日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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竹島問題は1906年に決着していた
 
さて、『竹島―もうひとつの日韓関係史』の著者池内教授は、どうも日本側は竹島領有権の正当性をあまり強く主張すべきではないというお考えのように見える(控えめに主張するのはいいのだろうか?)わけですが、そういうふうにお考えになる根拠は、「竹島の領土編入のころには韓国政府においても国家的領有の意識が存在したことを読み取るのは不可能ではないから、編入前に日本側から照会がなされたならば、おそらくそこで領有の正当性をめぐる議論が紛糾することになったに違いない。」という推定ですね。しかし、この推定も否定されます。「議論は紛糾しなかった」という可能性のほうが高いのです。
 
日本政府は竹島編入に際して、池内さんの指摘のとおり、韓国政府に対して事前照会も事後通告もしませんでした。しかし、「事後確認」はしたのです。そう、杉野洋明さんの紹介によって竹島問題においてはつとに有名になった、あの「鬱島郡の配置顛末」です。
 
 



















 
鬱島郡の配置顛末 (1906713日 皇城新聞)
統監府から内務部に公函があって、江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡庁の設置年月を示せということなので回答がなされ、光武2年5月20日に鬱陵島監を置いていたが、光武4年(1900)1025日に政府会議を経て郡守を配置し、郡庁は台霞洞にあり、当該郡の所管島は竹島・石島で、東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里だということである。
 
 
つまり、統監府が韓国政府に鬱島郡庁の設置年月と鬱陵島の所属島嶼を質問したのでそれに対する回答が出された、というニュースです。質問の意味は、鬱島郡はいつ設置されたのかと鬱島郡の範囲はどこまでなのか、ということになるでしょう。
19067月になぜ鬱島郡の範囲を尋ねるこういうやりとりがあったのか、この記事が出る前の経過を確認しておきましょう。
 
竹島編入のおよそ1年後の19063月、島根県の神西部長一行が鬱陵島に赴き、郡守沈興沢を表敬訪問して、「竹島がこのたび日本領になったので視察したのですが、ついでにこちら鬱陵島に立ち寄りました」と話しました。そのとき、応対した沈興沢は竹島のことについては特に発言はしませんでしたが、一行が去った翌日に次のような報告を送ります。

本郡所属独島が本部外洋百余里ほどにあるが、本月初四日辰時ごろに輪送船一隻が来て島内道洞浦に停泊し、日本官人一行が官舍に来て言うに、独島がこのたび日本領地となったので視察に来てそのついでに来島したとのこと。一行は、日本島根県隠岐島司東文輔、事務官神西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山岩八郎、巡査一人、会議員一人、医師技士各一人、そのほか隨員十余人で、先ず人口や土地の状況を尋ね、次に人員と経費、諸般の事務の状況を記録して去った。以上報告するので御確認いただきたい。
光武十年丙午陰三月五日

 
その報告に接した韓国政府の参政大臣朴斉純が、「報告は見た。獨島が日本の領地になったというのは事実無根のことだが、その島の状況と日本人の行動を更に調べて報告せよ」と指示したりしたのですが、新聞も沈興沢の報告を報道しました。
 
 
1906.05.01 大韓毎日申報 「鬱島郡所在の独島を日本が領地にしたというのは理の無い話だ」と報道
 
イメージ 2

















無変不有(変無きに有らず→ ちょっと変なことがあった)
  鬱島郡守沈興沢が政府に報告したところによれば、日本の官員一行が本郡に来到し、本郡所在の独島は日本の属地だと自ら称し、地界の広狭・戸口結摠をいちいち記録して去ったとのことだが、内務部からの指令によれば、遊覧の際に地界・戸口を記録して行くのは「容或無怪」(理解できないでもない)だが、独島を日本の属地と云うことは「必無其理」(全く理が無い)ことなので、今こういう報告を聞いて甚渉訝然(非常に疑念を感じる)であるという。


1906.05.09 皇城新聞
イメージ 1













鬱倅報告内(鬱島郡官吏からの報告―内務部関係)
鬱島郡守沈興沢氏から内務部への報告によれば、本郡所属の独島は外洋百余里の外にあるが、本月四日に日本の官吏一行が官舎に来て云うには、独島が今日本の領地になったので視察のついでに来到した。一行は、日本島根県隠岐島司東文輔及び事務官神西田太郞と税務監督局長吉田坪五、分署長警部影山岩八郞と巡査一人、会議一人、医師・技手各一人、その他隨員十余人で、戸数人口、土地の生産の状況と人員及び経費の状況、諸般の事務を調査記録して帰ったという。


 
 
 御覧のように、この二つの新聞は、沈興沢が報告したとおりに「鬱島郡所属の独島」が日本領になったということを報道しています。つまり、大韓帝国の領土が日本に取られた、ということになります。
 この二つの記事が掲載されたのは5月上旬のことで、「鬱島郡の配置顛末」の記事は713日です。これらを見比べれば、鬱島郡の配置顛末」の記事にある統監府からの照会というのは、韓国の新聞が「大韓帝国の領土が日本領になった」という意味の報道をしているのを見て、領土編入した竹島が本当に鬱島郡の範囲に含まれていたのかどうか、すなわち大韓帝国の領土であったのかどうかを確認するためであったと見るのが史料解釈としては素直でしょう。
 
  で、韓国政府は何と回答したかというと、「当該郡の所管島は竹島・石島で、東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里である」という回答をしたわけです。
 
 「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」というのは、長方形の枠を示しますね。朝鮮の1里は0.4kmということなので、「東西が24km、南北が16km、合わせて80km余り」になります。鬱陵島の大きさは東西・南北とも大体11kmくらいなので、「東西が24km、南北が16km」というのは「鬱陵島の一帯」という感じです。この数字と「当該郡の所管島は竹島・石島で」という説明を併せ考えれば、これは「鬱島郡の範囲」を示したものと考えるのが史料解釈としては素直でしょう。この範囲には鬱陵島の付属島嶼である竹島(チュクト)と観音島は含まれますが、鬱陵島から東南に90km離れた竹島は含まれません。
 
杉野さんの図(赤枠が「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」の範囲)
 
 






















 つまり「竹島(独島)は鬱島郡の範囲にはない」という意味のことを韓国政府が統監府に回答したのです。池内さんは「1906年までに独島に対する国家的領有の意識が存在したことを読み取るのは不可能ではない」と言いますが、そんなものは見られないのです。
 このとき、韓国政府が領有権を主張したかったならば何とでも回答はできたでしょう。「なお、鬱島郡設置の勅令には明示の規定はないが、独島も事実上郡の管轄下にある」とでも付け足して回答すれば良かったのです。しかし、韓国政府はそんなことは言わなかった。竹島(独島)が鬱島郡の管轄下にはないことを認めたのです。これは日本が竹島を領土としたことに異議が無いことを示しています。日本の竹島領土編入は、一時的に韓国の官民に「日本が韓国の領土を奪ったらしい」という疑念を引き起こしましたが、最終的には「そうではなかった」という理解で決着したのです。つまり、竹島問題は、既に1906年という時点で韓国政府も異議がないという形で決着・終了していたのです。


(続く)


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matsuです。

Chaamiey様
いつもながらの、するどい分析とわかりやすい記述に感服しています。

>史料解釈としては素直でしょう。
は、池内先生の文体を借用ですね。

彼はこの資料にも触れていない。
「鬱島郡の配置顛末」も「池田公函」も無視です。
「各部請議書存案」も無視している。当然、知っている史料だと思いますがね。
「知っていて、あえて無視」は、池内先生の「韓国化」が進んでいるということでしょうか。

2016/4/9(土) 午後 4:47 [ cqh*m42**0427 ] 返信する

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正直、韓国側主張にもかなり辛口な池内氏がなぜこれらの史料を見逃しているのか本当に謎です。あまり韓国を追いつめると史料の焚書を始めかねないとでも思っているんでしょうか(迷推理)

2016/4/9(土) 午後 5:00 [ h2b ] 返信する

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matsuさん、ありがとうございます。「史料解釈としては素直」は池内先生からの借り物ですし、次の投稿には「可能性を読み取ることは不可能ではない」もあります(笑)

matsuさんとh2bさんの共通の疑問についてですが、池内さんはネット情報には基本的に関心がないので御存知ないのではなかろうか、という気がします。

2016/4/9(土) 午後 7:00 [ Chaamiey ] 返信する

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matsuです。
>「可能性を読み取ることは不可能ではない」という論法で、「誰が分析しても同一の結論に至らざるをえない、歴史学の到達点」(新書カバーうら惹句)に至れるとはとても思えません。
このいいまわし、たくさん出てきますよね。
174 「D~Fを通じて、巨文島民による独島でのアシカ猟が1900年を前後する時期に存在していた可能性を読み取ることはできるだろう。この時期に、複数の朝鮮人漁民が独島へ個別に出漁し、細々とながらもアシカ猟を行っていたことは認めてもよい。」
可能性を読み取れれば史実として認定してしまう、というのだからすごい。

2016/4/10(日) 午前 7:28 [ cqh*m42**0427 ] 返信する

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noby様

matsuです。
>この記事は鬱島郡という行政区域の概要を説明するものであって、鬱陵島という島に焦点を合わせたものではないと思います。

その通りだと思います。
朝鮮王朝の「鬱陵島」についての認識は、ずっと竹島=独島までは到達していなかった。
その「鬱陵島」が、そのまま「鬱島郡」になった、ということだと思います。話は単純ですね。

2016/4/10(日) 午後 5:12 [ cqh*m42**0427 ] 返信する

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Chaamiey様

matsuです。

>池内さんはネット情報には基本的に関心がないので御存知ないのではなかろうか、という気がします。
それは、その通りのような気もします。とすれば、「鬱島郡の配置顛末」「池田公函」については知らないのかもしれません。知らないで本を書くなよ、とまず言いたいです。
でも、いくらなんでも、慎鏞廈(シン・ヨンハ)『独島の民族領土史研究』(知識産業社)(1996)は読んでいるでしょう。
でも「各部請議書存案」について、彼の論を見たことがありません。

2016/4/10(日) 午後 5:16 [ cqh*m42**0427 ] 返信する

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池内さんの「竹島/独島と石島の比定問題・ノート」には参考文献として『独島の民族領土史研究』(1996)がしっかり書いてあります。ホント、石島を論ずるのになぜ請議書に言及しないのか謎です。(そこは読まなかったとか?)

2016/4/10(日) 午後 6:32 [ Chaamiey ] 返信する

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>「誰が分析しても同一の結論に至らざるをえない、歴史学の到達点」(新書カバーうら惹句)

いわゆる「本の帯」ですが、どの本でも惹句は著者本人ではなくて編集者が考えた文章らしいです。

さて「可能性を読み取ることは不可能ではない」という言い回しはあまり好ましいものとは言えません。

極論すれば、99.9%確定している事柄について0.1%の可能性を主張して「不可能ではない」と言うようなものです。
しかも「可能性を読み取る」のが個人の主観に基づくなら、奇想天外な空想小説に等しいものになるかもしれません。

歴史学というのは、残された歴史資料から高い蓋然性を持つ事象を導き出すものだと思っておりましたが…
池内氏はどうなのでしょうか。個人的には「可能性」ばかり追い求めた砂上の楼閣にように思えてしまいます。

2016/4/11(月) 午前 2:31 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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この本には可能性を追い求めた部分が多いと思いますね。「誰が分析しても同一の結論に至らざるをえない」というのは言い過ぎの感があります。

2016/4/11(月) 午後 6:19 [ Chaamiey ] 返信する

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「鬱島郡の配置顛末」と「池田公函」は島根県の竹島問題100問100答に画像付きで紹介されていました(Q37 p94)

2016/4/11(月) 午後 11:07 [ Chaamiey ] 返信する

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あはっ そうでしたか。
だとすれば、知っていておかしくないですね。

池内さんは『竹島問題100問100答』は嫌いだから精読していないのかもしれませんね。新書の参考文献には入っていますが。

知っていて無視するとすれば、先行研究に対する謙虚さと敬意が足りないと言えるでしょう。

(matsu)

2016/4/12(火) 午後 1:05 [ cqh*m42**0427 ] 返信する

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韓国外交部のサイトに画像が掲載されています。以前は見ることができなかった帝國新聞の記事もありますが、相変わらず簡単な漢字が読めずに無知を晒しています。

帝國新聞1906年5月1日付 dokdo.mofa.go.kr/jp/pds/part02_view07.jsp
記事を切り取って見ました。
i.imgur.com/asZ8oGs.jpg
不鮮明ですが、「日人無體」は読めますよね? 「日本人はいない」ではありません。
「日本人が理屈に合わない無茶をした」という意味でしょう。

大韓毎日申報1906年5月1日付 dokdo.mofa.go.kr/jp/pds/part02_view06.jsp
こちらの記事も拡大して見ました。従来より鮮明な画像です。
i.imgur.com/BC7pNY5.jpg
「濶狭」=闊狭 (広さと狭さ) 削除

2018/4/26(木) 午後 9:29 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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こちらは読めなかったのではなく異体字の変換がわからなかったのでしょうか。しかし意味を誤魔化していることから見てやっぱり読めなかったのでしょう。
これらの記事が、1906年5月9日の皇城新聞「鬱倅報告内部」という記事と、
dokdo.mofa.go.kr/jp/pds/part02_view08.jsp
1906年7月13日の皇城新聞「配置顛末」に続くわけです。

そして誤解が融けて、皇城新聞1906年9月23日の「鬱島戸口」に至ったのでしょう。こちらの記事も切り出してみました。(従来の画像より鮮明です)
i.imgur.com/h70gjKn.jpg

この記事掲載までの他の新聞記事を悉皆調査すればもっとよい史料があるかもしれません。古い新聞が読めるサイトは以下にあります。隠蔽されていなければですが。
www.nl.go.kr/newspaper/index.do 削除

2018/4/26(木) 午後 9:31 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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この時期に鬱陵島の人口は急増しています。
1898年には、戸数277戸、人口1137人 (請議書)
1906年では、戸数614戸、人口3032人 (皇城新聞9月23日記事)
i.imgur.com/h70gjKn.jpg
1908年には、戸数900 戸、人口4470人 (1909年1月の郡守報告)
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57490739.html

「1898年の請議書」ということで、おやっ?と思われる方がいると思います。実は、もう一つ鬱陵島に関する請議書があるのです。それは1898年5月のもので、『鬱陵島に島監を置いて地方制度に編入することに関する請議書』というものです。
Chaamieyさんや、matsuさん、Makotoさんたちが、2011年の新春に、ビーバーズ氏のブログで話題にしていたものです。
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/12/1947-sep-2-sok-ju-myong-of-ulleungdo.html
しかし2011年には史料の画像がなく内容を確認することが出来ませんでした 削除

2018/4/28(土) 午後 4:11 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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今回、ネット上を検索したら、それがありましたのでお知らせします。
db.history.go.kr/id/mk_007_0050_0560

これは奎章閣に所蔵されている各部請議書存案(奎 17715)というもので、総数28冊の史料です。ただし、印章判のある原本ではなく「写し」です。この5冊目の56番目の史料がそれです。
147.46.103.182/OIS/MGO/VIEWER.jsp?nodeid=&type=&xmlfile=GK17715_00SK0005_056.xml

この上のURLで画像が映るらしいのですが、私のパソコンではエラーになってしまいます。サムネイルだけは映ります。もしChaamieyさんのパソコンで画像が表示させられるようでしたら、画像と記事のスレ立てをお願い戴きたく存じます。 削除

2018/4/28(土) 午後 4:19 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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ちなみに、1900年10月22日の請議書も同じ史料に含まれています。こちらは総冊数28の冊数番号17 の13番目の史料で、韓国外交部のサイトに掲載されている「写し」の画像史料と同じものであることが、サムネイルから分かりました。
db.history.go.kr/id/mk_007_0170_0130

先日話題にした、「該島地方이 蹤可八十里」とすべきところを「該地方이 蹤可八十里」と「島」を脱字させている史料です。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57256868.html

147.46.103.182/OIS/MGO/VIEWER.jsp?nodeid=&type=&xmlfile=GK17715_00SK0017_013.xml 削除

2018/4/28(土) 午後 4:23 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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後日、記事にしましょう。

2018/5/1(火) 午後 9:18 [ Chaamiey ] 返信する

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宜しくお願いします。
これとは別に凄い史料を見つけました。1906年7月に大韓帝国が、独島を含まない鬱島郡の公式地図を作製していたことが判る史料です。大袈裟な言い方ですが、この時代の韓国の新聞を悉皆的に調査し始めていきなり見つかったので興奮しています。むろん発見したのは、地図そのものではありません。しかし、その記事の内容と日付が重要です。

萬歳報という新聞の1906年7月13日の記事です。
i.imgur.com/QpvNclr.jpg

◎各郡地形更圖
統監府에서内部로公文하야
各郡地圖를一一히送交하야其面積과面과洞里를다시그려■다디라 削除

2018/5/2(水) 午前 1:22 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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1906年7月13日といえば、皇城新聞に「鬱島郡の配置顛末」の記事が出た日であり、また大韓毎日申報に「池田公函」の記事が載ったのと同じ日なのです。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57253440.html
dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2011/07/1906-july-13-mael-shimbo-ikedas.html
この三つの新聞の記事を合わせて考えれば、統監府の池田十三郎に回答した鬱島郡を含めて、各郡の公式地図を更新した地図を作成させたことがわかります。しかもその範囲と面積が、配置顛末の記事と違う数字であることは考えにくい。
しかも『萬歳報』1906年7月3日付けには、朝鮮全域となる十三道三百五十郡について、人口および戸数を詳細に調査する計策があるという『戸口詳査説』なる記事も出ているのです。こうした流れの中で、皇城新聞1906年9月26日の「鬱島戸口」の記事が出たことになります。(2018年4月26日と28日の拙コメント「鬱島戸口」の記事の日付を、9月26日に訂正します。 削除

2018/5/4(金) 午後 2:51 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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「各郡地図を再描画し、更(あらた)めた」という意味に解釈できますので、韓国政府は、1906年7月に、大韓統監府から内務部に通達されて作成されたはずの「詳細鬱島郡更新地図」を公開すべきです。

『萬歳報』1906年7月3日付 雜報の記事は以下です。
i.imgur.com/x0ih5sc.jpg

◎戸口詳査說
十三道三百五十郡의人口와戸數를昭詳히調査■計策으로門戸牌를頌給는事을南北村某某人들이運動한지오래다하는데近日에詳聞則治道水道兩局과警務를擴張한後■亦是一局을設施하고門牌를頌給한다는說이잇디라 削除

2018/5/4(金) 午後 2:54 [ 小嶋日向守 ] 返信する

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