。そして、現島監裵季周も現在までこの約条により徴税しているといった。 裵季周は非開港場での輸出税徴収は不法であることを知っていたので、「領収書の発行は適当でなく、政府にも分かって叱責される恐れがあるといってまだ1枚も発行したことがない」と報告書に記録したように、裵季周は領収書を発行しなかった。裵季周は納税の事実があるのかどうかを尋ねると、初めには納税はないと言い、後には2年間口銭として受けたと話し、最後には今まで毎年口銭として受け入れたと言った。しかし、文書には昨年と一昨年の2年間受けたという記録だけが残っていると報告書に記録された。 (続く) |
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