日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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『竹島―もうひとつの日韓関係史』(池内敏氏著)の問題点をいろいろ書いていますが、ここで本の全体を第1章から見てみます。
 
第1章は「于山島は独島なのか」という題で、結論は、「于山島を根拠にして、竹島が古来連綿として韓国領であったという論証は、全く成り立たない」となっています。これは当然のことですね。
 
2章「17世紀に領有権は確立したか」では、今日の竹島への渡海について幕府から公式の許認可(松島渡海免許)があったことは論証不可能なので、「17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」という外務省見解は「致命的な弱点を抱えている」ということでした。これは既に分析したように、外務省の文書を素直に読めないための曲解です。
 
3章「元禄竹島一件」の結論は「元禄竹島渡海禁令をもって、我が国が17世紀末には、竹島の領有権を放棄したことは否定しようがない。つまり、遅くとも17世紀末にはわが国の竹島に対する領有権は存在しない。」というもので、鳥取藩が「竹島も松島も当藩領ではありません」と回答したことを根拠にして幕府の指示書に書かれていないことまで事実認定するのが実証史学だということらしいです。
 
4章「空白の200年」は(1)天保の竹島渡海禁止令と(2)明治10年の太政官指令で、外務省がこの二点について何も触れないことを指摘してあります。
(1)天保の竹島渡海禁止令は幕府が全国に「竹島(鬱陵島)には行ってはいけない」と指示をしたものですが、これまた明文史料にないこと(松島渡海も禁止)が当然に含まれているとの解釈を示してあります。(2)太政官指令については、池内さんはその前著『竹島問題とは何か』以来、太政官は鬱陵島と今の竹島を日本外と指示したという全く証明できないことを、繰り返し繰り返し強調しています。今回は、太政官指令についての議論の終結宣言までありました。終結どころか、池内さんはまだ太政官指令に行き着いてもいないことに気付いていません。
 
5章「古地図に見る竹島」は、(1)「江戸時代の日本図」と(2)「近代日本の海図と水路誌」の2項目で、(1)「江戸時代の日本図」では、江戸時代の日本全体地図40点あまりについて、竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)が彩色されていたりされていなかったりすることの意味などを考察してあります。古地図についての最終結論は次の部分でしょうか。
 

しかしながら、結局のところ完成された幕府製の日本図「官板実測日本地図」には竹島(鬱陵島)も松島(竹島)も記入されなかった。この図は、将軍慶喜の代理として派遣された徳川昭武によって1867年のパリ万博に持参され出品された。日本の領域はそのようなものとして、世界へ向けて発信されたのである。竹島(鬱陵島)・松島(竹島)の記載の有無、彩色の有無だけに頼って江戸時代日本図の解読を試み、日本領か否かの推論を重ねることは、この図の前にあっては意味を著しく減じることになる。
(p144)
 
 
  この文章は、つまり、結局のところ江戸幕府は現竹島を日本領とは考えていなかったのだという意味なのだろうと思いますが、それはまあそうなんでしょうね。幕府は今の竹島を公式に日本の領土として扱うという意思を示したことはなかったようですから。
(2)の「近代日本の海図と水路誌」では、海図と水路誌は領土・領海を示すことを目的とするものではないが、領土・領海意識を反映したものであって、近代日本の海図と水路誌から見れば、1905年の竹島領土編入以前には竹島は日本領とは見なされていなかった、ただしそれがただちに「朝鮮領と見なしていた」ということにはならない、ということが結論のようです。これは、私もそういうふうに考えています。
 
 第6章の「竹島の日本編入」については、たぶん池内さんは竹島領土編入の有効性を認めてはいるのでしょうが、全く重要視していないように見受けられます。
 
 第7章「サンフランシスコ平和条約と政府見解の応酬」では、ラスク書簡に触れながら、「したがって、サ条約においては、その文面上は明記されていないものの、竹島を韓国領と認めるものではないことが明らかである。」とあります。「その文面上は明記されていないものの」という言い方は非常に誤解を招くものですが、結論自体は正しく書いてあります。
 そして、李ライン後の1950年代に日韓両国政府が竹島をめぐって文書による論争を行ったその内容の概略を紹介してあります。
 
 そして、終章です。終章の題名は「「固有の領土」とは何か」です。ここでは、まず第1章からの論述内容の要点を改めて確認した上で、一つの結論が表明されます。
 
 
以上の整理を踏まえると、本書がここまでに明らかにしてきたことは、竹島/独島が自国領であるとする論証のうち前近代史部分については、日本領・韓国領いずれの主張にとっても意味がないということである。それは、提示された論証が学問的にはまるで成り立たなかったり、あるいは示された歴史的事実が現在の領有問題とは無関係だったりするからである。
竹島問題を考える際に注意すべき時期は1900年をまたいだ約10年ほどである。
(p229)
 
 
韓国側の主張が成り立たないのは当然のことですが、池内さんの主張の特徴は、日本政府の見解も否定してしまうところです。「17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」という外務省見解を正確に読めずに、松島渡海免許が存在しないから(つまり、幕府の領有意思を示すものが何もないから)外務省見解は成り立たないというような、無関係なことをしきりに強調しています。外務省の見解に自分で独自に条件(幕府の領有意思が必要だ)を付けて、その条件が満たされないから外務省の見解は成立しないと解説するのは何ともこっけいな論法です。
17世紀には、約70年の間、日本人が今の竹島を他の国から干渉されることなく自由に利用していた時代があったわけで、その状況は正に「日本の領土」そのものです。その状態を外務省は「17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」と表現しているだけのことですね。重要なのは表現のほうではなくて竹島利用の実態なんですがね。
 
もちろん、ここで「日本の領土そのもの」と言っても、それは事実上のものであって、近代国際法上も通用する法的根拠としての効力までは持っていないでしょう。もし仮にですが、日本人による竹島利用が途絶えた後に、朝鮮国が竹島を実効支配するという状況が生じたとした場合、日本が過去70年間の利用実績をもって日本の領土だと主張しても、なかなか太刀打ちできそうにありません。現代の国際司法裁判所の判決例を見れば、過去の歴史的権原よりも明確な実効支配のほうを重視しています。だから、こういう事実上の領有権はときに「不安定な権原」と言われたりします。
しかし、実際には日本は1905年に竹島を公式に領土とし(この領土編入行為は「不安定な歴史的権原を近代国際法上の明確な権原に置き換えたもの」とか「竹島を領有する意思を再確認した」とか説明されることがありますね)、その後実効支配を行って来たし、そうなる以前に朝鮮・韓国が竹島を支配していたという事情はないので、日本は歴史的な事実上の権原に加えて国際法上も十分な竹島領有の根拠を持つことになりました。

竹島問題を決着させる本来の論点は、(1)1905年の領土編入とそれに続く実効支配、(2)それ以前に朝鮮・韓国が竹島を支配したことがない、(3)サンフランシスコ講和条約で竹島は日本領として残った、という3点で話が終わるものであって、17世紀の事実上の領有状態は日本の竹島領有権主張にとって不可欠というものではありません。しかし、現実に、日本という国は遅くとも江戸時代から竹島(今の竹島)という島を知っていて利用していたという事実が存在するわけです。つまり、竹島は古くから日本の領土であると言える要素があるのです。だから外務省はそういう主張をしているわけです。池内さんはそれをわざわざ否定しています。「松島渡海免許の有無」というささいな()史料の検討に埋没して、大きな流れを見ていないと評すべきでしょうか。
 
そして、おそらく、この17世紀の事実上の領有状態があるからこそ、外務省は竹島のことを「日本固有の領土」と表現しているものと思われます。竹島についての「日本固有の領土」という表現は1962年の韓国政府あて日本政府の覚書に初めて登場したそうですが、1905年の領土編入以後の歴史しかないならば、57年前に初めて領土とした島のことを「日本固有の領土」と表現するのは、間違いではないにしてもちょっと大げさなような気もしますが、17世紀にさかのぼる領有の歴史があるから堂々と「日本固有の領土」と言えますね。竹島は17世紀以来の日本の領土である、ということです。

17世紀の事実上の領有状態は現に存在したのであり、その事実は消えることはないですから、それを否定することはできないのです。
 
 
 

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>竹島問題を決着させる本来の論点は、(1)1905年の領土編入とそれに続く実効支配…

この段落、全くの同意です。
17世紀の「日本の領有権」というのは「絶対不可欠な根拠」というものではありません。
ただ、1905年の島根県編入以前に「日本の実効的な『経営』」が存在する、という事を指摘しているだけものなんですよね。

『経営』そのものは、その行使の仕方によって「強い証拠」だったり「弱い証拠」だったりします。その上で考えると、17世紀の「日本の領有権」というのは「弱い証拠」でしょう。でも、弱かろうと証拠は証拠です。
そして国際法(判例や法学者の意見の両方が一致しています)では、領土問題は「相対的強さの比較」の問題であり、弱い証拠でも別に問題はありません。

しかし池内氏は勝手に「証拠は必ず強くなくてはいけない!」と独自の条件を設定しているだけのように感じます。

2016/3/23(水) 午後 10:24 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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そういうことだと思います。17世紀の事実上の領有権は、国際法上の根拠に対するプラス・アルファですね。しかし、ことは領土問題ですから、このプラス・アルファは相対的には軽いものであっても、けっこう重要なものだと思います。

2016/3/24(木) 午後 5:40 [ Chaamiey ] 返信する

日本の占有が「誠実な占有」か「悪意ある占有」か、という判断に17世紀の領有権は関係してくると思います。

国際法では占有について「善意・悪意関係なく占有そのものを重視する説」と「悪意ある占有を排除して誠実な占有のみを認める説」があります。

日本は17世紀の領有権主張を行うことにより、それ以降の占有が「誠実な占有」であると説明しているように見えます。
もっとも1905年の先占では「他国による占有が確認されなかった」という理由を挙げているため、それ単独で「誠実な占有」です。
そういう意味では「無視できるほど弱くはないが必要不可欠というほどでもない」というのが17世紀の領有権の評価かな?と考えています。

韓国側は、それにイチャモンをつけて、「17世紀には領有権は確立しなかった」=「それ以降の占有は悪意ある占有だ!」と短絡的に決めつけているようです。
もっとも韓国自身の価値基準だと、現在の竹島占拠は「悪意ある占有」ですね。

2016/3/25(金) 午後 1:01 [ mam*to*o*1 ] 返信する

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拝読いたしました。第4章 天保の竹島一件。竹島・松島の関係を当局(幕府≒対馬藩)がどう考えていたのか!?ということがわかりました。池内氏の(1)の解釈は、当の対馬藩が必ずしもそうとはいえない、としています。ただ氏の採る説は多数説ではあったと思います。無所属説も少数説ながらあった。1904年からの編入手続きは、それを具現化したものと考えれば怪しむに足りない。

第5章 管理人さんの説明(2)は、前代からあったリャンコ島無所属説そのものだと思いますね。第6章の国際法に基づく編入手続きの有効性の有無の決着は、やはり氏もいうように(赤い字P229)1900年前後の事実関係から決するべきでしょうね(Gの持論は、1900年大韓勅令~1906年7月配置顛末・笑)。第7章 サ条約での結論は、起案過程の検証から韓国側研究者も認めている。でしょうか!

2016/3/25(金) 午後 11:56 [ gku***** ] 返信する

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