(続き) 1896年の「勅令第36号」の「地方制度と官制の給料と経費の改正に関する件」によれば、郡の場合、巡校2人、首書記1人、書記4人、通引2人、使令4人、使傭2人、使僮1人、客舎直1人、郷校直1人など計19人の職員を置くことができたが(注13)、「鬱島郡節目」の「後録」によれば、郡守の他に郷長1人、書記1人、使令3人がいるだけだ。そのために裵季周は「鬱島郡節目」を内部に上げて「全島庶務尚多」と言ったわけだが、内部が作成した「後録」によれば5等郡の郡等に見合う官員が相変らず揃わなかったことが分かる。勅令第41号を論ずる中で、「勅令第36号」に基づいて「鬱島郡にも全19人の職員を置くことができるようになり、禹用鼎が懸念した鬱陵島の官長も地方官としての威厳を保つことができるようになった」(注14)という評価とは違って、1902年でも鬱島郡守の地方官としての威厳は確立されなかった。そのために、裵季周が「鬱島郡節目」で明らかにしたように、鬱島郡が昇格した後にも何人かの悖民がデマを流して住民を扇動するほど鬱島郡守は行政的に鬱陵島を掌握できなかった。そのために裵季周は「節目」を作って内部が「郡規」を確立することを要望した。そして島民たちの中にもし相変らず我が強くて賢明でなくて規則に従わない者がいれば内部に報告することとし、その処罰を内部が行うことを求めている。 「鬱島郡節目」は、後録によれば「光武6年(1902 壬寅) 4月の日」に内部から内閣総理大臣尹容善(ユン・ヨンソン)に報告された資料だ。「鬱島郡節目」と共に公開された資料には、裵季周が1902年光武6年3月7日に鬱島郡守に起用されたという<図1>のような勅命が伝わる。 (注13) 「建陽元年(開国505年)勅令第36号地方制度と官制と俸給と経費の改正に関する件」(『勅令』建陽元年8月4日;『官報』建陽元年8月6日) (注14)ソン・ビョンギ『再訂版鬱陵島と独島』檀国大学出版部2007,195p 上の勅命に見るように1902年3月7日に裵季周は鬱島郡守に任命するという任命状を受けたが、5月30日まで鬱陵島に赴任できなかった(注15)。おそらく裵季周はソウルにあって「鬱島郡節目」を用意して内部に報告し、赴任に際して「鬱島郡節目」を持って行くつもりだったようだ。上の勅命で見るように鬱島の「前郡守」だったために鬱陵島の状況をよく知っていたので、ソウルで「鬱島郡節目」を十分に構想した可能性がある。 裵季周は、1900年10月25日「大韓帝国勅令第41号」の鬱陵島を鬱島に改称して島監を郡守に改正する措置により、11月29日初代の鬱島郡守に任命された(注16)。裵季周が初めての鬱島郡守に任命されたのは、開拓民の一員であるためだ。裵季周が日本人に述べた資料によれば、仁川の永宗島の住民であり、1881年に鬱陵島に移住して開拓の先頭に立ったという記録が出てくる(注17)。また、「彼(裵季周)はこの島に移住して以来ただ開拓と農業に努力し、本土からの移住民を奨励してこの島では若干の徳望があるという」(注18)という記録を通じて、裵季周が初めての鬱島郡守として落点(翻訳者注:選抜のこと)されたことがわかる。そのような経歴のために、鬱島郡守に任命される前の1895年8月に鬱陵島島監に初めて任命されたし、1900年に鬱島郡守に任命されることになった。 およそ開拓令の前後に鬱陵島に入ってきた人々の子孫の証言によれば、陸地で生活が困難な状況から生活に行き詰って鬱陵島に入ってきた人々が大部分だ。しかし裵季周の父親ペ・ヒョングの場合、<図2>で見るように1893年に正三品の島長職にあった。 (注15) 1902年5月30日に釜山の日本領事館が本国に送った報告書である日本外務省資料616-10 『釜山領事館報告書2』の「韓国欝陵島事情」の報告者である西村銈象警部は、1902年(明治35) 4月28日に鬱陵島に赴任した(朴炳渉 『韓末鬱陵島・独島漁業-独島領有権の観点から-』韓国海洋水産開発院2009、109p)。その報告書は西村銈象が5月30日に作成したものだが、「裵季周と島民」で「裵季周はまだ島に帰って来ていないので人柄に関しては分からない。」としたことから見て、1902年4月28日までは鬱陵島に赴任していなかった。 (注16) 『旧韓国官報』第1744号 光武4年11月29日 「任鬱島郡守叙奏任官六等九品裵季周」 (注17)日本特命全権公使林権助が外務大臣小村寿太郎に報告した秘密文書によれば、京城にある裵季周に会って話を聞いて「裵季周は仁川の対岸にある永宗島の住民で、今から20年前に鬱陵島に移住して開拓することを計画して率先してこの島に渡航して、その開拓に従事した。」という報告をした(『駐韓日本公使館記録』本省機密往信、機密133号明治34年12月10日、「欝陵島在留民取締ノ為メ警察官派遣ノ件上申」)。『日本外務省外交史料館所蔵 韓国関係史料目録(明治・大正編)』によれば、裵季周は1896年に「46歳」と記録されているので、20年前の1881年に29歳の時に鬱陵島に入ってきた。『光緒九年四月日欝陵島開拓時船格糧米雑物容入仮量成冊』(ソウル大学奎章閣図書、No.17041)に基づいてしばしば1883年の開拓令によって16戸54人が鬱陵島を切り開いたというが、1883年以前に鬱陵島に居住のために鬱陵島に入ってきた人々を想定しなければならない。 (注18)日本外務省資料616-10 『釜山領事館報告書2』1902年5月30日、「韓国欝陵島事情」、「裵季周と島民」 裵季周は1918年2月15日京畿道プチョン郡徳積面ソヤ里(現仁川広域市甕津軍徳積面)で死亡したということから見て、仁川に縁故圏を持っていたという点で他の鬱陵島開拓民と違って開拓民を導くことができた。 1895年8月に島長制が島監制に変わり、裵季周が島監に任命されて鬱陵島の事務を本格的に引き受けることになったが、裵季周は鬱陵島民として宣伝官の検察に同行して島監になったのであるから、日本人の鬱陵島侵奪を防ぐために訴訟も辞さないなど積極的な動きを見せたという評価がある(注19)。1898年に裵季周は不法搬出された木材を探すために隠岐と東京などで訴訟をしたし、1899年4月には松江で訴訟を提起して勝訴したこともある。裵季周は日本人から取り戻してきた木材代金で訴訟費用を出し、余った金を国家に上納したので彼の行跡は『皇城新聞』に報道されるほどであったためにそういう評価になったのだろうが、それによって「大韓帝国勅令第41号」の発布に基づき鬱島郡守に任命されたと見られる。 裵季周はそのような政治功績があるにも拘わらず、「受命照査事項報告書」(1900年外務省記録3532 『欝陵島に於ける伐木関係雑録』)中の「輸出税件」資料に「鬱陵島島監呉相鎰」が日本の商人に書いた約定文が出てきたことから見て、1899年4月以前に鬱陵島島監を免職になったと見られる。裵季周が鬱陵島島監を免職になった時期と理由は韓国側の史料に残っていないが、『独立新聞』 1899年1月19日「槐木潜売」の記事に「鬱陵島の樹木は国から禁役された物なのに、島に住む裵季周など数人が最も大きい槐木を全部作伐作板して外国人に密かに売り飛ばすので禁止してほしいと鬱陵島島監呉相鎰が内部に報告した。」という記録が見える。1899年1月19日以前に鬱陵島島監を免職になったことが分かる。しかし、当時裵季周は1899年初めに日本に渡って松江で日本の木材無断搬出を問題として裁判を行っていたので、上の記事は誤りと見られるという見解がある。その見解を後押しするものとして、『皇城新聞』(1902.4.29)に「裵季周はその島を監管して6年であり、先年、裵島監が材木を返してもらう件で日本に渡っていったが、島の人呉相鎰が島監が不在の機会を見て署理と詐称して輸出入物品に対し税金を強奪したというが、実は米と塩、酒と若干の捧賂を受けたのだ」としたことを注目しなければならないという(注20)。しかし1899年5月釜山に留まっていた前島監裵季周を島監に再任命して、彼の赴任に際して釜山海関税理士代理ラポーテ(E. Laporte,羅保得)を共に派遣、真相を調査した記録が残って伝えられ(注21)、ラポーテ・裵季周などが鬱陵島に発ったのは6月下旬であったという記録が伝わるので(注22)、裵季周が鬱陵島島監から免職になったことを確認することができる。 (注20)チュ・カンヒョン、『鬱陵島開拓史に関する研究-開拓史関連基礎資料収集-』、韓国海洋水産開発院、2009,15~16p (注21) 『内部去来案』 7(光武3年),照会第13号;『俄案』 2(『旧韓国外交文書』 18,高麗大学付設アジア問題研究所1969)文書番号1460 ; ソン・ビョンギ2007,前掲本172p参照 (注22) 『内衙門日記』光武3年6月27日・28日 (続く) |
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