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女子大生のリアルな信仰ブログ。

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恋愛できない体質


未分類

こんばんは。

先日男友達と遊んでいたのでふとこんな内容を。

男友達。

果たして二世に必要な存在なのか?

うーん。分かりません。
たぶん「必要」ではないと思いますが…
私は居て良かったです。
異性との距離感の取り方や男性の考え方を学び、尊敬すべき点がたくさんあります。
私には男も女も変わりなくいずれは伝道したいと思っている人たちです。

ただ、かつての二世教育では異性の友だち付き合いに対して
というか、異性に対して「友達」の概念はなかったように思います。
たぶん教会では「兄弟姉妹」と表現されている概念です。
でも教会の外であれば、少し状況が変わってきますよね。

異性とは、
喋ってはいけない。(必要以上に)
目を3秒以上合わせてはいけない。
二人きりになってはいけない。

こんな感じで教育されていました。

高校まではなるべく守っていましたが、
おかげでレズなの?という疑いがかかってしまいました。
私が男女で極端に愛想が違ったのもありますが。

大学では、さすがに異性という意識の枠組みを超えて、
人づきあいという概念になってくるので
今までの自分の異性に対する接し方が馬鹿らしくなり
じゃんじゃん男友達をつくりました。

また、こんな二世の友人が居ます。
男性が気持ち悪い。と。(不快にさせたらすいません)
教会にいる人はそんなことは思わないけど、
この世の男性を理由なしに怖がるみたいです。
この世の人にも人格者はいっぱいいるのに、
分別教育のそんな歪んだ概念を見て、反抗心が燃えあがり
男友達を作るのにあまり抵抗はありませんでした。

そして私は、異性との人付き合いは、
恋沙汰にさえならなければいいと割り切っていました。
つまり、それこそ「男友達」なわけです。


そう思っていた矢先、大事件が起こりました。

私が恋をしてしまったのです。

今までは、私が揺らがなければいいと思っていましたが
私が揺らいでしまえば、どうしたらいいんでしょう。
気づいた時は、もう止められませんでした。

相手の行動に一喜一憂して、
気づけば相手のことを考えてしまう。
さらに少しでも自分を見てほしくて
相手のためにその努力をする。
自分の知らない一面がどんどん出てきて、
びっくりしました。

しかし、我にかえってみれば、
神を無視した自分の行いに吐き気がさしました。

本当に苦しかったです。
いけないことだと分かっていたから。
罪の意識にずっとさいなまれていました。
でも理性と衝動が全くもって別の方向を向いていて
頭ではわかっていても、気持ちが止められない。
常に自分で自分を責めていました。

また、本来主体者にとっておくべき初めての気持ちを、
別の人に捧げてしまったと思うととても悲しくなりました。

そして実際に体調が悪くなり、食欲も減り、
かなり様子が変だったので周囲からかなり心配されました。

そのあとどうしたかというと、告白をしました。

「好きです。でも付き合えません。」と。笑

そして「許嫁がいます」とも言いました。

告白で、自分の決意の表明をしたわけです。

また、相手の方もその気がなかったわけではないので
こう言うことで彼と「付き合う可能性」を潰しました。
今後私の気持ちが揺らぐことがあっても
彼が事情を分かっていたら絶対に大丈夫だろうと。
これでかなり自分の気持ちを割り切れましたね。

今では、事情を知っている分、
良き理解者であり、大切な友人です。
恋心を収めるのに時間はかかりましたが。
可能性がない分、友人として親交を深めました。

この出来事から学ぶことはたくさんありましたね。

今まで恋愛に陥っていった二世たちを信念が足りないんじゃないの?
と勝手に思っていましたが、認識を変えました。
信念とは関係なしに、恋というのは芽生えるもので、
自分が恋することはないという絶対的自信もあてにならないと。
やっぱり、異性との交流には危険がつきものだと。笑
だからと言って、異性との交流を断ち切ることはありませんが、
危険を察知しなければならないと思いました。

でも同時に、自ら堕ちることは絶対にないのだと確信しました。
恋愛をしたくとも進むことは自分が許さない。
恋愛しているときほど苦しく罪を感じることはなく、
これほど、口うるさく言われた純潔教育に感謝したことはないと思います。
もうそれは、体質というほどに染み込んでいるのだから。


ここで言いたいことは、果たして、
こういった体質を持つ二世が何人いるかということです。

私は前回の記事で二世には青春を謳歌してほしいと書きましたが、
それは同時に、異性と接触する機会が増えるということです。
実際私も遊び始めてまもなく恋してしまったので、
選択を間違えれば道を踏み外してしまう可能性を自ら増やしました。
そうしてそのまま、堕落してしまう二世が現実に多くいるため、
可能性を断ち切るため過度な分別教育を行ってきたのでしょう。
はっきり言って私がこうやって純潔を守れたのもいきすぎた教育の賜物かもしれません。

ではどうやったら「恋愛できない体質をつくる」のか?
過度な分別教育の成果とは絶対に言いたくはありません。
ですから、私はこう主張したいのです。
祝福に対する希望の方が恋愛より魅力的だったから!
だから、恋愛ができない。

これなら青春をおくりつつ純潔を守ることができるのでは?
祝福を受ける二世の割合は全体の一割に満たないそうですが、
こういう体質をもつ二世が増えることを願うばかりです。


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secret

思った通りです。あなたの話を聞いた時早く祝福受けないと危ないと直感しました。
男友達?あなたは男を知らなすぎる。男は隙があれば女とやりたいのですよ。
あなたが拒否しても二人きりになって襲われたらあなたの貞操は終わりです。
高校生で妊娠して堕ろした二世を知ってますか?
恐ろしいですよ。泣くのは女だけですからね。
実はあなたもそうなることをどこかで求めてる傾向があります。
あなたには男が付け入る隙があります。つまり暗に誘惑しているのです。
環境を分別しないとあなたの貞操は時間の問題ですよ。
ポセイドンさん、以前は青春を謳歌しろと言ってくださいましたね。コメントありがとうございます。

> 思った通りです。あなたの話を聞いた時早く祝福受けないと危ないと直感しました。

自分でも祝福は早く受けたほうがいいと思っています。
何分、早く人を愛したいので。

> 男友達?あなたは男を知らなすぎる。男は隙があれば女とやりたいのですよ。
> あなたが拒否しても二人きりになって襲われたらあなたの貞操は終わりです。

二人きりになるシチュエーションや状況もきちんと把握して避けていますし、世の中そういう男性ばかりではありません。そういった教育で全ての異性を分別するから逆に二世が誘惑だと捉えるのです。

> 実はあなたもそうなることをどこかで求めてる傾向があります。
> あなたには男が付け入る隙があります。つまり暗に誘惑しているのです。

これは一理あると思います。自覚しています。
では逆に全く女性として女も磨かずに、うじうじとこの世の男性に怯えながら暮らすべきなのでしょうか?
そうは思いません。そういった欲求を抑えつつ、たった一人の主体者と出会うまで女を磨いていく、それもひとつの信仰だと思っています。
私はそうでもしないとやっていけないのが本音でもありますが。

お父様の理想がとてもなく高いところにあり、それに私たちも追随してあらゆる妥協を許さない面がありますが、私はそれが問題だと思います。多くの二世は高すぎる理想についていけず、反旗を翻しているのが現状ではないでしょうか?

こういった記事を書くからには厳しいお言葉もあるかと思っていました。ですが、これがあるひとりの二世の戦い方だと認識して頂きたいです。

青春は男女分別しても謳歌できると思いますよ。
青春を謳歌するということは遊ぶ事だけではありません。
スポーツしたり、海外旅行したり、ボランティア活動したり、勉強したりね。
ただ異性の場合は予期せぬ事故が起きる可能性があるのです。
実は私もアダムエバを導かれる時に経験しました。
私は一世で男性ですが当時2DAYSというところで知り合った女の子と恋仲になった事があります。
世間擦れしていない清楚で可愛い女の子に一目惚れをしてしまいました。
早速自分のアパートに連れて行って2人きりで音楽を聴いたり話をしたりしました。
とても楽しかったです。
しかし2人とも原理を聞き始めていたので、もしかしてこれってアダムエバ?というのが頭から離れませんでした。
しかし交際を続けたかった私は「ぼくたちは友達同士だから大丈夫」と正当化して彼女を説得し会っていました。
しかし彼女は教会から去ってしまいました。理由を聞いたら男女の情を分別できなくなってしまったからだと言っていました。
もし彼女と会い続けていたら間違いなく肉体関係になっていたでしょう。
あなたは好きな彼に体を求められたら拒否できますか?最後はなし崩しになるでしょう。
しかし世の中はこれが普通です。別に特別の事ではありません。世の中の人は結婚までに何人とも経験します。
結婚まで純潔な人はまずいません。男性で女の体に興味ない人は同性愛の方だけでしょう。
だからなるべく2世は世の中に出る前に祝福を受けさせます。そうしないと情が抑えられないからです。若いしね。
もし将来祝福を受けたいのなら両親に話す事ですね。そうすれば分別できる。
もし両親に隠すということはそこに罪があると認める事ですよ。
エバは誰にも相談しなかったから堕落したのです。
堕落すると神様がわからなくなります。
はやく誰かに相談しましょう。
やはりマッチング家庭の二世さんは違いますね。
私はまだ祝福を受ける自信がありません。
 もし祝福相手より好きだった方が素敵だったら後悔しませんか?自分の思いを捨てるって大変ですよね。

勿論好きな人と結婚して冷める事もあるでしょうが、祝福家庭で闘ってる方もおられるし悩むところです。信仰二世だし好きな人と結婚して祝福を受けるように努力しようかなとか、本家庭の二世さんでない分許しはあるけど悩むところです。

いい方に巡り会われるよう祈っています♪
ポセイドンさん、ありがとうございます。

とても正論だと思います。少し耳が痛いほどに。
私自身も「友だちだから大丈夫」と正当化してきたのだと思います。
すべての情を自ら断ち切ることは困難で、「友情」という名目の情を残すことで妥協しました。
それを正当化と言いますが、そうやって正当化しなければ、どうしようもなく苦しかったです。
ポセイドンさんが仰ることは、どんどん自分の行いを正当化していった果てには、
堕落が待っているということと捉えてよいでしょうか。
正当化することは、自分の罪を無視するのと同じですものね。
少し、自覚が足りなかったかもしれません。肝に銘じておきます。

ちなみに、親や告白文ですべて報告してあります。
私が恋したことも、仲のいい男友人がいることも、交遊関係は話しています。
隠すことが罪だと知っているので、全て言うことで分別しました。
これは数年前の話で、悔い改めていなければブログに書くこともできません。
今は前を向いて祝福に向かっているつもりです。
御心配、ありがとうございました。
信仰二世さん、コメントありがとうございます!
ブログにて同じ二世の方と絡めるのはとても嬉しいです。

おそらく信仰二世は信仰二世なりの葛藤や信仰観がありますよね。
祝福二世にしろ信仰二世にしろどちらも信仰や祝福においては悩む大きさは一緒ではないかと思います。

私は、祝福二世として生まれたからには、血統を穢すことが何よりも畏れになっています。
それはもはや戒めみたいなもので、祝福以外の選択肢はあまり考えないようにしてきました。
>>もし祝福相手より好きだった方が素敵だったら後悔しませんか?
とありますが、それよりも恋愛結婚をして血統を穢す方がはるかに後悔がでかいと思います。

むしろ私は、信仰二世が祝福を選ぶことの方が難しい選択だと思います。
信仰二世は血統を穢してはいけないという「戒め」の恐怖感がないので、
祝福においてはほぼ一世の方に感覚が近いのではないでしょうか?
祝福を受けるしかない祝福二世と違って、自ら祝福結婚を選ぶ信仰二世の方が、
よっぽど大きな信仰心が必要だと思います。

いや、だからこそ、信仰二世さんも悩んでおられるのだと思いますが…笑

私は祝福を受けてからの葛藤や闘いは必ずあると思いますし、
それを乗り越えてからの大きな幸せに期待しています。
祝福相手を自分好みに変えてやろうとか、逆に自分はどんな影響を受けるんだろうとか、
祝福を受けてから、どうやったら自分と相手が幸せになるかを考えています。
それが楽しみで今頑張っているという感じですかね。

信仰二世が祝福を選ぶのは本当に大変だとは思いますが、その分本当に価値があると思います。
尊敬すべき信仰二世です。
信仰二世さんも、祝福に対して希望的になれたらいいですね。
こんばんは。
率直な記事にとても共感を覚えます。
また、率直な感想から言いたいことを書かせていただきます。

記事を読んで感じたこと、それはもし私が2世と同じ教育を受けていたら、神様とご父母様を信じていても、間違いなく教会を離れるだろうということです。
そう思うと、教会を離れていない2世はすごいと思います。
よく気がおかしくならなくて、正気を保てているなぁと、神様とご父母様、そしてご両親を思う思いに頭がさがります。

皮肉った表現をしてすみません。
一人の体験者として、教会にその異常ぶりを言いたくて書きました。
不信仰者の戯言と思っていただいてもかまいません。

人を好きになることは大切なことです。
情の成長を考えた時、愛の理想の実現を考えたとき、情を育てることをないがしろにして、どうやって相対理想を実現するというのでしょうか。
人を好きになり、自分でもどうすることもできないほどの刺激の経験を、何のために神様が与えたのですか?
問題は、そのような感情を感じることではなく、そのときどのようにそれを主管したかだと思います。

私も自身のブログで書いていますが、教会に来てから3回、姉妹のことを好きになりました。

一度目は、堕落することを恐れ、姉妹のことを無視しました。
そのときその姉妹は
「プームチャイはどうしていつもそういう態度をとるの? 兄弟姉妹なのに悲しいじゃない」
そう言って私の前に立ちはだかり、泣かれてしまいました。
私はこのとき、理屈を越えて自分の行動が間違っていたことを知りました。
もし、この姉妹に出会わなければ、私は異性に対して分別するだけの冷たい人になったかも知れません。

2回目は、自分のこころをそのまま素直に表現しました。
もちろん、相手に誤解を招く言葉は気をつけました。
このときは、自分のこころを解き放つかわりに、その感じたことを全てノートに書き、信頼していた当時のアベルに自分から毎日渡しました。
命綱のみを残して、飛び込んでみたのです。
もちろん、世俗的な恋愛をしようなどという思いはさらさらなく、信仰的な闘いでした。
過ぎ去ったとき「私の事、心配したでしょう」と尋ねると「安心して見ていた」と言ってくれました。
私にとって大切な情の成長の段階だったと思っています。

私はトレーニングという期間を除けば、男女問題を厳しく分別されることはありませんでした。
むしろアベルの言葉以上に原理とイエス様の言葉が私を分別しました。
それ故に人を好きになることに罪意識をもつなどということはありませんでした。
初愛は本来神様に対してするものというみ言葉を思えば、私の捉え方は不信仰かも知れませんが、私は感情を否定してはいけないと思ったのです。

感情はこころのセンサーです。感情を否定すればこころは死にます。
問題は、その自分のこころをどう主管するかです。
教育するなら、分別教育のみでなく、どう主管するかを教えるほうが良い気がします。

自分自身の環境や状態を見て、どういう方法が良いのか判断するのは自分の責任です。
marrymeさんは、自身の責任でその選択をしたので、今、2世として教会にいるのではないでしょうか。
記事を読みながら私には、こころが死ぬことを望まず、主管するすべを知らなかった多くの2世が教会を去ったように感じました。

女性であれば、危険な環境をさける。
そんなのは当たり前のことです。
神様が取って食べるなと言われたその責任を果たすことは、もっと本質的なものではないでしょうか。
プームチャイ様、率直な意見、ありがとうございます。

>感情はこころのセンサーです。感情を否定すればこころは死にます。
>問題は、その自分のこころをどう主管するかです。
>教育するなら、分別教育のみでなく、どう主管するかを教えるほうが良い気がします。

少し救われたような気がします。その言葉が聞きたかったのかもしれません。
そして、とても本質的であり、私が見つけたかった答えかもしれません。
ブログで出会えたことに心より感謝します。

私もとても疑問に思っていました。
神様が創造されたアダムとエバは、人を愛するように造られました。
人間はもともと人を好きになるように造られたのです。
それなのにどうして私たちは、人を好きになれば罪だと裁かれてしまうのだろう。

答えは分かっています。
神を無視した恋愛だから、相手が違うからですよね。
ほとんどの二世は自分で答えが分かっているはずです。

それでも頭ごなしに否定されてきたので、その情自体を罪とされてきました。
人を好きになることは人間として必然的なことなのに。

>こころが死ぬことを望まず、主管するすべを知らなかった多くの2世が教会を去ったように感じました。

まさにおっしゃる通り、結果として多くの二世が去ったように思います。
本当に聞きたかった答えは情を主管する術であり、決して情の全てを否定してほしくはなかったのです。

この度の私の選択は決して情の主管など崇高なものではなく、自分を生かすための妥協でしたが、
決して恋愛に走る選択をしなかった自分を少なからず誇りに思っています。
それでも人を好きになったお前が悪いと言われてしまえば、私はもう信仰を持つことができないでしょう。

アダムとエバに与えられた責任分担を果たすためには、
神を中心として自分のこころを主管することが必要だったはずです。
どんな時でも、その情を取捨選択して、神に帰るその主管力が求められたはずです。
ですから祝福を受ける前の私たちも情の分別だけでなく主管する力を覚えなければいけないんでしょうね。

プームチャイ様とは、通過してきた心情世界がとても似ているのかもしれませんね。
正しいのかは分かりませんが、私はとても共感しましたし、心が救われました。
情を否定されてきた二世にとっては、その言葉は大きな希望ではないでしょうか。

いろんなアドバイスありがとうございましたm(__)m
でも一つ驚いた事があります。祝福を受けて相手を自分好みに変えよう…私の誤解ならいいですがとても押し付けの自己中心的なものを感じました。

祝福は血統だけでなく心情を真の愛に変える為のものではないですか?正直に言うと実体的なものを伴わない名前だけの二世を見てつまずき祝福や血統転換って何かと考えさせられる事もあります。
 二世というのが何かブランド化されているような感じで、だから違和感があるしそれは名前だけのマッチング家庭の下育てられた結果かと考えると本当に心から愛し合える相手と結婚して後に祝福を受けた方が子供の為にもいいのかと考えさせられるんです。今のままだと祝福の相手が可哀想な気もします。自分の場合相手の好みを押し付けられるよりありのままを受け入れ愛してほしいからです。

もう一度お互いよく祝福の意義を学んだ方がいいのかとも感じます。お互いの立場で頑張りましょうね。

> でも一つ驚いた事があります。祝福を受けて相手を自分好みに変えよう…私の誤解ならいいですがとても押し付けの自己中心的なものを感じました。

いいえ、私の書き方が悪かったです。誤解を招いた表現ですいません。
しかし、ひねくれた表現はしましたが、言いたいことは合っています。

信仰二世さんは、祝福を受けることで本当に幸せになれるのか、悩んでおられるようですね。
答えは、つくづく自分次第だと思います。

血統転換をした二世の実体に疑問を抱いているようですが、祝福を受けることで確かに血統は変わります。が、自分の心情がいきなり真の愛に変わるわけではありません。血統を生み変えることができるのは真の父母様だけなので父母様自身が行ってくださったわけで、それから自分の愛の器を広げていくには私たち自身の責任分担になるため、そこには個人差が生まれます。

血統転換をしたはずの二世が実体を伴っていないのはそのためです。血統転換は言わば霊的なもので、肉眼で見る二世たちは、そこらの子どもとほとんど変わりがありません。ですから、二世たちがどうやって神の子どもらしくなるかは、それを教育する親と、二世自身にかかってくるのです。

そして、現実的にいえば、現在真の愛を体現している家庭はほぼありません。理想家庭の基準は、あまりにも高く、そして明確ではないからです。今ある祝福家庭が未熟なのも、拙いのも、理想家庭を目指して奮闘している過程にあるからです。

そして、祝福を受けて血統を生み変えてくれるのは御父母様ですが、そこからの愛の成長は自分自身にかかっています。祝福結婚は、相手は自分で決められず、最初から自分を愛してくれるような理想の人間ではありませんよね。そんな理想の人と結婚したとしても、自分の愛の器はそれほど成長しないからです。だから、相手も私も互いに愛する努力をして、お互いを成長させていくところに醍醐味があります。そして、相手をどんどん生み変えていくのです。

この相手を生み変えていくことが、「相手を自分好みに変えよう」と表現させていただきました。分かりにくくてすいません。気をつけます。ただ、み言では、男性も女性も、結婚をしなければ未完成であり、男と女が結婚しひとつになることで、初めて完成し、今まで知らなかった自分の一面や内面が開花すると言われています。

だから、私は想像します。
最初は自分に全く興味がなかった相手が、自分が愛する努力をして、どんどん自分のことを好きになって、服のセンスや、音楽の趣味や、笑いのツボまで、自分の影響で変わっていったら嬉しくありませんか?そして、自分も、相手の為に綺麗になる努力をしたり、向こうの好きな料理をつくったり、相手のために尽くすことが素敵だと思いませんか?

そうやって夫婦は自分の知らなかった一面を知り、愛の器を広げていきます。私は、祝福を受けることで、自分の知らない一面を知り、そして開花するのが楽しみで仕方がないです。そして、それができるのは、祝福相手しかいないんですよね。

もし信仰二世さんがありのままを受け入れて愛してほしいと思ううちは、祝福を受けても希望はないかもしれません。祝福を受けて自分も相手も変わることが必須だからです。でもそれは成長とも捉えられます。

そして、自分は恋愛結婚をしても、子どもには祝福を受けさせようと考えるのなら、なおさら難しいのかもしれません。自らが祝福に希望を見いだせなかったら、さらにその子どもが祝福に希望を抱くことは難しいからです。そして信仰二世さん次第で、子どもの血統も変わってきます。生まれる子どもが一世か二世かという血統の違いは、責任も教育も大きく変わってきます。

桜井正上さんの「幸せな結婚を願う人に贈る」という本を読んでみるといいかもしれません。祝福に対する価値観が変わると思います。


長々と説教じみてしまいすいません。でも同じ二世として、祝福の価値を知ってほしく思いました。どう選択するかは信仰二世さん自身にかかっていますが、あなたが幸せになることを願っています。
長文でお答え頂きありがとうございました。
お薦め頂いた本もまた読んでみますね。
 とにかく誤解で良かったです。失礼しました。

私なりに感じたのは祝福は神様を中心とした関係だという事が大事だという事です。自分の目や感情で判断するのでなく神様の目や心情を中心に愛せ互いが成長できるかという事が問われると思うので、先ずは自分がもっと神様に出逢う事が大事でそれから祝福の事は考えようと思います。

お付きあい頂きいろんなアドバイスもくださりありがとうございました。
 お互いの歩みが神様に導かれる事をお祈りしています。
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