2 翻訳文 内閣総理大臣尹容善(ユン・ヨンソン)閣下 内部 鬱島郡節目 本郡が郡に昇格して設置されてから既に2年が経つが、島のさまざまなできごとが相変らず多く、草創期に何人の良からぬ民がウワサをまき散らして他の者に弊害になり、住んでいる民衆らを扇動するので、本部で方略を講じて郡規を確立せざるを得ないので、別に節目を作成して送ります。これに従って実行すれば間違えることなく、島民らのうちにもし相変らず我が強くて道理が分からず指示に従わない者があれば一つ一つ摘発して直ちに報告するとともに、当然別に厳しく処罰がなければならないでしょう。惕念(注4)して節目を施行することに辞意も真書(漢文)を諺文(ハングル)に翻訳して複写し、各洞に掲示して一人の民も聞いていない、知らないという弊害をなくすることです。 一 日本の潜越人(注5)たちが木料を偸斫(注6)することを特に厳禁すること。 一 本島の人民のうちに家屋と田土をもし外国人に暗売する者があれば、当然に一律施行すること。 (注4) 惕念 : 恐れる心を持つ (注5) 潛越人 : 密かに国境を越えてくる者 (注6) 偸斫 : 山の木をこっそりと切る 一 本島の開拓はまだ尽くされず憂慮があり、民衆らは家を持てるわうまだ税金を定めるら至らない。およそ島に住む民は農作業をして生きていくが、もし内陸に移って暮らすことになれば私的に売買はできないから、むしろ官の所有にすること。 一 現在の公館は7間あるのでそのままにして屋根を修理し、もし狭いならば4~5間を概略さらに建築して民の負担がないようにすること。 一 郷長1員、書記1人、使令3人を優先的に略施して供役すること。 一 郡守以下郷長、書記、使令の餼料(注7)は郡で簡略に算定するしかないが、本島の戸数は優に500戸はあるので、戸ごとに春等(注8)の麦3斗と秋等の豆4斗ずつをおさめて給料として分配すること。 一 500戸で戸ごとに麦をおさめて3斗とすれば総計1500斗で、石に計算すれば100石内外になる。郡守1人は廩況が60石で、郷長1人給料が12石、書記1人は10石、使令3人はそれぞれ6石ずつ計18石とし、総計100石を定式とみなすこと。 一 各道商船が本島に来泊と魚藿(注9)を捕採(注10)する人々に毎10分の1を税金として納めさせ、その他に出入りする貨物は金額により毎100分の1を(税金として納めさせ)経費に補充すること。 一 官船1隻を急いで用意すべきである。 そして航路を確保して本部と往来するようにすること。調査委員が島に入ってきた時、田士能と李東信が材木を伐採したのを公に所属させたものを一つ一つ調査して徴収し、船を購入すること。 一 これ以外のことは本郡で十分に相談して改めて準備すること。 後録 香木200斤を隔年に進上すること。 戸布銭(注11) 500両を毎年、度支部(たくしぶ)に納めること。 郡守の年俸と郷長、書記、使令の給料を全て計算すると、郡守は春等の麦60石、秋等の豆40石都合100石で、郷長は春等の麦12石、秋等の豆12石都合24石で、書記1人は春等の麦10石、秋等の豆12石都合22石で、使令はそれぞれ春等の麦6石、秋等の豆12石、3人で計麦18石、豆36石となる。 全部計算すると麦100石、豆100石である。 光武6年(1902壬寅) 4月 日 内部 (注7) 餼料 : 給料あるいは俸給 (注8) 春等 : 春・秋に二回に分けて出す租税制度により春に納めた税金。秋に出す税金は秋等。 (注9) 魚藿 : 海産物をあわせて言う言葉 (注10) 捕採 : 魚を捉えたり海産物を採取すること。 (注11) 戸布銭 : 高麗・朝鮮時代に、家ごとに春と秋に無名や苧麻などで出した税金。高麗忠烈王の時から苧布を納め、朝鮮末期に大院君は軍布を戸布(春秋2回の税金)に改め、両班と平民が同じように負担するようにした。 Ⅲ 「鬱島郡節目」に現れた鬱陵島の社会像 1 裵季周の行跡を通じて見る「欝島郡節目」の作成背景 「鬱島郡節目」はしばしば1902年に大韓帝国内部から鬱島郡に下した行政指針だと理解されているが(注12)、実状は鬱島郡守裵季周が「郡規」確立のために節目を作って内部に報告したものだ。内部では鬱島郡守が提出した「節目」を検討して「後録」を作成し、1902年4月に内閣総理大臣尹容善(ユン・ヨンソン)に報告した。 その資料が裵季周家で所蔵されて伝わっているので、鬱島郡守である裵季周が上げた「鬱島郡節目」をそのまま施行せよとの内部の公文書が裵季周に通達されたのだろう。 裵季周は、鬱島郡が郡に昇格して2年も過ぎたが郡の業務は相変らず多くて、草創期にいくつかの悖民(心得違いの者)がデマを流して住民らを扇動するので、郡規を確立するために「鬱島郡節目」を作ったといった。 1900年10月25日「大韓帝国勅令第41号」により鬱陵島は鬱島郡に昇格して郡守が派遣された。郡の等級が最下級である5等と規定されていようと、官制に編入して中央から奏任官である郡守が派遣されることになったという点で画期的な措置であることは明らかだ。「大韓帝国勅令第41号」第4条に「経費 五等郡で磨錬して現今間はすなわち吏額が未備であり庶事草創?岐路海島収税中で姑先に磨錬? 事」といったことから見て、郡守以下職員が全て揃ってはいないことが分かる。 (注12) 柳美林「1902年の鬱島郡節目の翻訳および解題」『2010慶尚北道独島史料研究会研究報告書』慶尚北道2010、215p。キム・ヨンスも「最近1902年4月大韓帝国内部が鬱島郡守に命令した「鬱島郡節目」が発掘された」と言い(「鬱島郡節目の発掘とその意味」『領土海洋研究』2、2011 Winter 134p)、柳美林の場合、他の論文で「鬱島郡節目は1902年4月内部が作成して鬱島郡に命令した文書で、日本の不法居住と資源侵奪を阻止して鬱島郡の規律を確立するための対策を提示してその中に対日輸出貨物に課税して経費に加えよとの内容が入っている」とした(「収税慣行と独島に対する実効支配」『領土海洋研究』4 2011 Winter 89p)。 (続く) |
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