| 現代の韓国政府は、1900年大韓帝国勅令41号で独島(竹島)を「石島」という名前で鬱島郡の所属と規定したのだ、1905年の日本の竹島編入よりも5年早い時期に独島を韓国の領土と規定していたのだと言っていますが、これがウソであることを示している『独島問題概論』(1955年韓国政府外務部作成)の例の記述は、先般、内閣官房領土・主権対策企画調整室の「竹島に関する資料の委託調査」の報告書にも記載されました。 ところで、『独島問題概論』は復刻版(若しくは新訂版?)が発行されています。 最近、ある人から御教示があったのですが、復刻版の問題の記述の部分には新しく(注)が付されているのだそうです。復刻版は韓国の国会図書館のサイトにあるということなので、見て来ました。該当部分を抜粋します。 金玉均の開拓事業は未だ就緒の前に甲申政変により挫折してしまい、その隙に日本人の鬱陵島侵掠が次第に公然化していった。 島長は内務部から配置されて島の民政処理に当たったもので、体面維持も困難な程度であったが、光武5年(1901年)に勅令(注5)によって鬱陵島を郡に改称し、島長を郡守に改定し、初めて地方行政の一単位とした。独島は記録と実際知識によって早くから知られており、鬱陵島の一属嶼として封禁期においても往来が絶えることがなかったのは前述したとおりで、独島をあえて鬱陵島の行政区域に編入したと宣言する必要もなかったのであり、また、ことさらに公的記録を残す理由もない。 我々の古来の可支島、三峰島、于山等が、従前には海上孤縣の一岩嶼として、問題にしようとしても問題になるほどの事件があったこともなく、それが問題となったのは、日本人の海驢捕獲地として利用してその島根県領として編入したことに始まるのであり、このようになる前に鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無いからといって、独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったという事実を否認はできないのだ。したがって、独島を日本領として通告して来るや、光武10年(1906年)に鬱陵島郡守が「我国所属独島」(注6)と記録して中央政府に報告して来たのだ。 (注5) 1900年の誤記。本冊子が発刊された時期は1900年「勅令41号」が発見される前なので、鬱島郡の管轄区域を鬱陵本島、竹島、石島とした勅令上の内容を確認できなかったものと思われる。 (注6)原文は「我国所属独島」ではなく「本郡所属独島」である。 こういう(注)が新しく付けられているわけですが、問題は(注5)のほうです。 まず、本文に「光武5年(1901年)」とあるのは「1900年の誤記」だと指摘しています。勅令41号は光武4年(1900年)10月25日付けの決定(施行は10月27日)だから、1年違いで書いている『独島問題概論』の本文は間違いではあるのですが、単なる誤記なのかどうかはまだはっきりしていないと思います。 『独島問題概論』の底本となったと思われる 申奭鎬(シン・ソクホ)の「独島所属について」(1948年)では、該当の部分が次のように書いてあります。 このように、鬱陵島開拓令が発布され、何百年もかたく閉ざされていた門を開くことになると、江原道、慶尚道沿岸の人たちはもちろん、全羅道、忠清道地方からも移住する人が多く、鬱陵島の山谷はその歳に開拓され、翌年、島長を設置し、光武五年(西紀1901)に島長を郡守に昇格し、島内行政を担当させた。 「島長を郡守に昇格し」(実際は島監を郡守に昇格なので「島長」は間違い)というのが勅令41号による措置であるわけですが、ここでその年が「光武5年(西紀1901年)」と1年違いで書かれています。これが単なる誤記なのか、それとも勅令41号を直接調べたのでなく鬱陵島の現地情報に頼った結果なのかというあたりが良く分かりません。 初代郡守裵季周の郡守発令(島監を務めていて郡守に昇格した)は光武4年(1900年)11月29日付けなので、その通知が鬱陵島に届いて裵季周が郡守として振る舞うようになったのが1901年になってからだった、という可能性もありそうですが、推測の域を出ません。 裵季周の郡守発令日付↓ それはともかくとして、『独島問題概論』のほうは、「光武5年(1901年)に勅令によって鬱陵島を郡に改称し、島長を郡守に改定し、初めて地方行政の一単位とした。」とあって、シン・ソクホの文章と同じく1年違いの間違いと「島監」を「島長」とする書き間違いはあるものの、「勅令」という表現が明記され、勅令41号の内容がかなり詳しく書かれているので勅令41号を調べた上での記述であるとしか考えられません。(1年の間違いと島監、島長の間違いは、これも推測に過ぎませんが、その部分だけシン・ソクホの文章につられて誤記してしまったということがあるのかも知れません。) だから、(注5)の「本冊子が発刊された時期は1900年「勅令41号」が発見される前なので、鬱島郡の管轄区域を鬱陵本島、竹島、石島とした勅令上の内容を確認できなかったものと思われる。」という記述はウソですね。 現代の韓国政府は「勅令41号の石島が現在の独島だ」と言っていて、これが韓国側の「独島主張」の大骨格になっています。ところが、『独島問題概論』の記述を読めば、「独島をあえて鬱陵島の行政区域に編入したと宣言する必要もなかったのであり、また、ことさらに公的記録を残す理由もない」とか「鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無い」などと、現代韓国政府の説明を真っ向から否定するトンデもないことが書いてあるわけです。 さすがに現代の韓国政府外交部の官僚もこれらの文章の意味するところは理解して、「これはマズい」と思ったのでしょう。そこで、『独島問題概論』が作成された1955年時点ではまだ勅令41号が発見されていなかったので、『独島問題概論』のこれらの記述は勅令41号の条文を知らないまま書かれたのだ、という言い訳を考え出したものと思われます。 彼らは、「(注5)の記述はウソだ」と言われても、「何がウソなものか、(注5)に書いてあることが事実だ!」と言い張るでしょうが、それは通用しないのです。もし、(注5)にあるとおり、1955年時点の外務部が勅令41号の条文を具体的に知らなかったとしたら、『独島問題概論』の書き方はどうなっていたでしょうか。 もともと『独島問題概論』というものは、竹島(独島)をめぐって日本と韓国が具体的に争っていた時期に、外務部が傘下の職員に「独島は絶対に韓国のものだ」ということを強調するために作成したものですよ。だから、添付資料のうち、ラスク書簡を引用しているアメリカの文書の中のそのラスク書簡を引用した部分だけをカットして掲載するという、自分たちが不利であることを隠すための涙ぐましい努力を傾けたりしていますね。 そういう資料を作成するに当たって、もし「勅令で鬱陵島に関する規定があることは分かったのだが、その条文がまだ確認できていない」という状況があったなら、どういうふうに記述しますかね。「独島をあえて鬱陵島の行政区域に編入したと宣言する必要もなかったのであり、また、ことさらに公的記録を残す理由もない」とか「鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無い」などと書くわけがないでしょう。そうではなくて、例えば、「なお、鬱陵島の行政に関する勅令があるが、内容調査中であり、独島がどのように取り扱われているのか今後確認する予定である」というふうに、自分たちに有利な材料があるかも知れないという可能性を留保して置くのが当然です。 ですが、現実は、あっさりと「独島」については「鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無い」などと認めてしまっているのです。条文も確認していないのに行政区画に編入する規定があるとかないとかなぜ言えるのか。また、条文も確認せずにこういう否定的なことを断定的に書くことは有り得ないのです。これは、勅令41号の「鬱陵全島と竹島、石島」という規定を読んで、「あ、ここには独島を規定していないな」と分かったからそう書いたのです。1955年当時の韓国外務部は現代の外交部よりもちょっとだけ正直だったのでしょう。 まあ、ともかく、新たな(注5)の記述は勅令41号について韓国政府が不安を感じていることの表れのようで、面白いですね。ウソをつき通すためにさらにウソを重ねるという、ありがちなパターンかな。 |
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突っ込みどころが満載ですが、
「独島は記録と実際知識によって早くから知られており、鬱陵島の一属嶼として封禁期においても往来が絶えることがなかったのは前述したとおり」
一度も行ったことないくせによくも抜け抜けと書いてくれますね。
2017/8/4(金) 午後 5:08 [ 小嶋日向守 ] 返信する
「勅令41号」って最大の争点でもあるんですよね。韓国側の勇み足で突っ込みどころになっています。最初に小さな嘘を付くと、さらに虚偽を重ねて迷路にはまり込みます。
時系列だけでも通用しないです。1906年3月鬱島郡守「本郡所属の独島・・」→中央政府へ報告→騒動勃発→統監府「本郡所属・・:そうなのだろうか?」→大韓政府への照会→同年7月「鬱島郡の配置顛末」:大韓内務部は郡管轄の島嶼を示す勅令41号を統監府へ示す→騒動鎮静(統監府の対応は、言及されていないが、「ほら!鬱島郡に入っていないじゃないか!」※)→その後1909年1月の鬱島郡守の文書でも、鬱島郡所属島嶼が確認されている(独島ナシ)。です。
2017/8/4(金) 午後 11:40 [ Gくん ] 返信する
現在韓国側の主張する結論になるには、上記※印部分が、以下のようにならないと辻褄が合いません。
※このとき大韓政府は、勅令中”石島”が、いま(1906年)争点になっている独島だとの説明をして、日本政府・島根県に対して、独島からのお引き取りを願った→日本政府・島根県も、そうですか!1900年10月のおたくの勅令で編入済みですか! ごめんなさい!として騒動鎮静化。 とはなっていません(韓国側の主張は史実に反します)。(この二稿目若干書き変えました)
2017/8/5(土) 午前 9:27 [ Gくん ] 返信する
本文記事、ていねいに読んでました。これは管理人さんの新見解ですね。復刻版記事>光武5年(1901年)に勅令(注5)によって鬱陵島を郡に改称し、島長を郡守に改定し、・・< に対する推論ですが、確かに注5の直前に”勅令”の文字があります。
当時の韓国外務部の担当部局執筆者は、勅令(41号)に直接当たっての、以下の公的記録がない< との記述に繋がったと見るのが自然かもしれませんね。当時の外務部は、今よりちょっとだけ正直だったのかもしれません(笑)。
2017/8/5(土) 午後 9:23 [ Gくん ] 返信する
(注5)はウソだと指摘する人は他にもおられますが、私もこれはウソだと思ったので書いて見ました。条文も確認せずに「鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無い」などとは言えない、というところがポイントですね。
2017/8/6(日) 午後 10:04 [ Chaamiey ] 返信する
Gは、史実を時系列で並べてみて上記第1稿2稿としました。柳美林氏・半月城氏の主張は、いわゆる1次議論です。1906年7月の「鬱島郡の配置顛末」の際、統監府が柳さんの主張のとおり、勅令の”石島”が独島だということを認めて、統監府が納得した事実はありません。 ゆえに「通らない」と考えました。
それとヤフーニュース8月7日聨合ニュース配信「日本の独島領有権主張覆す地図 130年前の日本教科書に」< がありました。前に本サイトで1905年竹島編入前の女学校の教科書だったか!?で、地図付きで同様記事がありましたね。この教科書も1886年(明治19年)ということでした。
2017/8/7(月) 午後 5:58 [ Gくん ] 返信する
そのニュース、ありますね。まあ、つまらないニュースですが、そのうちこのブログにも記録しておきます。
2017/8/7(月) 午後 6:01 [ Chaamiey ] 返信する
これですね。
japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/08/07/0200000000AJP20170807001600882.HTML?from=yna_kr
「新撰地誌」巻3のアジア地図。「独島は表示されず、国境線も独島の位置近くで引かれてはいない」と書かれていますが、それは真っ赤なウソです。
img.yonhapnews.co.kr/photo/yna/YH/2017/08/06/PYH2017080705090000500_P2.jpg
赤い国境線は、竹島の至近を通っています。ぎりぎりですが、国境線の日本側になります。確かめる方法は、東経135°と東経140°の経度線が曲線で引かれていますので、それをたよりにして、石川県穴水町を通る緯線と、山口県光市付近を結ぶ経線を延長してその交点を作図すればよいわけで、交点が竹島の位置となり、ウソが暴けます。
2017/8/8(火) 午後 6:17 [ 小嶋日向守 ] 返信する
訂正 東経130°と東経140°でした。
次の日本總啚の方ですが
img.yonhapnews.co.kr/etc/inner/JP/2017/08/07/AJP20170807001600882_01_i.jpg
この地図は、北海道と樺太が南北に引き伸ばされて作図されていますので、メルカトル図法による地図であることが分かります。経緯度線は直角に交わる直線となります。
描かれている二島は、アルゴノートの竹島と、ダジュレーの松島(鬱陵島)であり、島根県の竹島ではありません。
そもそも1887年のこの地図は、1803年の偏角誤差のある伊能図を元にした日本地図ですので、九州や東北、北海道の位置は大きなズレがあるのです。そのために現在のメルカトル図法の地図を縮尺を合わせて合成しても、周辺部は特に大きくずれてしまいます。
伊能図中図におけるずれに関する考察
www.jstage.jst.go.jp/article/jjca1963/38/1/38_1_13/_pdf
2017/8/8(火) 午後 6:24 [ 小嶋日向守 ] 返信する
伊能図中図のズレを扱ったこの金澤敬さんの論文は、実に興味深いものです。
伊能中図は、正弦図法(サンソン・フラムスチード図法)で作図されていて、京都改暦所のあった東経135度44分23.13秒を通る経線を中心としているとのことです。この経線のみ垂直線としてその両側にある経線は全て正弦曲線を用いて作図されているというわけです。度分秒の135°44′23.13″を角度に換算すると135.7397583333333°になります。ただし、これは日本測地系の値でしょうから、世界測地系に変換します。すると東経 135.73690935度になります。グーグルマップで確認してみました。月光稲荷大明神のある街区画の中央付近すなわち、京都府京都市中京区西ノ京西月光町12-2付近をクリックして、35.010040, 135.736929 の値を得ました。これを数値変換してみると日本測地系で、35.00681536 と 135.73976369E となりました。分秒単位に換えると、北緯35度00分24秒535と東経135度44分23秒149 となります。
2017/8/11(金) 午後 6:50 [ 小嶋日向守 ] 返信する
伊能図中図における地球の形状は、地球直径を、6345.507581㎞としているようで、この値は、1km程度の誤差しかありません。
伊能忠敬と日本人にとって地球物理学的に幸運だったのは、1800年頃の磁気偏角が微小で、これを無視して磁北を真北と見なしても地図作製に取り組めるという判断が可能であったからです。九州南部と東北、北海道はズレが大きくなっていますが、経度測定成果による補正がなされた江戸付近から長崎付近までの日本の中枢部は極めて正確です。
このため、山口県光市と石川県穴水町付近とを通る経緯線を延長した位置に存在する竹島の推定位置も正確なのです。また伊能中図は、一里を曲尺(折衷尺)の六分として、縮尺1/216000 です。
この値は全く偶然ながら、韓国の地図の研究と、日本の竹島の研究に意味を持ちます。
2017/8/11(金) 午後 6:54 [ 小嶋日向守 ] 返信する
なぜ韓国の地図に関係があるかは、別の記事に詳しくコメントさせていただくつもりです。
なお、伊能図の中部地方から東北、北海道にいたる地域における中央経線は江戸とのことです。また「伊能忠敬は晩年に,図上の経線を緯線に直交するように改め、緯線が湾曲する地図投影(ほぼ正角の正距横軸円筒図法、カシニ・ゾルドネル図法または広域の直角多円錐図法に類似)を考案し、作図の数表「一里六分図東西之経度並自北極下国直円経差」を完成したが、それによる地図作成は実現されなかった」というのは残念なことでした。
これは南北に広がる地域の大縮尺図に最適と考えられるものです。
2017/8/11(金) 午後 6:59 [ 小嶋日向守 ] 返信する
一つ前の投稿コメントの訂正です。
「地球直径」は、「地球半径」の誤記でした。また
「1km程度の誤差」は、「0.4%程度の誤差」に訂正します。
なお、韓国の地図に関係がある偶然の一致に関しては、過去記事の
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53024845.html
に投稿します。感動的な大発見です。
2017/8/14(月) 午前 2:46 [ 小嶋日向守 ] 返信する