『獨島問題概論』1955 外務部政務局 第一章 独島についての史的考察 第一節 独島に関する古記録 五 欝陵島所属問題と独島 今から260年前、粛宗朝に我国と日本との間に欝陵島に関する所属問題が発生し、しばらくの間、外交的に争ったことがあった。 欝陵島が本土に知られたのは非常に古くからのことで、三国史記に新羅第22代智證王13年(西紀512年)の記録に、木偶獅子によって于山国の人々を降服させたとされている。このように、初めには国名として于山、島名として欝陵と三国史記に載録され、高麗時代に至り、欝陵、蔚陵、芋陵、羽陵、武陵、あるいは茂陵等の別称が見られるようになり、我国に属する島であることは二言を要しない。 高麗第8代粛宗王朝は、東女眞が海上に出て寇掠が甚だしかった時代であるが、孤立無援の于山国人が女眞海寇の好餌とされたのは避けられないことだった。高麗史第四巻顕宗9年(西紀1018年)11月丙寅、同10年7月己卯、同13年7月丙子の記録によれば、女眞人の侵掠によって島内人民を内陸へ移住させ、その後、この島を空けておいたようである。 ところで、高麗の末葉から李朝初期にかけて14世紀に江原道沿岸地方の人々が多数この島に移住し、欝陵島に再び人々が暮らすようになった。しかし、この島は陸地から遠く離れていることから往来が不便であるだけでなく、風波によって溺死する者も続出し、また、この島に移住する者はたいてい軍役と税金を逃避しようとする者だけであり、また、この島は倭寇の侵掠を受ける怖れがあったため、太宗17年(西紀1417年)に三陟の人金麟雨を欝陵島按撫使に任命して居民80余名を刷還し、世宗7年(西紀1425年)に再び金麟雨を派遣して再度居民を刷還し、同20年(西紀1438年)に護軍南薈を派遣し居民60余名を刷還し、本島に人が入って住むことを厳禁した。しかし、本島は魚採の利益が大きいため、慶尚道、江原道沿岸の漁民の往来を全く禁止する道理はなく、単に人の入住だけを厳禁したのだった。 このように、欝陵島を完全に空島とするようになるや、日本の因幡、伯耆州(島根県)等の地の漁民が時おり欝陵島にやって来て漁採をしたが、日本人は欝陵島を磯竹島あるいは竹島と呼んだ。欝陵島に大竹が生えるためにこのように命名したようだ。 ところで、粛宗19年(西紀1693年、日本の元禄6年)に我国の慶尚道東莱の漁民安龍福の一行と日本伯耆州の漁民が欝陵島において出会い衝突が発生したために我国と日本との間に欝陵島所属問題が生じ、日本は竹島への朝鮮漁民の往来を禁止してくれと言い、我国では、日本側が言う竹島は我国の欝陵島と同一であり、日本漁民の往来を禁止せよと主張し、多年の間、互いに外交戦を展開したが、結局、日本が理に屈し、粛宗23年(西紀1697年、日本の元禄10年)2月に江戸幕府が竹島すなわち欝陵島を朝鮮領土として承認し日本漁民の往来を厳禁したことは我国の史料である粛宗実録、同文彙考、通文館志と日本側史料である朝鮮通交大紀、本邦朝鮮往復書、通航一覧等に明記されたところであり、憲宗3年(西紀1837年、日本の天保8年)に、日本は、竹島すなわち欝陵島に密貿易をした石見国濱田松原浦無宿八右衛門を死刑に処し、我国に対する約束を遵守したことも日本側の史料である外交誌稿、日本財政経済史料と歴史地理第55巻第6号樋畑雪湖の論文に引用する文書『東海道宿 宿村触』に明記されたところで、日本は江戸幕府末期まで竹島を朝鮮領土として承認し、日本漁民の往来を厳禁した。 竹島すなわち欝陵島を朝鮮領土と承認した以上、その属島である独島すなわち現在日本人が言う竹島もまた朝鮮領土として承認したと見ることができるのだ。 六 鬱陵島開拓と独島 鬱陵島所属問題が解決した後にも、我が国においては以前のように鬱陵島に人々が入住することを禁止し、隔年に一度ずつ平海郡守あるいは蔚珍県令を派遣して居民の有無を巡審させ、本島所産の大竹、香木、山蔘を採取して可支魚を捕獲した。 ところで、その後、日本は幕府が倒壊し、いわゆる明治維新があり、幕府時代のすべての禁令を解除したのみならず海外進出を奨励するようになったために、日本人は再び鬱陵島に進出し、鬱陵島を松島と変称し、千古手つかずの欝蒼たる木材を盗伐した。そのため、高宗18年辛己(西紀1881年、日本明治14年)に、我が国政府は、日本の外務卿代理上野景範に、日省録高宗18年5月癸未同文彙考附属編 一辺禁二立己礼曹判書以禁断蔚陵島伐木事抵外務卿書 外務大輔答書 に見るとおり厳重な抗議をすると同時に、この島を空曠のままにしておくことが国防上疎虞であることに鑑み、5月に副護軍李奎遠を鬱陵島検察使に任命し、島内外の形勢を細密に調査した後に従来の方針を変更し、承政院日記高宗18年辛己6月5日己亥条によれば鬱陵島開拓令が発布され、鬱陵島に入って住む人々を募集した。 この当時は、丙子修好条規以来、日本人の国内に潜行する事件が漸盛となり、彼らに対する戒厳が徹底されている時であった。これと時を同じくして何百年間も堅く閉じられていた門が開かれるや、江原道沿岸の人々は言うに及ばず、全羅道、忠清道地方からも移住する人々が多く、鬱陵島の山谷は年を追うごとに開拓された。 翌高宗19年壬午(西紀1882年)8月に鬱陵島に島長を置き、また、翌癸未3月には参議交渉通商事金玉均を東南諸島開拓使兼管捕鯨事とし、白春培を従事として、また鬱陵島の官守を僉使とし、さまざまな角度から鬱陵島の経営を積極化しようとした。金玉均の開拓事業は未だ就緒の前に甲申政変により挫折してしまい、その隙に日本人の鬱陵島侵掠が次第に公然化していった。 島長は内務部から配置されて島の民政処理に当たったもので、体面維持も困難な程度であったが、光武5年(西紀1901年)に勅令によって鬱陵島を郡に改称し、島長を郡守に改定し、初めて地方行政の一単位とした。独島は記録と実際知識によって早くから知られており、鬱陵島の一属嶼として封禁期においても往来が絶えることがなかったのは前述したとおりで、独島をあえて鬱陵島の行政区域に編入したと宣言する必要もなかったのであり、また、ことさらに公的記録を残す理由もない。 我々の古来の可支島、三峰島、于山等が、従前には海上孤縣の一岩嶼として、問題にしようとしても問題になるほどの事件があったこともなく、それが問題となったのは、日本人の海驢捕獲地として利用してその島根県領として編入したことに始まるのであり、このようになる前に鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無いからといって、独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったという事実を否認はできないのだ。したがって、独島を日本領として通告して来るや、光武10年に、鬱陵島郡守が「我国所属独島」と記録して中央政府に報告してきたのだ。 (第一章第一節 終) |