ゲリー・ビーバーズさんのブログにある記事の日本語訳です。 1899年7月6日の税務士ラポートによる鬱陵島視察報告 以下の報告書は、1899年7月6日に釜山税関の税務士ラポート(E.Laporte)から韓国税関の主席委員ブラウン(McLeavy Brown)に提出されたものである。 韓国政府の要請により、ブラウンはラポートに韓国の鬱陵島に行ってその状況を個人的に調査するよう依頼した。報告書のコピーが韓国ソウルの英国公使館の代理大使であったジョーダン(Mr.John Newell Jordan)に内密に提供された。 現在、このコピーがイギリスの国立公文書館(The National Archives)に収蔵されているので、これは明らかにジョーダンが受け取ったコピーあるいはジョーダンがイギリスの首相に送付したそのコピーである。 『鬱陵島事況』と題する韓国の皇城新聞1899年9月23日の記事は、少なくとも部分的にはラポートの報告に基づいている。 この報告書がそれ以前の全ての鬱陵島検察報告と同様にリアンクール・ロックス(独島)について何も語らないのは、特に驚くべきことではない。この報告書は、「独島」についての韓国の主張を支持する材料を見い出すかも知れない最後の希望の一筋であったが、その希望の光も消えてしまったようである。 下記の1つめの写真は、ジョーダンが報告書のコピーを1899年7月24日に当時のイギリス首相であったソールズベリー侯爵(Marquess of Salisbury)へ送付したことを示している。首相は1899年9月11日にそれを受け取った。2番目、3番目及び4番目の写真が報告書である。 (写真はリンク先を御参照) 『鬱陵島事況』(皇城新聞 1899年9月23日)は↓こちらにあります。
別報
鬱陵島 事況
蔚珍の東の海中に島が一つあり、鬱陵という。その附属の小六島のうち最も顕著なのは于山島竹島だ。大韓地誌によれば鬱陵島は古代の于山国で、広さは百里で三つの峯が聳えている。 産物は柴胡、藁本、石楠、藤草、香木、槻木、蘆竹だ。土地は大麦に適している。昔は、"可之"と呼ばれる角の無い牛のような水獣(アシカ)が生息していた。霍鳥と呼ばれる海鳥も生息している。 島に住む人は少なく、そのため政府は税金の徴収を免除していた。三年ごとに近くの地方官が選任され、島の状況を確認するために派遣されて、香木や蘆竹を持ち帰って王に献上してきた。 1883年に朝廷は金玉均を東南諸島開拓史兼捕鯨使に任命し、白春培を従事官に任命した。彼らは該島の開拓事務を任されたが、翌年の甲申事変により任務を全うできなかった。その後1888年に(島民の)徐敬秀が越松萬戸(将軍)に任命され、島民人口増加の促進と外国人の材木の違法伐採を防止する任務を請け負った。しかし、徐は翌年大きな効果を挙げることができないまま死去した。 開国504年の1895年、内部(内務省)は住民の裵季周を島監に任命し、島の管理を行わせた。本年春、裵は「最近になって多くの日本人が流入し、樹木を切り倒し島民の生活を犯し迷惑をかけ問題を起こしている」と報告し、政府に法律を設定して防護することを求めた。そこで内務省は税関の総税務士John McLeavy Brown卿(柏卓安)に西洋人を鬱陵島に派遣して状況を調査するように要請した。 報告書の概要は次のとおりだ。
鬱陵島は二百里程のところにあり、約75平方里ある。全島中耕作地は多く無く、海浜から山嶺まで鬱蒼とした森に覆われている。山の高さは4000フィート(英尺)ほどで、岸から三里内の水深は6000から9600フィートだ。 島の居民は男女300戸で、数十年来、船大工や商人と漁師、農民が少しずつ来島して住み始めた。海岸の水深は大変深いため漁業は収益が無く、海藻の出荷は年に2000擔程になる。 土質は肥沃で肥料は必要ないが、収穫を増やすために木灰がすき込まれる。大麦と小麦が春に、芋と豆は秋に収穫される。昨年の収穫は芋二万包、大麦二万包、黄豆一万包、小麦五千包だった。土地の傾斜がひどく、稲作はできない。材木は巨木の杉などの各種貴重材が多数ある。槻木、香木、柏子木、甘湯木(モチノキ)なども産出する。 本土(大陸)との通商はとても少なく、稀に食料品、煙草、布製品など数袋の物資の輸入があるのみである。輸出は海藻が主であるが、ときに材木もある。 海岸は岸壁の合間にアシカが群れをなしている中、100フィートほどの小湾がある。そこで日本の船が米、塩、甕、日本酒、毛布、木綿、ケロシン、マッチ、傘などを輸入品として降ろしている。豆や麦と言った輸出品のほか、全島各地で乱伐した材木が船で積み出されるがその値段は安い(?)(原文では「不資」)。 日本人が計画的に居住地を作り、200名ほどが現地で生活している。現地住民の生活を脅かして気勢を上げるなどの弊害がある。農民や商人は本来免税されているが、島監が海藻の10分の1、材木は船一隻あたり葉一百兩を徴集している。日本人が商品を売った場合は2%を支払うが納税はしない。
本年9月、内務部は右の報告に基づいて外務部と協議したが、外務部では駐ソウルの日本公使に照会して、該島に不法侵入した日本人を定期的に送還させ、通商港でない場所での密貿易を禁止するよう申し入れたという。
<コメント> 鬱陵島がこういう状況であったために、韓国政府は翌1900年に勅令第41号を制定して鬱陵島の管理を強化することになったわけです。逆に言えば、この調査は勅令41号制定のための下調べになったのです。しかし、御覧のとおり、報告書には竹島(独島)というものを意識している言葉は一言半句もありません。 |
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九州地方、地震大丈夫だったでしょうか?。ウチ鹿児島けっこう揺れました。この問題、「元禄竹島一件~天保竹島一件~明治3年佐田ら報告~明10年外一島指令~1900年10月大韓勅令~04年9月から05年編入手続き~06年7月郡の配置顛末」との流れですが。やはり、1903年に隠岐の水産業者中井が、アシカ漁でこの島に目を付けるまで、”組織的に”この島に関与した者はいなかったようですね(絶海の孤島)。1904年からは、鬱陵島を根拠地とする業者も参加(いわゆる競合状態→下記表1)。
なぜそう感じるかといいますと、本サイト過去記事の韓国側研究者の論文<中井養三郎と独島強占5の表1 6の表2> 3) 「独島無主地」説と露日戦争<などを読んで強くそう思いました。
2016/4/14(木) 午後 10:23 [ gku***** ] 返信する
いやあ、ちょっと揺れましたねえ。震源地方面では被害が出ていますが、我が家は被害は全くありませんでした。
2016/4/14(木) 午後 11:03 [ Chaamiey ] 返信する